おかえり。柔らかな喧騒よ

 MANKAIカンパニー。そこに彼がいると聞いたなまえは、場所を調べながら、大きな荷物を引きずって一歩一歩進んで行く。
 一歩地面を踏みしめるごとに怒りが湧いてくる。何故。大事なことではないか。そもそも連絡をよこさないとは何事か。そんな思いが徐々に膨れ上がり、キャリーバッグを引く手に力がこもる。曰く劇団の寮にたどり着いた彼女は、大きく深呼吸をして、笑顔を貼り付けてからインターホンを押した。
 それから待つ事十数秒。綺麗な女性が一人、姿を現した。
「はーい」
「突然すみません。雪白東はここにいますか?」
「東さん、ですか? ええと……失礼ですが貴女は?」
「私、みょうじなまえという者です。もし居るようなら彼をここに呼んできてはいただけませんか?」
 にこやかに、にこやかに。そう胸の内で唱えつつも内心穏やかではいられない。目の前の女性は誰なのだろうか。互いに同じ疑問を抱きつつも、なまえの胸中は荒れに荒れていた。
 この人、彼と共に住んでいるのだろうか。彼も節度はある人間だと思いたいが、前例がある。所謂セックスフレンドを複数持っていた彼は、来るものを拒むことはあまりない。
 女性は首を傾げつつも、「呼んできます。中でお待ちしますか?」と問いかけてくる。しかしこれから起こるであろうことを思うのならば、それは避けるべきなのかもしれない。中に入ればきっと寮生達がいるわけで、そんな中でするような会話ではない気がした。
 いえ、ここで待ちます。と彼女の申し出を断ったなまえは、お気遣いありがとうございます。と付け加える。
 なまえの言葉を聞くなり女性は屋内へと戻る。それから少ししてから、ようやく目的の人物が姿を現した。
 透き通る白い肌。太陽光を受けて輝いて見える白銀の髪。女性顔負けの美しさを持った華奢な男は、なまえを見るなり驚いたように目を瞬かせた。
「あれっ? なまえ、帰ってたんだ」
「東さん……いったい何やってるんですか!」
 男を視界に入れたなまえの第一声はそんな言葉だった。怒気を含んだそれに東は肩を竦める。彼女の言わんとしていることは理解していたが、涼しい顔であえて「何って……役者だよ。舞台役者」と返す。
 そんな答えをきいたなまえは我慢していたものが溢れ出してしまったが如く、言葉の銃弾を浴びせかける。
「連絡もつかないし、いったい私がどれだけ心配したと思ってるんですか! おかげで仕事も気が気じゃないし……おまけに帰ってきてみれば元のマンションは空き部屋になってるし引っ越しって何!? 私何も聞いてないんですけど!? 私なんかには話すようなことじゃないってことですか!? わかりますか!? 久しぶりに帰国したかと思えば東さんはいなくなってるし噂を頼りにこの街を歩いてみれば役者になってるし! 私のことなんて忘れちゃったのかと思ったじゃないですか! なのに謝罪もなしに「帰ってたんだ」? ええ、そりゃ帰ってきましたとも! 予定よりもだいぶ早くに仕事終わらせましたとも! 会社で表彰されるレベルの偉業とまで言われましたけどねえ! そんなの関係ないし、急いで帰ってきたらそれ! 私一応LIMEで連絡入れてましたよね!? 見ました!? 見てないですよね。反応がおかしかったですもん! 私のことなんてもうどうでもいいんですか!?」
 一息で言い切ったなまえに東は感心したように声を漏らした。まるで人ごとのようなその反応に再び頭に血が上ったなまえは、第2段を発射すべく再度口を開く。
 彼女が喉を震わせるよりも早く、東は困ったように笑いながら「ごめんね」と返した。一瞬それによって動きを止めたなまえに、彼は涼しげな表情で寮を指差す。
「とりあえず、疲れてるだろうし入りなよ。ちゃんと聞くから」
「でも――」
「人目が気になるならボクの部屋でもいい。それにキミ、今だいぶ目立っているから中でも外でも変わらないよ」
 そんな東の言葉になまえは我に帰る。遠巻きにしてこちらを見ている複数の視線。自分たちを伺い見るようなそれに、なまえは「やってしまった」と後悔を抱く。
 いつもそうなのだ。彼に振り回されている時の彼女は、あまり周りに気を配ることができない。渋々と彼の後についてくるなまえに、東は柔らかく微笑んで「いい子だね」と言葉を落とした。

 所変わって談話室。普段は劇団員たちで賑わうそこも、今は重苦しい空気に支配されている。
 そんな場所に呼び出されてしまった立花いづみは、所在なさげに視線を彷徨わせながら会話をするための言葉を探す。こんな状況で呑気に「天気がいいですね」なんていう当たり障りのない言葉が口にできるほど豪胆ではなかった彼女は、言葉を見つけては飲み込む。の繰り返しであった。
 そもそも、なまえが「責任者の方にご挨拶を」と言い始め、いづみはこの場に残ることとなった。いつもならば暇そうにしている支配人がいるのだが、どういうわけか今日はどこにも見当たらない。
 こういう時くらい役に立ってくれればいいのに。と心の中で毒づいて、いづみは明らかに空気の重い談話室へと腰を落ち着けるのであった。
 最初に挨拶を交わすまではよかったのだ。いづみが顔を出した瞬間、重苦しい空気は霧散しなまえは笑顔で彼女を迎え入れる。それでおきまりの挨拶を交わし、会話が途切れた瞬間になまえの視線が東に突き刺さる。そしてこの空気だ。
「ええと……立花さん?」
「はっ、はい」
「すみませんね、こんな……」
「主になまえのせいかな」
「東さんのせいですよ」
 諸悪の根源! と睨まれても、東は楽しそうに笑っている。彼女が怒れば怒るほど、楽しそうにしている東をいづみは頭を抱えたい思いでみる。
 普通の知り合い程度の仲ではないことはわかる。恋人というほどの甘さは感じられないが、一番"らしい"関係はそれだ。
「うーん、なまえ。カントクはそろそろ稽古に戻らなきゃいけないから解放してあげてもいいかな?」
「あっ、気づかずにすみません。この人と話をつけたらすぐに帰るので」
「いえ! でも……」
「大丈夫だからほら、行っておいで。みんな待ってるだろうしね」
「私のことは気にしないでください」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
 失礼します。続けて彼女はようやくその場から解放される。そそくさと逃げるようにとまではいかないが、足早に立ち去るいづみを見ながらなまえは小さく「綺麗な人ね」と呟いた。
「嫉妬しちゃった?」
「少しね。私がいない間この人といたのかと思うと妬ける」
「別にカントクと二人っきりってわけでもなかったけどね」
「わかってる。だから、一緒に行く? って聞いたのに」
「キミの仕事の邪魔はできないよ」
 困ったように笑う東に、なまえは徐々に雰囲気を和らげていく。怒るのはもうやめたらしい。
 なまえの怒りが萎んでいくのを感じた東は、おもむろに立ち上がって彼女の隣に腰を落ち着ける。
「東さんは邪魔にならないもん」
「ボクにヒモになれって言ってる?」
「似たようなものじゃない」
「相変わらずひどいなあ」
 東が隣に来るなり、なまえはその肩に頭をのせる。じわじわと布越しにやって来る体温が、これは現実であると伝えてくれる。
 怖かった。一人で仕事に没頭している時も、なまえは頭の片隅で独りになってしまう恐怖に怯えていた。
「帰って東さんの荷物がなかった時、怖かった」
「ボクが居なくなっちゃうって?」
「ありえそうだもん。半年よ、半年。何もかも変わってしまうのに十分じゃない」
「……」
「東さん、寂しがり屋だし……」
「……うん、そうだね」
 肩に置かれた頭の重みが、東に安心感を与える。半年、不安を抱いていたのは何もなまえだけではない。それこそ東の方がずっと不安とともにいた。
 互いに心変わりをするようなタイプではないとわかっていながらも、心のどこかではそれを断言出来ずにいる。それがこの二人だ。
「でも……東さんは……ここにいた、の……」
「なまえ?」
 徐々にはっきりしなくなる口調に東が呼びかければ、肩にかかる頭の重みが増していることに気づく。寝つきがいい方だとは決して言えない彼女が、ここにきてプツリと意識を飛ばしてしまったようだ。
 長旅の疲れも出たのだろう。軽く揺すってみても何事かを口にするようにもにょもにょと言葉にならない何かを呻いている。
 しょうがない。苦笑を滲ませながらも東はなまえを抱き上げる。
「こういうことは俺のすることじゃないんだけどな」
 なまえを横抱きにしながらしっかりとした足取りで自らの部屋へと向かう。そんな彼を遠巻きに見ていたのは秋組の面々だ。
 東さん、と真っ先に声をかけてきたのは臣だった。よもやあの東が女性一人を抱えて歩くなど思いもよらなかったのだろう。
 変わろうと手を差し伸べるが、東は笑ってそれを拒否する。
「悪いんだけど、彼女の荷物を持ってきてくれるかな?」
「わかりました」
「その女性、東さんとどういう関係なんスか?」
 皆が聞きたかったであろうことを、太一がおずおずと問いかける。
 東が目を瞬かせて視線を巡らせれば、その場にいた誰もがその答えを待つように自分を見ていることに気づいた。
 一言で言えば彼女。もしくは婚約者。このあたりだろう。ただ、皆が期待に目を輝かせている様子に悪戯心が疼いてしまう。
 そうだね。と一言前置きをひとつつけてから、東はとても綺麗に笑う。
「なまえはボクの飼い主、かな」
「えっ」
「それじゃあ臣、悪いけどよろしくね」
「えっ、あっ、はい」
 太一が聞き返すよりも早く、東は自らの部屋へと再び向かい始める。この会話を彼女が知ったら、また怒られてしまうかな。なんて少しの楽しみにひっそりと?を緩ませる。
 彼女とともに迎える朝を思いながら、東は部屋へとゆっくり向かうのであった。