控えめなノックの音が部屋に響き、凪砂は意識を浮上させる。半ばほどまで読み進めた本にしおりを挟み、彼は音の発生源である扉へ視線を移す。
「凪砂さま」
「……ん、ああ。なまえか」
現れたのはこの学園において非常に珍しい女子生徒の姿であった。控えめに会釈をしてから室内へと足を踏み入れる彼女は、彼、乱凪砂の世話係とも言える存在だった。
ある意味において「特待生」でありながらやっていることは「特待生」ではない生徒と同じ彼女は、事務所からも容認されている彼の付き人のような立ち位置にいる。
アイドルを目指しているわけでもない彼女がこの秀越学園に籍を置くのは、ひとえに凪砂の為である。
幼い頃から交友のある彼女は少々特異な彼のためだけにひたすらその能力を発揮していた。
「はい。インタビュー撮影のために移動を始めるお時間です」
「もうそんな時間か。わかった。いつもありがとう」
「いえ」
当然のことです。そう言い放つ彼女に、彼は柔らかな笑みを浮かべる。昔から彼女は何1つ変わらない。そこが彼にとって好ましく映っていた。
彼女に先導されながら移動を開始する凪砂は、ふと確認するようにその後ろ姿に声をかける。
「今日はどっちの仕事だったかな」
「本日はAdamのお仕事になりますね」
「服装はこのまま?」
「はい。なんでも学生としての凪砂さまとAdamである凪砂さまの両方を撮影とのことで……あの、毒蛇から何か聞いていらっしゃらないのですか?」
「……ああ、そういえば茨が何か言っていたような気がするよ」
「あまり覚えてはいらっしゃらない、と」
「まあ、そうなるかな」
凪砂が肩を竦めれば彼女は困ったように笑いながら「そうだと思って。こちらを」と小冊子を差し出してきた。首を傾げながらそれを受け取る凪砂に、なまえは眉を下げたまま「本日の台本です」と簡潔な言葉を付け足した。
あえてキャラを作ってステージに立つ凪砂は、この七種茨の用意した台本のキャラになりきって全てに相対しなくてはいけない。
それが嫌というわけではないが、面倒でないとは決して言えない。しかしそれが戦略であるのならば甘んじて受けるというのが、乱凪砂という男であった。
「うん、ありがとう」
「……まったく、あの毒蛇は何を考えてこんなものを……」
「いいんだ、なまえ。私もそれを受け入れているしね」
「でも」
「私のためにそう憤ってくれているのはわかるんだけどね」
あの子も考えてのことだろう。そう口にする凪砂に、なまえは口をついて出そうになった悪態を飲み込む。凪砂を「閣下」と称して慕っている風に見せているあの男が、腹に何かを潜ませていることなど誰もがわかっていることだ。
それに対して興味がないのか、文句ひとつ言わずに凪砂が従っているのを彼女は快く思わない。故に彼女がもう1人の主人と慕っている日和に倣い、それを「毒蛇」と呼称していた。
納得いかないという思いが顔に出ていたのだろう。凪砂は相変わらず、柔らかな笑みのまま「ありがとう」とこれで何度目になるかわからない感謝の意を述べる。
「勿体無いお言葉です」
「あのね、いつも思っているのだけど、君はもう少し私たちに砕けた態度をとってもいいと思うよ」
「そういうわけにもいきません」
「……まあ、なまえがそうしたいのならこれ以上は言わないけど……」
せっかくの幼馴染なんだからさ。小さく呟かれた言葉に、なまえはやはり困ったように眉を下げた。
彼の言葉が、想いが、嬉しくないはずがない。幼き日に夢を語り合ったあの日々を思い出さない日はないのだ。だからこそ、彼女は頑なに態度を崩すことはない。
日和と凪砂がアイドルを目指すというのならば、それがどんな道であろうとも自分が隣で支えてやる。そう口にしていた幼さも、今ではただ、懐かしく眩しいばかりだ。
そう、言葉の通り彼女はそれを実践していた。巴家に仕える家柄の出であるなまえは、主人である日和の「なまえは凪砂くんについていてあげてね。学校のことはこっちでなんとかするから……なんだか彼、少し危ういからね」という言葉に従い、マネージャーまがいの"仕事"を遂行していた。
凪砂に仕えることは、彼女にとっては違和感のかけらも感じることのない当然のことだ。自らも凪砂に、日和に仕えることは喜ばしい事であると認識している。
いくら過去はもっと近くに彼らがいたからといって、今の彼女がそれを許容できるはずもない。
「……ごめんね、私はいつも君を困らせてばかりだ」
そういって優しく頭に乗せられた手を、彼女は否定の言葉とともに目を伏せながら受け入れる。
困っていないというわけではない。確かに彼の一挙一動に振り回されることなど日常茶飯事だ。しかしそれを、彼女は甘んじて受け入れている。故に出てくるのは彼の言葉に対する否定だ。
自ら進んで、喜んでそれを受けているのだから謝罪の言葉など必要がないのだ。
なまえはゆるりと笑いながら、彼に向き直る。
「好きでやっている事です。凪砂さまがおきに病むことなど何1つありませんよ」
「そうは言ってもね……」
「ほら、はやく向かいませんとあの毒蛇がやってきてしまいますよ」
このままではらちがあかないとなまえは彼の言葉を遮る。仕える者として礼の欠ける行為であるとは自覚しているが、長年の付き合いがそれを許してくれる。
凪砂も、「全く君は……」とため息混じりに返すが引き下がることはしない。
「それじゃあなまえ、今日もよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。凪砂さま」
2人は笑いあってから、ゆっくりと止めていた歩みを再開する。その先、校門にて待っていた茨の慇懃無礼ながらも突き刺すような嫌味を受け流し、二人は本日もいつも通りの日常を繰り返すのであった。