「嘘に溺れて息ができない」
オレにしがみつきながら彼女はそう口にする。その表情は苦しげでいて、愛おしげでいて、恍惚とした色が見え隠れしている。そんな彼女の様子を俺はただ、眺めていることしかできなかった――。
そもそも、みょうじなまえという存在は、一言で表すならば"変な奴"だった。なにが。とか、どこが。とか、簡単に言い表わせるのならば苦労はしない。ただ、一つだけ言えるとしたら、どういうわけかこいつは"嘘"が好きだった。
桜哉の嘘は優しくていい。そう口にする彼女の正気を疑わずにはいられない。だってオレは、何よりも嘘が嫌いだから。
「ね、桜哉。今日も真昼くんのところに行くの?」
「……関係ねーだろ」
「わあ怖い」
怖いなんて欠片も思っていないくせに、テーブルの上の紅茶をスプーンでかき混ぜながら、彼女は笑って肩を竦めた。そして態とらしく横目でこちらを見ながら「ここにいる桜哉と、彼らのところにいる桜哉、どっちが本物なのかな?」と口にする。
こちらの反応を見て楽しんでいるのはわかっているが、そんな姿が鼻持ちならない。正面からこちらを向いているのではなく、オレにに横顔を向けている事も含めて、だ。それに関しては自分自身も人の事は言えないわけだが。
彼女の問いかけを頭の中で反芻する。どちらが本当か? そんなもの――。
簡単に答えが出るはずなのに、それに答えを出してしまうのがどうしようもなく怖く感じて、オレはそこで思考を切った。なんにせよ、どちらがどうとかいう問題ではない。
「桜哉の嘘、私は好きだよ」
「オレは嘘が嫌いだ」
「知ってる。そんな嘘が嫌いな嘘つき桜哉の嘘だからこそ好きなんだけどねえ」
ニコニコと笑みを浮かべて、彼女は紅茶風味のミルクと化した液体に口をつけた。
――趣味が悪い。その紅茶の飲み方も、嘘が好きだということも、すべて含めての感想だ。窓に腰掛けながら彼女へ鋭い視線を送れば、なにが嬉しいのか満面の笑みを作ってひらひらと手を振ってくる。
ここにいる奴はどこかしらおかしい奴がほとんどだが、彼女も例に漏れず頭のネジが足りないのではないかという疑念が生まれるほどには変わっている。
そんな奇人変人集団に名を連ねる自分も、お世辞にも常識人とは言えないのだろう。そもそも筆頭が筆頭だから。などと自らに言い聞かせた所で、おかしな集団というレッテルは覆りはしないだろう。
目の前で紅茶を口にしている女を頭の先から足元までを眺めてみる。その仕草、見た目だけで言えばどこぞのお嬢様のような風態だ。雰囲気も落ち着いている。しかし味覚は壊れ気味だし、そもそも嘘が好きだと言っている時点でまともとは思えない。
そういう前情報がなければ、オレはこいつを何処のお嬢様のように扱えたのかもしれない。あくまでも予測である。
自分よりも先にこの集団に加わっていた彼女は、当初遠くでの仕事をこなしていたらしくなかなか会う事は叶わなかった。とはいえ、あの椿さんをして"変人"だと言わしめた彼女だ。それを知る前に接触することはできなかっただろう。
「なぁに? 私の顔に何かついてる? あっ、見惚れてた?」
「……」
「あ、待って! 無言辛い! ね、桜哉の嘘を頂戴?」
「そう言われて吐くようなものでもないだろ」
「そういわずに、ね?」
何がだ。普段オレが嘘をついているとして、こうしていざ"嘘を吐け"と強要されて、いったいどんな嘘がでてくるというのだろうか。
それでもこいつが引き下がらない事は、今までの経験から嫌という程にわかっているから厄介なのだ。
そんなこいつが、オレはずっと前から――。
「……好きだよ」
「へっ?」
本音か嘘か、自分でもよくわからない感情に音声をつけて口にすれば、彼女は驚いたように目を見開いて素っ頓狂な声を上げる。
今からどんな嘘を吐かれるのだろうか。という心持ちだっただろう今、こんな言葉を投げられた彼女の胸中はいかほどのものなのだろうか。
嘘だと前置いて口にする行為は、彼女に一体どんなものをもたらすのだろうか。その反応を不安と期待の入り混じった顔で見ていれば、名前はふわりと嬉しそうに笑った。
「そうくるとは思わなかった」
「ああそうかよ」
「せっかくだから抱きしめて囁いてよ」
「はぁ!?」
なんでそんなことまでしてやらなければいけないのか。そんな文句は、こちらに向き直り、両手を広げて待機する彼女の前ではあまり意味のない言葉だったようだ。
有無を言わさぬ様子の彼女に、大きくため息をついて窓際から移動する。ああ。今他に人がいなくて本当に良かった。
こんなところを見られた日には何を言われるか分かったものではない。
一応異性相手に真面目に愛を囁くことになるわけで、それに対してなんの抵抗も躊躇いも生まれない。なんて言えるほど慣れているわけでもない。むしろなんでこんなことをしているのかと俯瞰した位置に立つ自分が呆れたように視線を送っている――ような錯覚を覚える。
とっとと済ませてとっとと離れよう。
椅子に座る彼女に合わせるように、腰を折って抱きよせる。彼女はそんな俺に腕を回すでもなく、ぎゅっとオレの服の胸元を掴んでいる。……なんだ、これは。
おあつらえ向きと言わんばかりに自らの唇が彼女の耳元に寄せられて、自然と囁くような形になってしまっているのもまた、自分へのダメージが大きいように感じられた。
「なまえが好きだよ」
恥も外聞も捨て去ってしまえと言わんばかりに俺はとびきりの優しさを込めてその言葉を口にする。
嘘だろうと本当だろうと、こんなことを真面目に口にするのはなぜこんなにも照れるのだろうか。なんて思ってたら、彼女が俺の腕の中で息をのむ気配を感じる。
「ね、桜哉」
「……んだよ」
「嘘に溺れて息ができない」
オレにしがみつきながら彼女はそう口にする。腕の中でこちらに顔を向けて、少し瞳を潤ませている彼女のその表情は苦しげでいて、愛おしげでいて、恍惚とした色が見え隠れしている。そんな彼女の様子を俺はただ、眺めていることしかできない。
なぜ嘘だとわかっていながら、そんな反応を見せることができるのか。いいや、そもそも嘘であるからこそこの女はこうなのだ。
ふと、彼女の雰囲気が変わる。ピリリと緊張感が肌を走って、それ故にどんな言葉を口にするのか怖くなる。
「ねえお願い。桜哉の嘘で私をころして」
「……なんでオレがそんな面倒臭いことしなきゃなんねぇんだ」
一拍おいて、何を言うべきかと考えを巡らせる。結果バッサリと切り捨てれば、彼女は困ったように眉を下げて俺の胸へと額をつける。……本当に、なんて面倒なことだろうか。
面倒な集団の、特別面倒な奴に目をつけられてしまったことを悲劇と嘆いてしまいたい。
ひときわ大きなため息を吐けば、腕の中でなまえが嬉しそうに笑った――。