それは中毒性を孕みます

 トレイ・クローバーは名門であるナイトレイブンカレッジの学生だ。全寮制であるそこに通う彼は、一応私の恋人……のはずだ。
 はずだ。というのも彼は、長期休暇で帰省する度にこのあたりでは有名なローズハートのご子息の話ばかりをする。二言目には「リドルが」と続くこと今年で2年目。はっきりと言おう。私にローズハートのご子息の話をされても困るのだ。
 彼にとっては幼馴染でも私にとっては赤の他人で、可愛い顔した男の子。くらいの認識しかない。聞くところによると幼い頃はよく遊んでいた所謂幼馴染というものらしいが、そんなもの私の知ったところではない。
「……で、リドルのやつが……」
 また始まった。はじめの頃は彼の話してくれるすべてが嬉しくて、うんうんと頷いて聞いていたものだが、最近となってはもはや半眼で適当な相づちしか打てない。そんなに好きならそっちと付き合えば? と、吐き捨ててしまいたいほどだ。
 この男の面倒見の良さは身を持って知っているが、長い付き合いとはいえ恋人を蔑ろにしていいとは言っていない。むしろ、だ。普段離れている分、こうして二人で合う時間くらい大切に過ごすことはできないのか。
 兄のように頼りになる反面、男女の機敏に疎いというか、どうにも私の発する空気を読んでくれないことが多い。……私がわがままだというのは自覚しているが、それにしたって酷いと思う。……思う。
「なまえ?」
「何よ」
「どうしたんだ? 機嫌、悪くないか?」
「トレイがそう思うならそうなんじゃない?」
 存外、ぶっきらぼうな声が出てしまった。機嫌が悪いなんてものではない。わざわざ聞かなくたってわかることを、あえて口にすることが更に腹立たしく思えた。
 もう一度、伺うような声色で私の名を呼んでみせる彼は本当に、心当たりなんてないのだろうか。本当はわかっていて意地の悪い事をしているのではないか。……そうだとしたら、余計に腹立たしいのだけれど。
 不覚にも、こんな不毛なやり取りで花の奥がツンと痛む。久々に会ったというのにこんな態度、取りたくなんてなかった。もっと素直に、感情を表すことが出似たのならばどんなに楽だろうか。
「トレイのバカ。嫌いよ嫌い。トレイなんて大嫌い」
 吐き出した言葉は震えている上に鼻声で、どうにも格好がつかない。おまけに吐き出してしまったら今度は目からポロポロと透明な液体まで流れ出してしまう。
 それを見られたくなくて、咄嗟に背を向ければ、彼が困っているような空気を感じる。困らせたいわけではない。呆れられたいわけでもない。心配されたいわけでもなければ、私はただ……。
「ごめんな」
ふと、背に暖かな温度を感じたかと思えば、目の前に腕が回される。抱きしめられているのだと認識しても、私は身じろぎ一つできずに口で息をして、鼻をすすらないようにゆっくりと呼吸をすることしかできない。
 広がる感情は怒りか、悲しみか、嫉妬か、羨望か。ぐちゃぐちゃに混ざるそれを溶かすように、彼の手がそっと頭に触れた。
「っ、何が悪いか、わかってないくせに」
 ――ああ、面倒くさい。
 自分はなんて面倒な女なのだろう。機嫌を悪くする理由を言わず、ただ涙を流して彼の優しさを手にしようとするだけの、浅ましい女だ。
 抱く感情を口にしないまま、相互理解なんてできるはずもないのに彼にそれを求めるだけと、底の浅い女。
 自覚したところで、行動しなければなんの意味も持たないのだけれど。
「……そうだな。わからない。わからないから謝ってるんだ」
「私は、トレイのそんなところが……」
 嫌いで、好きで、好きで、好きだ。どうしようもないくらいに、私はこの男が好きなのだ。
 普段は放っておいて、たまに会えれば他の人間の話をして、優しいくせに少し不器用で、わかっていそうなのにわかってくれていなくて、そんなトレイが好きで、苦しい。
 どうでもいいワガママは口にできるくせに肝心辛は言葉にできず、こうしてただ涙を流して彼を困らせることしかできない自分が彼と釣り合うなんて到底思えない。
 本当は、私なんかとはさっさと別れてしまうべきだと言ってしまいたいのに、彼がその提案に首を立てに降るのが怖くて口にすることのできない。そんな自分が、嫌いだ。
 大きく深呼吸をして、声を落ち着かせる。流れる涙を少しでも軽減できるようにそれを繰り返せば、なんとか声は出せそうだ。
「……いつもなまえを傷つけてばっかりだな」
「そっ、んなことは……」
「ないとは言わせないぞ? 不甲斐ない男でごめんな」
 先手を取られてしまった。違う。違う。そうじゃない。だって悪いのは私で、傷つけているのも迷惑をかけているのも全部全部私なはずだ。
 だから、そんな声を出すのはやめてよ。決心が鈍ってしまうじゃない。
「ごめんな。まだ、手放してやれそうにない」
「何……を……」
 何を言っているのか理解できない。反射的に顔を上げて、私を抱き止める男の顔を覗き込む。驚いて瞬きを繰り返したせいで、溜まっていた涙がまた一筋、頬を伝った。
 それを指ですくい上げてから、彼はそっとその指に口付ける。深く美しい森のような緑色が、涙で滲んだ視界に広がる。今、彼はどんな表情をしているのだろう。
 まぶたをおろして、再び目を開けば、先程よりも少しだけ良くなった視界に彼の少し困ったような笑顔が映り込む。
「まだ、その言葉は聞きたくないな」
 何を言っているのかはわからない。私の口にしようとしていた言葉を先読みしているのか、それとも……。
 相変わらず、彼は苦笑を浮かべたまま、私の瞼に唇を寄せる。それからそっと、言葉を落とすのだ。