故にそれは諦める他ないもので

 ウェールズ家の執務室にノックの音が響く。かと思えば、その扉は中で仕事をしている男の返事を待つことのないままに開け放たれる。
「ねえ、アグロヴァル。パーシィが近くまで来てるみたいよ」
 突然彼の前に現れた女は、そうすることが当然のように笑みを浮かべながらこの部屋来るまでに小耳に挟んだ情報をそのまま口にする。
 しかし男、アグロヴァルはそれがどうしたと言わんばかりに冷たい目で彼女に視線を送る。さも興味なさげに「そうか」と返し、すぐさま机上の書類に視線を移すその姿が、彼女の笑みを深める。
「可愛い弟が来てるのにその態度なの」
「アレに可愛いはないだろう。そも、用があるなら彼方から来るだろう」
「ま、そうだけどねえ。なんか面白いことありそうだしつついてこようかしら」
「おい」
 鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気を醸し出すなまえに、アグロヴァルは眉をひそめる。彼女が何を考えているのかわからないほど付き合いが浅いわけでもなく、それが自分にとっていい方向に向かうことはあまりない。広い目で見れば間違いなく自分のためになっていることでも、瞬間の不快感はできることならば避けて通りたい。
 なまえもなまえで、アグロヴァルがどういう思いを抱いて声をかけ、顔を歪めて自分を見ているのか理解した上で、彼の思惑から外れようとする。
 つまらないのだ。刺激のない安定した日々に縛られているような息苦しさを覚えてしまう。だから、こうして自ら動いて壊していく。何も大きく変えるわけではない。少しだけヒビを入れて、そこから吹き込む空気で呼吸するだけで彼女は一応満足していた。
 それに、愛称で呼ぶ弟のような存在にも久しぶりに会いたい。彼女の中で1番大きな思いはそれである。
「あら? アグロヴァルも行きたい?」
「……」
「呆れたように見るのはやめて」
 なかなか顔を見せない弟たちを内心、すごく心配しているくせに。素直じゃない。誰に似たんだか。と肩を竦めながら、なまえはゆっくりと彼の側へと歩み寄る。
 執務机を挟んで身を乗り出した彼女は、抵抗する様子のないアグロヴァルの額にそっと口づけを落とした。
「素直じゃない貴方のために私が行ってきてあげる。感謝して頂戴」
「頼んだ記憶はないがな」
「やっぱり素直じゃない」
 くすくすと笑みをこぼしながら、彼女は「そんなところも好きよ」と想いをそのままぶつける。彼はそんな言葉は聞き飽きたと言わんばかりに「そうか」とだけ返した。棘のない言葉に満足したのか、なまえは無愛想な自らの婚約者へと背を向け、部屋を出る。
 昔はもう少し可愛げがあったんだけど。なんて思い返して少しだけ後悔する。アグロヴァルの周りを囲う壁が今ほどに高くなったのはとある事件がきっかけだ。その事件は彼女にとっても辛いものだったから、思い出したことで悲しい気持ちがじわりじわりと染みのように胸の内に広がっていく。
 自分のことをまるで娘のように扱い、柔らかな笑みを浮かべて「なまえちゃんみたいな子がお嫁に来てくれるならきっと幸せね」と言ってくれた彼女はもう居ない。
 ずしりと重いその言葉は、今でも尚なまえに影を落とす。なまえは彼女の娘になりたかった。なまえはアグロヴァルに淡い恋心を抱いていた。たとえ政治的に利用されるだけの身であったとしても、婚約については喜ばしく思っていた。
 ……その気持ちは今でも変わらない。ただ、問題があるとすればその婚約自体が揺れ動いているからだろう。今やなまえの実家はさほど力があるわけではなく、アグロヴァルの婚約者には新しい名前がいくつも浮かび上がっている。
 力のある家は他にもあって、情勢が変われば彼女も彼も"婚約者"は変わっていく。選ぶ権利も力も、なまえには持ち得ないものだ。ならばせめて想う人の心に残りたい。ことあるごとに「好き」を繰り返す彼女は、そうしなくてはならない理由があるからだ。
「……なんて、ね」
「……まだここにいたのか」
 馬鹿馬鹿しいとひとりごちていたその時、背後から大好きなその人の声が聞こえてきた。慌てて振り返れば、まごうことなきアグロヴァルがそこに居て、なまえは言葉をなくして目を瞬かせることしかできない。
 時間にして数秒、沈黙が降りた。呆れたような顔をしている彼を見て、彼女はようやく口を開いた。
「見送りなんて気が利いてるじゃない」
 やっとの思いで口にした言葉は、存外そっけない響きをしていた。嬉しいくせに、とっさのことに頭がついてこない。彼が見送りに出てきたわけではないことくらい誰にだってわかることだ。あえて彼女がそんな言葉を選んだのは、そう言うことで本当に見送りをしてくれるのではないかと計算してのことだった。
 だというのに目の前の男は冗談じゃないと皮肉げな笑みを浮かべた。
「見送り? 何のことだ? 向かう先を間違っているから呼び止めにきたのだが」
「は?」
 パーシヴァルの居る辺りならばおそらくそうすぐには変わっていないはずだ。というより、向かう先が分かっているからこそ先回りができるのだ。それが違うと彼は言うのだろうか。
 状況をつかめていない彼女に、アグロヴァルは「ついてこい」とだけ言葉を残し、踵を返す。エントランスどころか、城の奥へと向かうその足取りに疑問を抱きながらも、これでついて行かなかったら面倒になることを察した彼女は、おとなしくその背中を追いかける。
「ねえちょっと」
 異を唱えようとするなまえには目もくれず、彼は広い城内の先導をする。彼女とて、この城を訪れるのは初めてではない。彼の向かう先がある程度予測ができているからこそ、抗議の声をあげる。
 先ほど訪れた彼の執務室を通り過ぎ、更に先へと進んでいく。この先に待ち受けているのは彼の自室だ。それが分かっているからこそ、彼女は戸惑いを隠せずにいる。
「ねえ。私パーシィに会いに行くんだけど」
「必要ない」
「あなたの代わりに会ってきてあげるんだけど」
「頼んでいない」
 その言葉に、彼女は諦めたように「まあそうね」と言い捨てた。今この状態のアグロヴァルに何を言ったところで意味がないのは、嫌という程わかっている。
 彼の自室に吸い込まれるように招き入れられた彼女は、慣れた様子で二人掛けのソファに腰掛ける。紅茶の一つも出て来ないそこで、彼女は半身を横たえて天井を仰ぎ見た。
「……ねえアグロヴァル」
「何だ」
「西のお嬢様とはどうなったのよ」
「どう、とは? 何が言いたい」
 視線は天井に向けたまま、唐突に投げかけられる言葉。何の事だかわかっていながらも問いかけるアグロヴァルに、彼女はその先の言葉を口にすることはない。正確には、決定的な言葉を自らの口から吐き出すことを避けているのだ。何事かを口にしようとしてはやめ、自分にすら届かないような小さな声で小さく呟くことの繰り返しだ。
 アグロヴァルは、そうすることが必要だと言わんばかりにただ、彼女からの言葉を待つ。なまえがどういう人間かわかっているからこそ行われる儀式にも似た時間。そうすれば、彼が求めていた答えが必ず返ってくるのだとわかっているのだ。そして、それが彼にとってはわざわざ聞かねばならぬものだと言わんばかりに問いかける男に、なまえは辟易としながら溜息をつく。
「そうね。貴方そういう男だったわね」
 それも含めて好きだと言ってしまえばそれまでなのだが、相手の態度によってどうにも素直になりきれない。
 このままでは堂々巡りであることを知っているからこそ、彼女は自ら折れるほか道はないのだ。その言葉を口にするのは憚れる。しかし言わねば先に進むものも進まない。
「婚約の話が出てるの、私の耳に届いてないとでも? 貴方の婚約者は私だけで充分でしょう」
「婚約者はもとより複数存在するものではないはずだが」
「それが私じゃなくなったら呪うわ」
「物騒な事を言うものではない。……とはいえ、ああ。我が婚約者は後にも先にもお前だけだろう」
 まさか彼の口から肯定的な言葉が出てくるとは思ってもいなかったなまえは、目を瞬かせて目の前の男を何か得体のしれないものを見るかのように眺める。
 少なからず、想い合っているという自覚はあったし、彼からの愛情を感じることもあった。ただ、それを明確な言葉で表されることは幼い頃を除いて初めてのように思える。
 そんな彼女の反応に「何を今更」と言わんばかりに彼も溜息を落とした。
「何だ、その顔は」
「予想以上の言葉に驚いてるのよ。珍しいわね……明日は雪でも降るのかしら」
「明日は晴天だそうだ」
「それなら槍ね。貴方がそんなこと言うなんて只事じゃないもの」
「失礼だな。何なら毎夜枕元で囁いてやってもいいんだが?」
 ここまでくると本物かどうかを疑い始める。アグロヴァルの言葉に、なまえは訝しむような視線を投げながら「頭でも打った?」なんて聞く始末だ。
 なまえはゆっくりと上体を起こして両手を顔の横まで上げる。降参だ。口にはせずともそれが伝わってきて、アグロヴァルは口角を上げる。
「ああ、もう。その嬉しそうな顔。何とまあ憎たらしい」
 そう言ったところで目の前の男はなまえの反応を見て喜ぶだけだ。本当にタチの悪い。そう思いはしても、実際それが嫌かというとそうでないのがまた問題だ。
 彼女は再び呆れたように溜息をついて、ソファの背もたれに体重を預ける。
「それで? 毎晩私の枕元で囁いてくれるほど現当主様はおヒマなのかしら?」
「……そうだな、まずは引越しの支度をせねばな」
 そう笑う男の真意がつかめないのが彼女にとっては癪であるが、とりあえず好きに言わせておこうと放置することにした。
 それが後日、彼女の頭痛の種となるのだが今はただ、戯れの言葉だと気にも留めないのであった。