「えいちくん!」
「やあ、なまえ」
天祥院邸に到着するなりそわそわと落ち着きのなくなっていた少女は、目的の人物が出迎えてくれたことを視界に入れた途端、輝かんばかりの笑顔で駆け出した。
大人たちの生死を物ともせず、彼女は勢いそのままにぴょん、と英智に飛びついた。
あまりの勢いによろめきながら、英智はなまえを受け止める。
「はは、相変わらずなまえは元気だね」
「だって、えいちくんにあえたんだもん!」
年齢が二桁にすら届かない少女からの直接的な好意は、あまりにも純粋で悪い気がしない。それが彼女の要求には極力応えていきたいと思う理由の一つである。
その他の大人たちは、二人の様子をどこか落ち着かなさげに眺めることしかできない。何と言っても二人が……他でもない英智がなまえの行動を許容している。
以前仲裁に入った折、英智が笑いながら「構わないよ」といったおかげで余計に手を出しづらい状況になっている。
「えいちくん! あのね! きいて!」
嬉しそうに彼にしがみついたままのなまえははしゃぐ。それを笑顔で受け止めつつも、徐々に顔色が変わっていく英智。
もともと、今日の英智の体調は良好とは言えなかった。それでもなまえが来るからと、使用人の制止を押し切って彼女の前に立ったのだ。
体が強いとは決して言えない彼が、無理をしてなまえにあわせてしまえばどうなるかは火を見るよりも明らかである。つまり、それは起こるべくして起こった事件だ。
「えいちくんだいすき!」
「僕も、だよ……」
再度飛び跳ねるなまえを受け止めたとき、その時は来てしまった。なまえのタイミングが悪かったという、ただそれだけのはずだ。
少なくとも英智は、それが彼女のせいであったなどとはかけらも思っていない。それよりも思い返せば申し訳なさすら覚えていた。
つまるところ、彼は限界を迎えたのだ。好意を素直に受け止めようとしたが、それは叶わなかった。大勢の前で倒れまいとしていた英智だったが、なまえへの返答もそこそこに膝から崩れ落ちる。
それからはあっという間である。主治医が現れ、救急車が走り、青い顔をして冷や汗を流す英智を見て、なまえはただ泣くことしかできない。
――それが一つの変革期である。この事件をきっかけに、なまえは変わった。天真爛漫そのものであった少女は、それとは真逆の妙に大人びた静かな子へと変化を遂げたのだ。
それこそ、周りが驚くほどの変化である。外で遊ぶのが好きであったはずの少女は、いつしか室内で本を飲むことが趣味になる。駆け回るのをやめ、花開くような笑顔が少しの憂いを帯びたような微笑みへと変わる。
英智がそんな彼女と再会したのは、少し長い入院から帰ってからだ。
普段ならば入院中も見舞いだなんだと彼に心地の良い喧騒をもたらしていたはずの少女が一度泣きながら見舞いに来たきりピタリと音沙汰も無くなった。
疑問には思ったが、幼い子供ならば興味の移り変わりなどよくあることだと特に気にすることはなかった。おそらくは、それも悪かったのだろう。
「えいちくん」
「なまえ? 本当になまえかい?」
「うん。もうからだはだいじょうぶ?」
不安げに揺れる瞳が英智を見る。ああ、この子は自分を気遣ってこんな態度なのだろう。そう思った英智は、「もう大丈夫だよ」と微笑みを返す。
そうしたら、きっといつものように小さく跳ねながら抱きついて来るものだとそう思っていたのに。
なまえは英智の顔色を伺いつつ、静々とそばにやって来る。そんななまえを見たことがない英智は、驚いたように目を見開く。来るはずの衝撃がこない。それだけでここまで物足りなさを覚えるものなのかと目を瞬かせる。
「どうしたんだい?」
「? えいちくんがげんきそうでよかった」
問われた意味がわからないのか、小首を傾げて英智を見るなまえだったが、すぐに控えめに笑いながら、そう返す。
心の底から安堵したような顔。入院をするほどまでに追い詰めてしまったと、子供ながらに自らを責めていたなまえは、そこでようやく心の底から安心することができた。
あのまま、自分の目の前から消えてしまうのではないかという危惧を抱いていた彼女は、彼に飛びつきたい想いと戦いながらもそれを笑顔でいなす。
まるで大人が作り上げるような抑えた笑みに、英智が疑問を抱かないはずがない。彼女の保護者兼SPを務める男に目を向ければ、その人は困ったように笑みを作る。
「おかしいな。いつもならなまえを抱きしめているところなんだけど」
「ふふ、へんなえいちくん。わたし、そんなにこどもじゃないよ」
返された言葉は、未だ幼稚園にも入らない少女のものではない。いよいよ不審に思って少女の傍らの男に目を向ければ、やはり彼は困ったように笑ってから、そっと英智に耳打ちをする。
曰く、英智が入院したあの日、英智が意識を失ってからなまえは大泣きして「ごめんなさい」と、謝り続けてたという。
それからは大人たちも戸惑うような速度で、おしとやかを絵に描いたような立ち振る舞いをするようになったらしい。あまり積極的ではなかった華道やピアノなどの習い事に打ち込むようになり、それとは対照的に外ではしゃぎ回ることが一切なくなった。
それまでは元気の有り余るなまえに手を焼いていた大人たちも「いつも通りでいいんだ」と言い聞かせるようになった。しかしなまえは首を横に振ってそれを聞き入れようとしない。そうして出来上がったのが今の彼女だった。
見ず知らずの大人に、礼儀の正しいお子さんだと言われて安堵したように笑みをこぼす子供。
「なるほど。なまえは大人になったんだね」
僕としては、少し寂しくもあるかな。そう、本音を織り交ぜて彼女へと投げかける。しかしなまえはどこか困ったように眉を下げて「いままでがこどもすぎたもの」と返す。
それから、やはり不安そうな顔で英智を見る。
「えいちくんは、こんなわたし……きらい? いやになる?」
それこそ本音を言ってしまえば、以前のなまえの方が好ましい。自分に対してあんな風に接して来る人間は少ない。故に、残念に思う気持ちがないとは言えない。
ただ、嫌いかどうかと問われればそうでもない。嫌かどうかなんてもはや論外ですらある。
「そんなわけないだろう? まったく、なまえは可愛いね」
「ほんと? ほんとに?」
「本当だよ」
「ふふ、えいちくん、すき」
いつもと同じ言葉は、いつもと違う微笑みで音になる。来るはずの衝撃がこないことに少しの物足りなさを覚えながらも、英智はそれを甘受する。
出来ることならば、以前のような彼女であって欲しいと心のどこかで思いながらも、微笑みを携えて可愛い妹のような少女の頭をそっと撫でるのであった。