この部屋は27℃のプールに似ている

 彼は年下だというのに、私の周りの同世代よりも随分と大人びた雰囲気を持っていた。まるで全てを包み込んでくれるような、優しさで全てをどろどろに溶かしてダメにしてしまうような、そんな男である。
 というのも、既にダメになってしまった大人が私であり、この点においては身をもって経験しているおかげで妙な説得力さえあると友人に言われたことがある。
 そして絶賛どろどろにされてしまった私はというと、久しぶりにこの部屋へとやってきた彼をもてなすべく氷の入ったグラスとコーヒー、お茶請けのクッキーを乗せたお盆を手に鼻歌交じりに彼のいる一角へと向かう。
 とはいえ、一人暮らしのワンルームはそう広くもなく、私のこのやたらと上機嫌な鼻歌も、嬉しさに緩んだ顔も、全て彼には筒抜けなわけだが。
 背もたれ代わりにと、ベッドを背にして座っている彼の、目の前にある一人暮らし用の小さなテーブルに盆ごと置いた。
「鋼くんおまたせ。コーヒーしかないんだけど大丈夫?」
「あ、はい。スミマセン」
「なんで謝るの」
 そう言って笑えば、彼も少しだけ眉を下げて微笑みの形をつくる。困ったように笑う彼の表情が、生み出す空気が、私はとても好きなのだ。
 いつもはただ、寝に帰っているだけに等しい部屋ではあるが、彼がそこにやってきたことによって特別な"自分の部屋"という意識が湧いてくる。1人でいる時とは何もかもが違う。最たるものはこの部屋に満ちる空気だ。
 落ち着いた彼の纏う空気が、無機質なこの部屋に溶けて満たされていくような……などというと少々変態じみている気がしないでもないのだが、彼の雰囲気に支配された場所がこの部屋であるという事実が今は純粋に嬉しい。
「でもよかったの? せっかくのお休みに私の家なんて」
「……まあ、なまえさんが居るところならどこでも良かったんですけどね」
 この少年は、自覚しているのだろうか。この言葉がいかに私の心を揺さぶるのかということを。耳障りのいい変声期を超えた低音が私の鼓膜を揺らし、じんわりと広がっていく。
 ああ神様、私こんなに幸せでもいいのでしょうか。
 彼の返答に感動を覚えて微動だにしない私を不思議に思ったのか、鋼くんは小首を傾げて私の名前を呼ぶ。ねえ、本当に待って。お願い。私の彼氏が可愛すぎて呼吸困難に陥ってしまいそう。
「だっ、大丈夫。なんでもないの」
「そう、ですか……?」
 気遣わしげに向けられる視線がなんだか少しくすぐったい。これが私だけに向けられるものだとわかっているからこそ、幸せなのだ。幸せだと声を大にして言えるのだ。
 こうして、同じ空間で向かい合って、ゆっくりとした時間を過ごすのも嫌いではない。むしろ好きな部類である。ただ、ここ最近彼はなんだか忙しそうで、私が社会人であることも相まってなかなかタイミングを合わせることができなかった。おかげさまで、私の中の鋼くん成分が非常に不足しているのだ。
 向かい合って彼と会話するのはもちろん楽しい。しかし、今の私はそれだけでは満足できない。おもむろに自分の分のグラスを手に取り、移動を開始する。
 言うまでもなく、鋼くんの隣だ。私の行動など御見通しだったのか、彼は少しだけずれてクッションを私に差し出そうとする。
「ああいや、待って鋼くん。それは使ってて平気。というか、一応ラグ敷いてるんだし私はそのままでいいよ」
「なら、オレがそのままでいいよ。なまえさんが使って下さい」
「もう、鋼くんはお客様でしょ?」
 こればかりは譲らんぞ。と思いながらそう言えば、なんと彼は「なまえさんは女の子だから」などと言い始めたものだから危うく手に持っていたグラスを落としかけた。
 彼は今私のことを"女の子"と言ってのけた。悲しきかな、私は自分が既に"女の子"と称される年齢はとうの昔に通り過ぎている。だというのに、鋼くんは私をそう呼ぶのか。
 処理の追い付かない頭が黒煙を上げているのを感じる。私が微動だにしなくなったことにようやく気付いたのか、彼は「あっ」と声を上げた。
 そしてすぐさま眉を下げて申し訳なさそうな、自己嫌悪をしているような、そんな暗い表情になる。
「大人の女性に失礼でした」
「い、いや……全然失礼とかじゃなくて」
 むしろどちらかというと嬉しい部類に入るのではないだろうか。年上の彼女など、彼からしたら保護者と大差ないのではないかと不安を抱いたこともあった。
 しかし、鋼くんは私のことを年齢とかを気にすることなくただの「みょうじなまえ」という異性であり、恋人であると認識してくれているようだ。 
 これが嬉しくないはずがない。やはり、年齢差というものは気になってしまうのだ。なまじ相手が現役高校生(という言い方をすると何やら危ない気もするが)だ。未成年、かつ学生……。互いに思いあっていたとしても、世間は容赦なく私たちを分断しようとするだろう。
 実の所、私自身時折未成年とお付き合いしている事に罪悪感を覚えてしまうのだ。彼がいくら高校生らしからぬ雰囲気を纏っているとはいえ、現実とは非情なものだ。
 気を取り直して、差し出されたクッションに腰を下ろす。これに関しては鋼くんに譲る気はなく、私が折れる他ないようだった。
 仕方がないなあ。とそこに腰掛け、鋼くんに甘えるように肩に頭を乗せて目を瞑る。座るときに置いたグラスは、早くも表面の水滴によってテーブルを濡らし始めていた。
「ねえねえ鋼くん」
「はい」
「だいすき」
「オレもですよ」
 そう言って薄く笑みを浮かべる彼は、なんて恰好のいいことだろうか。年齢にそぐわぬ部分と、逆に年相応のかわいらしい部分が絶妙なバランスで混在している。
 彼はそう、肌にまとわりつく心地の良い暖かさの中で、緩やかに私の呼吸を奪うのだ。


約30の嘘