緩やかに全身へと廻る毒のような

「リヒトが行くなら、私も行く」
 突然決まった彼の来日に対し、女は眉を釣り上げながらそう口にした。たとえ飛行機のチケットが割高であろうと、じっとりと空気が肌に纏わりつくような不快感を抱く季節であろうが、そんなことは彼女にとって大した問題ではなかった。
 リヒトがそこに行く。それだけで彼女が動くに値する事態なのだ。
「来なくていい」
「なんでそんなこと言うの! 絶対行くから!」
 関係を一言で表すならばおそらく「友人」で、わかりやすいほどに好意をぶつけてくる彼女に、リヒトは戸惑いすら覚えていた。
 彼女の想いに応える気は今の所皆無であり、それはおそらく本人もわかっているのだろう。あからさまな好意を向けてくるくせに、返事を聞く気などまるでない。
「この際ぶっちゃけるとリヒトの都合は関係ないの。私がリヒトのそばに居たいからそうする。それだけの事よ」
 キッパリと言い切るなまえに、彼は隠すことなく面倒臭さを滲ませて大きなため息をついた。
 そんな彼の対応には慣れているのか、なまえはニコニコと笑みを浮かべて携帯でチケットを手配するべく操作を開始する。
「あ、ねえ。いつの便? どうせなら同じもので行きたい」
「知らねぇよ」
「あ、クランツに聞けばいっか。もしかしたらすでに取っておいてくれてるかも」
「なんであいつがお前の分まで取ってると思うんだよ」
「いつものことだから」
 そう。彼女の言葉の通り、このやり取りはもはや日常的に繰り広げられていることなのだ。
 リヒトが出るコンサートには必ず顔を出し、どこか別の国に訪れるのならば必ず追いかける。実家の財力をフルで使い、スポンサーとしての立場を手に入れた結果、こうして彼と気安く言葉を交わすことができ、側にいることができるのだ。
「うふふ。日本ってどんなところなのかしら?」
「……どこも変わらねえだろ」
 どこだって同じだ。自分のピアノを聞かせる対象が何であれ、観客が落涙する姿は何一つ変わることがないことを彼は知っている。
 そして、彼女が毎回観客席に居ることも、だ。
 そこまで考えて、リヒトは馬鹿馬鹿しいと頭を振った。
 ――なんでオレまでこいつがいることが当たり前になっているんだ。
 自分のファンとはいえ、行くといえばたとえ地獄の底までついてきそうな存在は、彼女が初めてだった。それが自分の中でも当然のように思えているのは、なんだか違うような気がした。
「そうね。どこでもいっしょ。リヒトと、そのピアノが素晴らしいという事実は変わりようがないもの」
「そうかよ」
「褒めてるのに」
「お前のはなんかうさんくせえんだよ」
「失礼な」
 心の底から彼が素晴らしいと知っているからこそ、こうやってどこへでもついていくと行っているのに。それを胡散臭いと言われるのは心外だ。祖う腕を組んでこぼす彼女は、本当に、いっぺんの疑いもなく彼を信じていた。
 別に自分を信じろというわけではない。信じようと信じまいと、彼が唯一の存在であることは世界が認めている。何よりも彼自身、自信を持ってその場に有りつつけるのだ。それがいかに難しいことか、おばに居る彼女は肌で感じることが出来る。
「まあ、なんでも良いわ。リヒトのピアノを聞けるんだもの」
「いつも聞いてんだろ」
「何度でも聞きたいの。わかってるでしょ? 私、リヒトのことが好きだもの」
「そうかよ」
 何度も聞かされているその言葉に返す言葉はそっけないものだ。それで良いのだと、なまえは笑う。だって、彼のピアノに”なまえ”は必要ないのだ。
 あの美しい旋律の中に、少しでも余計なものが入ってしまったら、おそらく彼女が一番自分を許せないだろう。自分という存在が、彼の心に入り込むことが出来ないのを知っているからこそ、彼女は好意を口にし続ける。
 もしも、万に一つ、奥に一つの確率で自分が彼の中に入り込むことがあったのなら、それに気づいてしまったのなら、彼女が彼の前に姿を表すことはきっとなくなるだろう。それほどまでに彼女は、彼のピアノを愛していた。
 そういえば、と彼女は眉間にshじわを寄せ、リヒトを見る。
「あれ、あの男もついていくの?」
「あ? ……ああ」
 あの男。渡渉されるものに思考がたどり着くまでに約三秒かかった、納得したように声を上げたリヒトに、彼女は怪訝そうな表情で「なんで?」と問いかける。
 あの男、ロウレスと名乗る男は突然現れたかと思ったら、リヒトのピアノを若干――本当に微々たる変化なのだが、分かる人にはわかるような――変化させた。それが彼女にとってはどうにも許せない。
 心境や環境の変化があったとしても、大幅に変わることのない彼には賞賛を送りたいが、それだけに少しでも変えるような存在は許しがたい。
 それが成長と呼べるような、音に深みを足すような変化だったのならば問題なく受け入れることが出来るのだが、雑音となってしまったとき、何よりも許せないものとなるだろう。
 現状、それがいい方向か悪い方向化の判断ができるほどの変化ではない故にその存在を黙認して入るものの、やはり変化したという事実は覆りようがない。
「リヒト、ペット飼い始めてからちょっと変わったよね」
 得体の知れない男が周りに現れた。互いの態度をミているとどうにも友人同士とは思えない。しかし、以前の彼であればそんな不審な人物をそばに置くようなことはなかったはずだ。
 彼の交友関係にまで口出しできるような権利など持ち合わせていない彼女は、それでどれだけ歯痒い思いを抱いたことだろうか。
「知らねえよ」
「変わったよ」
「……それで、お前に何か関係あんのかよ」
「すごくあるんだけど、口出す権利はない」
「わかってんじゃねえか」
 どこか満足げに笑うリヒトに、なまえは何も言う気に慣れなかった。と言うか、それ以上に言及する言葉を持っていなかった。リヒトがそれで良いのならまあ、良いか。そんな諦めとともに、小さく息をついた。
 とにかく、今は日本へ向けての準備をしなくてはいけない。
「ねえ、日本で私を放っておかないでね」
「あ?」
「流石に私、日本語は話せないもの」
 言葉の通じぬ場所で一人放置されて、うまくやっていける自身はなかった。何から何まで初めての場所に行くのだ。それくらいの面倒を見てくれてもいいだろう。
祖雨思っていた彼女は、どうせ「知らねえよ」と帰ってくるであろう彼の返事を待つ。
 これで想像通りの言葉が帰ってきたら、「私、リヒトの恋人なんです」って公言してやる。などと脅し文句を考えて、一人ほくそ笑む。
「……ああ」
「そう、それじゃあ私……へ?」
「お前一人放置してたらあとが面倒そうだしな」
「まっ、まって……リヒト、何か変なものでも食べた?」
「お前が言い始めたんだろうが」
「や、確かにそうなんだけど……」
 まさか肯定されるとは思ってもみなかった。虚を突かれて動揺しているなまえに、リヒトは不敵な笑みを浮かべて狼狽える彼女を見る。
 そんなのずるい。リヒトはずるい。心のなかで盛大に文句をつけてみても、それが彼に届くことはない。
 本来ならば自分の言葉で、彼を動揺させたかったのに、結果としてうろたえているのは自分の方だなんて……。悔しさを噛み締めながら、彼女はリヒトを恨めしげに睨む。
 それだけでは何にもならないとわかっているが、何もしないよりはマシだ。
「……覚悟してなさい」
 日本についたら、絶対に困らせてやる。
 そう密かに誓いを立てつつ、彼女は彼の言葉を噛みしめる。
 あのリヒトが、自ら私の相手をしてくれると行っているのだ。こんな奇跡、もう二度とないかもしれない。
 悔しさを覚えたくせに、それ以上に嬉しく思うなんて、やはり自分は彼のことが好きなのだ。それも同しようもないほどに。今更ながらに思い知らされて悔しい反面、少しだけ幸せなのもまた事実だ。
 彼がこちらを見る必要はまったくないし、そうなったとしたら絶対に姿を隠す自信はある。でも、こうして彼の優しさに触れてしまうとどうしようもなく嬉しくなる。
 矛盾しているような気がするが、今はこのままでいいのだ。願わくば、このまま平行線のまま、時々幸せを感じていけたなら……。
 分不相応な思いを抱き、彼女はゆっくりと目を閉じる。彼の時々見せる優しさはまるで、甘い毒のようなのだ。ゆっくりと廻って気がつけば致命傷になっているような。
 我ながらロマンチストのようなその表現に、おかしくなって少し笑う。そんななまえを不思議そうに見るリヒトに、彼女は笑顔で言葉を紡ぐ。
「俄然、日本が楽しみになってきたわ」
「そうかよ」
「ぜひ、色々案内してほしいわ」
 にこやかに言う彼女に、彼も小さく笑って「無茶言ってんじゃねえよ」と返すのだった。