「スシュラフはサリハ兄さんに気を使いすぎよ」
なまえの言葉は突然だった。ひどく面白くなさそうな顔で彼女がそう言うものだから、彼女を不快にさせるようなことでもしただろうかと思いを巡らせる。しかし、当然のごとく思い当たる節がない。
彼女の言葉の通り、確かに自分は兄に気を使いすぎているのか。と考えはしたものの、そうだと自覚できるほどのものは何一つなかった。故に彼は「……そんなことはない」と返すにとどまった。
残念なことながら、ここで「ああ、そっか」と納得するような女ではない。それが彼の犯した一つ目の……いや、二つ目の過ちである。
なまえが不機嫌であるということはわかる。その原因が兄に対する彼の態度だというのもわかる。しかし、具体的にどう悪いのかがわからないのだから彼にできることは何もなく、ただ目の前で拗ねたようにむくれる女性を眺めることしかできない。
「なまえ、俺は別に兄さんに気を使ってなど……」
「いない。とは言えないでしょう。サリハ兄さんは我儘なのよ。トルルのことだってそう。それに無理して付き合う必要なんてないじゃない」
「無理はしていないからな」
「あらそう。ならあの行動はスシュラフの意思ってわけね。ああトルルったら可哀想」
態とらしい短足とともに吐き出される言葉には早急な訂正が必要だ。しかし、彼女の納得いくような言葉を用意できる気がしない。
兄のサリハならば適当なことを言って丸め込むことができるだろう。弟のトルウェイならば彼女を気遣い、彼女の求める言葉を見つけることができるだろう。しかし、残念ながら彼、スシュラフは違う。
器用に立ち回るくせに、一つ下の幼馴染の前では持ち前の器用さも影を潜めてしまうのだ。幼い頃から互いに知っているからこその弊害。彼女はあえて彼にぶつけてくるものを、彼は同じように返すことができない。
「相変わらず、トルウェイがお気に入りだな」
「ええ、可愛い弟だもの」
結局話をそらすこともできず、微修正にも失敗した。そんな彼に「可愛い弟」を強調するように彼女は皮肉げに笑う。
遠く遡れば同じ血脈を持つ彼女は、自分と同じようで少し違う翠を細めて髪を揺らす。毒を含んだ言葉を吐いているその姿は、どことなく兄の姿に重なる時がある。などと言ったら余計に彼女の怒りは増すのだろう。
「そもそも、なぜなまえがそんなことを気にするんだ」
「決まってるじゃない。不快だからよ」
「見なければいいだろう」
「聞こえてくるもの」
「聞かなければいいだろう」
「できるならそうしてるわ」
わけがわからない。もうお手上げである。さすがのスシュラフも両手を挙げて降参を示したい勢いだ。ただわかるのは、こうなってしまったなまえを宥めるのには相当な労力を要するという事だけだ。
スシュラフの馬鹿。小さく吐き捨てられた言葉の真意は、やはり彼には理解できなかった。
「……あのねえ」
わずかに首をかしげるスシュラフを見るなまえの目は不満気だ。そもそも、言いもしないのにわかってほしいだなんていう自分の思いが身勝手なものであることは、なまえも痛いほどによくわかっていた。わかっているが、譲れない。
なぜああも兄の機敏には聡いスシュラフが、自分に関してはサッパリなのかという不満は年を重ねるごとに大きくなる一方だ。何もわからないのならば仕方がない。ただ、相手の男はそうではないのだ。
些細なことはいくらでも気づいて、その上でそっと気を回してくれるのがスシュラフという男である。それが、ある一点においては影を潜めてしまうのだ。
それこそ、自分の関係すること以外ならば違っただろう。他人に気を回すことを得意とする彼は、自分のこととなるとからっきしだ。
「本当にわかってないの?」
「……すまない」
「はー……うん。まあ、だと思ったけど」
大きなため息をついて、彼女は額に手を当て俯いた。この相手に関しては、はっきりと言葉にしないといけないのだ。わかってはいてもそれができない。
幼いあの日、いくらでも好意を口にできていたあの日々。そんな時代に戻れたのならばどんなに楽だろうか。ぐるぐると渦巻くのは、単純な言語化すら困難になってしまった面倒な自分の気持ちと葛藤だ。
もういい大人だ。大人になってしまったのだ。少しずつ形を変えてしまった好意を口にするだけの勇気は、彼女にはない。ただ、彼にあんなにも慕われているあの兄を、家族を、羨ましいと思いはしても一歩先へと踏み出すことができない。
「教えて欲しい?」
「これ以上お前に不快な思いをさせたくないからな」
見た目は怖いくせに、一旦内側に滑り込んでしまえば底抜けに優しい男は、なまえの目を見て真摯的に応える。そういうところがずるいのだと、彼女は悔しさを覚える。
彼はいつだって、なまえに対して真摯であり続けようとする。意識しているのかいないのかはわからないが、彼の"内"にあるものに対してそうであるように。
「あなたの上下が派手で良かったわ」
兄のサリハスラグも、弟のトルウェイも、容姿から行動までが派手な二人だ。おかげで真ん中のスシュラフは容姿端麗ながらも寡黙さも手伝って、きゃあきゃあ騒ぐ女の視線から外れることに成功している。
なまえの言葉がいまいち理解できなかったのか、スシュラフは疑問符を浮かべながらも彼女の真意を探るように視線を送ってくる。
散々言った気がする。それこそ事あるごとに、彼女はこの言葉を口にしているはずである。なのに理解してくれない(或いはする気のない)スシュラフに、もう一度それを口にする。
「あのねえ……何度も言ってると思うんだけど、私スシュラフが好きなのよ」
「ああ。ありがとう」
「本当にわかってるの?」
訝しむようななまえの視線を受け、スシュラフは小さく笑ってもう一度「ああ」と答える。
幼い頃から口にした言葉は、何処と無く現実味に欠けて響くのはなぜだろうか。なまえは一人自問する。親愛、敬愛、性愛。その全てが彼に向いているのは間違いない。それを彼は肯定する。
ここではない遠い東の地では、「暖簾に腕押し」という言葉があったらしい。既に滅びた国の、そんな言葉を知ったのは禁書を閲覧する権利を持ち得ていたからだ。
暖簾が何であるのかは知らないが、それの意味は鮮明に覚えている。つまり、この言葉は無駄なものなのだ。
大きくため息をついて、なまえは目の前の愛しい男を見る。変わらない姿が安心と絶望を運ぶ。
「好きなのに」
「なぜそんな顔をする」
「なぜって当たり前じゃない。届かない想いを抱え続けることは辛いもの」
俯いてしまえば涙がこぼれるような気がした。でも、そうせずにはいられない。なまえが足元に視線が写れば、彼から顔が見えないのをいいことに視界が滲み始める。
熱を持って広がるそれは、重力に逆らうことなくポタリと地面を濡らす。
いい歳こいてこんなことでなくなんてらしくない。そう思いながらも、なまえの目からはどんどんと雫がこぼれ落ち始めた。
「……なまえはいつも自分一人で答えを出す」
「そうよ。だってわかっているもの」
「俺がいつ、お前を想っていないと言った」
「は?」
思いがけぬ言葉に、彼女の全てが止まった。
涙を流していたその顔のまま彼を見やる彼女は、驚きのあまり涙が、言葉が、呼吸が、時間が、何もかもが止まっていた。
ただ一つ、心音だけは変わらず……いや、普段の倍ほどの速度で動き続けている。鼓膜の真横にそれを置いたような爆音の中、彼女は空白に塗りつぶされた思考を回すべく言葉を反芻する。
俺がいつ、お前を想っていないと言った。それは本当に目の前の男の言葉なのだろうか。いいや、彼のことだ。別の意味があるに違いない。だが、言葉の通りだったら……?
「だって、ありがとうって」
「嬉しい言葉をもらって感謝しないはずないだろう」
そんなの、そもそもお礼を言うなんて逆に断る時の常套句だと思っていた。
「いつだって最優先はサリハ兄さんだし」
「……お前が、『兄さんのいうことちゃんときけるなんてえらい』と言っただろう」
「そんなこと……」
言った。遥か遠い昔の記憶。わがまま盛りの年頃なのに、年上のいうことをきちんと聞いていた彼がすごいと思ったから。
「訓練ばかりで構ってくれないし」
「お前が、『強い人がすき』と言ったからな」
それも覚えている。幼い時、暴漢から二人を守ってくれた三兄弟の父がとてもかっこよかったから。
「口数少なくて私の話聞き流してたし」
「それは、お前父さんを見て『おじさまみたいなクールな人、素敵』と言っただろう」
あとは、女の子飲む話題についていけないというのもあったが。と付け足されたが、確かに記憶している。
ペラペラとうるさい父に辟易としていた時、どっしりと構えているおじさまがやはり憧れだったのだ。あくまでも父親としてだが。
……おまけに、その後おじさまが寡黙な人というわけではいことは嫌でもわかった。
「れ、恋愛ごとに興味がないのかと思った……サリハ兄さんに近づく綺麗な女の人にちょっかいかけられても無視してたじゃない」
「好きな奴が目の前にいるのに相手をしてやる必要があるか?」
その言葉が現実味を帯びるまでにたっぷり十秒を要した。自分の中でそれを消化した瞬間、なまえはカッと頬に熱が集まるのを感じる。
つまり、だ。彼女が望むから今の彼があり、ススシュラフの根幹には常になまえがいた。ということになる。思い返せばいくらでも出てくる今の彼を構成してしまったであろう自分の言葉に頭を抱えたくなった。
「なんだ。気づいていなかったのか」
「だって、返事をもらってなかったもの。それに一度もそんな言葉もらったこと……」
「それは――」
「いや、いい。覚えてるから。多分女性を口説くサリは兄さんを軽蔑したからね」
「……ああ」
彼の「ありがとう」は断るための言葉ではなくて、受け入れるためのものだと知った今、彼女の取る選択は一つだ。
勢いよく彼に体当たり……もとい抱きついて、怒鳴るように言葉を紡ぐ。
「スシュラフのバカっ! 好きっ!」
「ありが……いや、そうだな。俺も同じ気持ちだ」
「ちゃんと言葉にして」
「す――」
「やっぱりダメ!」
言葉にしろと言ったその口でダメだと言った彼女の表情は彼からは見えない。ただ、ちらりと見えた耳が今まで見たこともないほどに赤く染まっていることから、現状を分析する。
ならば彼の言葉は決まっている。
「それなら――愛している」
ポンポンと頭を撫でながらの一言。それだけでなまえは首まで赤くしてパクパクと口を開閉させる。
なまえの声なき絶叫を受け、スシュラフは小さく笑いながら数秒後にくるであろう照れ隠しの嵐を受け入れるための準備をするのであった。