1.思い立ったが吉日

今は、雲の上を音速で飛んでいる。キャノピィ越しに見えるのは、真っ白な雲海と、真っ青な空だけだ。どこまでも続いていて、行ったことはないけれど、まるで天界のようだと名前は思った。
名前がジェット戦闘機に乗ったのは、戦後何十年も経った時だった。空軍に居る知り合いから、大戦時のエクスペルテンの実力を若い奴らに見せて欲しいという電話がそもそもの始まりだった。戦闘機は大戦が終わって以降乗っていなかったので最初は迷っていた。確かに試作機のMe262には一度だけ搭乗したことがあったが、それも何十年と昔の話だ。まあしかし、少し訓練すればジェット機のコツもすぐに掴めた。レシプロとジェットでは推進力等の面において全く違い、時代が進んでいるのだということを深く感じることができた。その後は、まあ言わずもがなである。上司に頼み込んで空軍に籍を作り、教官として新人パイロットの教育を熱心に行っている。
名前は、今日の朝、胸のドキドキを押さえながら、アーサーに電話をした。アーサーはコール3回目ですぐに出てくれた。会いに行く旨を伝えると、とても喜んでくれた。
少しばかり話をして、昼にロンドンのアーサー宅で会う、ということになった。移動の時間を考えれば妥当な時間だった。しかし、それよりも早くロンドンに着く術を名前は持っていた。そう、戦闘機に乗ることだ。
遷音速の旅客機に乗るよりも、超音速まで出せる戦闘機のほうが早くアーサーの家に着くことができる。そのまま、アーサーを驚かせてやろう、という魂胆だ。
名前はすぐ空軍に電話をして、戦闘機を一台得た。ここから、一番近い空軍基地までは暇を持て余していたギルベルトに送らせた。ギルベルトは道中ぶつぶつとずっと文句を言っていた。しかし、文句を言いながらもちゃんと基地まで送ってくれた。もっと素直になればいいのに、と思ったのは内緒だ。
空軍基地に着いて、名前はフライト用のジャケットを着た。ブライズ・ノートン空軍基地にはすでに連絡をしてあるので、後はもう向かうだけだった。
格納庫に向かうとそこにはギルベルトが立っていた。

「お前ももうちょいお淑やかになれよ」

しかし、名前にヘルメットを投げ渡しながら言うセリフでは無い。ケセセと笑うギルベルトを見て、本当に良い理解者を持ったと名前は思った。良い奴だな、とは絶対に口に出さない。ギルベルトが調子に乗るからだ。

「無理だ」

「ルッツが頭を抱えていたぜ。戦前の優しいお姉さまに戻って欲しいってよ」

「今も優しいじゃないか」

「戦闘機に乗るようなジャジャ馬は嫌だってことだよ」

「行って来る」

ヘルメットを被って機体に乗り込み、整備兵に左手の親指を立てて合図を出すと、ギルベルトは後ろに下がって行った。格納庫の扉がゆっくりと開いていく時間はとても長く感じた。キャノピィを閉めて、誘導されながら滑走路までタクシングした。前にまっすぐ伸びる滑走路を見ていると管制室から通信が入った。

「準備はいいか?」

無線から聞こえてきたのは、何とギルベルトの声だった。いつの間に格納庫から管制室まで移動したのだろう。

「問題ない。離陸許可を」

「……離陸を許可するってよ。楽しんでこい」

「了解。土産を期待せずに待っていてくれ」

しばしのわかれを告げ、名前はドイツの大空に舞い上がった。飛行は順調だった。
さすがに、ドーバー海峡を飛んでいる時は大戦時の事を思い出して、胸が辛くなった。しかし、いつまでもうじうじと悩んではいられない。もう戦争はとっくの昔に終わっているのだ。
そうこうしていると、すでにイギリスの本土上空にたどり着いていた。イギリス本土上空なのに、対空砲火もなければ、戦闘機も出てこない。平和とはいいものだと、名前はつくづく思った。
ブライズ・ノートン空軍基地に連絡を入れると、管制官からすぐに返事があった。
名前が乗った戦闘機は基地の滑走路の軸上に乗り、斜めに降りて行く。何も問題はなかったので、そのままランディングの態勢に入った。機首をゆっくりと引き起こしながら、端から滑り込むように滑走路に接地した。
名前はタイヤが転がる音を聞きながらブレーキをかけて、減速させた。滑走路を途中で曲がり、指示通りに格納庫までタクシングさせる。格納庫前で停止させてキャノピィを開けると、すぐに整備員が近づいてきた。

「お待ちしておりました」

整備員はあまり上手くはないドイツ語で名前に話しかけた。顔は緊張で、引きつっているような笑みだった。名前はベルトをはずして、先尾翼をステップ変わりにして地上にジャンプして降りた。

「この子を頼むよ」

名前の英語を聞くと、整備員はほっとしたように緊張の面持ちを崩した。

「はい」

名前が整備兵の持ってきた入国のための書類にサインをすると、基地の司令だと名乗る男がやって来た。
整備員が背筋を伸ばして敬礼をした。名前はそのまま男が案内するまま後をついて歩いた。整備員は戦闘機を格納庫の中に入れる作業に入った。

「突然の事なので当方も困惑しています」

「迷惑をかけているようだな」

「もちろん」

司令官は感情を映さない瞳で名前を見た。名前がブライズ・ノートン空軍基地にこうして戦闘機できているのは一度や二度ではない。その度に、司令官が対応に追われていることは知っている。

「ロンドンまではどうなさるおつもりですか?」

「鉄道に乗る予定だ」

「……IFの話だが、あなたに何かあっては国際問題になる。私が車で送ろう」

「そうかい? では、頼むよ」

シャワーをして、服を着替えた名前を待っていたのは、鈍い銀色を反射させて光るジャガーだった。アーサーもジャガーに乗っていたな、と思いながら司令官がドアを開けた後部座席に乗り込んだ。司令官直々に運転し、とても快適にロンドンまで着くことが出来た。アーサーの家がある近くまで案内してもらい、名前が下りようとすると、司令官は静止をかけた。何事かと思っていると、司令官が車から降り、後部座席のドアを開けた。

「おや、ありがとう」

司令官はにこりとも笑わなかったが、名前は満足した。用が済み、司令官はさっそうとジャガーで道を走って行った。
アーサーが兄弟達と住んでいるマナーハウスがあるのは、ロンドン郊外の白い壁が続く閑静な住宅街だ。記憶を頼りに、いくつかの角を曲がる。くるりと周囲を窺いながら進むと、薔薇の庭園が見事な家が見えてきた。
名前は嬉しさを隠しきれず、自然とかけ足になる。熱心に庭いじりをするアーサーの姿を見た途端、名前は駆けだしていた。

「アーサー」

呼びかけると、アーサーが振り向いた。名前は驚いた顔のアーサーに思わず抱きついた。とりあえず、今日の目的は果たされたと言っていいだろう。名前は胸いっぱいにアーサーの香りを楽しんだ。

「名前!? え? だって、ドイツからじゃまだ時間がかかるはず……」

「アーサーに会いたくて飛んできた」

「まさか……」

「少しだけだ」

「……頼むから、戦闘機は止めてくれよ」

「私から楽しみを取るつもりか?」

「心配してんだよ」

名前とアーサーは顔を合わせた。鼻先が今にもくっつきそうな距離だった。名前は嬉しくなって目を輝かせる。目の前に大好きな人がいるのだ。胸が高鳴ってしようがない。頬を染めるアーサーを見ていて、名前は何だかとても心地よい気分になった。

「アーサーは可愛いな」

「お、男に可愛いなんて言うな、ばかぁっ」

「本当のことだよ」

名前には反論するアーサーが可愛くて仕方がない。どんな些細な行動でも愛おしい。どうしようもないくらい、愛しているし、惚れている。まったく、愛しすぎてダメになりそうだ。


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