乾いた音が現実を運ぶの

「御機嫌よう、サリハ。一先ずはお帰りなさい」
「……ハ? なんでお前なんだよ」
 予想外の人物の登場に、サリハスラグ・レミオンは表情を驚きのまま固定して目の前の女を見る。横に控えていた弟のスシュラフを睨みながら「なんでこいつがいるんだ」と小声で問いかける。
 しかし、目の前で行われるそれに気づかないなまえではない。努めて笑顔のまま、彼の対応など気にも留めないといった様子で質問を続ける。
「戦場から帰還したら真っ先に顔を見せてくれるって約束だったのに、何でなまえじゃなくてみょうじが呼ばれたのかしら? ねえ?」
 なまえ・みょうじの生家は代々続く、帝国内でも1番の腕を誇る病院だった。当然のごとくなまえも幼い頃から医療を学び、今では院内でもトップの座を争うほどの腕となっていた。
 故に、目の前の男の要請が「なまえ以外で」とあったことが腹立たしく、前述の通り一番に会いに来る約束とは何だったのかと憤りを覚えているのであった。
「お前は呼んでない」
「あら、呼ばれてないから来たんじゃない」
 自分以外で。とわざわざ指名で除け者にしたのだから、何か後ろめたいことがあるのは分かっていた。
 浮気して性病をもらって来た。何てことはこの不器用な男にはできない。もとよりそんな心配はしていない。彼女の心配は、そんな些細なことではないのだ。
「ところでサリハ。腕の動きが不自然なんだけど?」
「何のことだ?」
「あくまでシラを切るっていうわけね?」
 なまえの目が剣呑な色を移し始める。これはまずいのではないか。と、後ろに控えていたスシュラフが思った矢先、彼女の腕がサリハスラグの腕を掴んだ。
 ぐい、と引っ張ると同時に袖を肘まで捲る。そこには包帯が巻かれていて、もはや言い逃れはできないだろう。そう悟った2人は、それの説明をするべく口を開いた。
「これは――」
「ちょっと」
 彼女の怒りが膨れ上がるのを感じて、サリハスラグはその表情をうかがい見るべく顔を上げる。しかし、どうにも先ほどまでと怒りの矛先が違う。
 どういうわけかを考えてみるが、この傷を隠していたことと、帰還の挨拶に向かわなかった以外での彼女の怒りの矛先が向かう先がわからない。
「……これ、処置したのは誰?」
「はぁ? ンな事いちいち……」
「スシュラフ!!! あんた覚えてるね? 連れて来なさい」
「いや、しかし」
「連れて来なさい」
 有無を言わさぬなまえの剣幕に押され、体躯のいい次男がソロソロと退室する。それを見届けてから、彼女は般若の表情のまま、サリハスラグに向き直った。
「まさか、このまま放置しようとしてたわけじゃないのよね?」
 こんな中途半端な処置で放置なんてしてみろ。銃撃のレミオンの名が腐って消えていくことになるぞ。そう言わんばかりの彼女の視線に、彼も言葉を失う。
 単なるかすり傷程度だという認識は、彼女からすれば危険極まりないものだ。
 ただ、みょうじ家を頼って来たということから放置しようとしていたわけではないことは理解できる。理解できるが、自分ではなく家を頼って来たことが彼女の不満を煽る結果となっていた。
「ンなわけねぇだろ。つってもかすり傷――」
 ――パァン。
 かすり傷程度でギャーギャー喚くな。そう続くはずだった彼の言葉は、振り抜かれた彼女の右手によっめ遮られることとなった。ここで舌を噛むことなく?を赤くするだけにとどまった彼は幸運であった。
 ……ここで、彼女の気が済んでいたのならば、だが。
「かすり傷ですって!?」
 ――バシッ。
「膿んで悪化したりする可能性もあるのよ?」
 ――パンッ。
「そもそも! サリハはいつもそう!」
 ――パシッ。
 言葉とともに左右の?が交互に叩かれる。数回は受けてやったそれも、さすがに数が過ぎるとサリハがそれを片手で受け止める。
 痛ぇよ。と彼が呟けば、彼女は堰を切ったように涙を流して膝から崩れ落ちる。
「そもそもお前は大袈裟なんだよ」
「サリハが楽観しすぎなのよ」
 軍人ではない、風銃を手に取れない彼に価値がないと言っているわけではない。彼女は、そうなってしまった場合の彼の胸中を思って言っているのだ。
 それ以前に、恋人が怪我をすることを嫌がらない人間がいるのだろうか。というのも彼女の見解だ。過剰な心配と言われようとも、彼女にとってはそれが当然だ。
「……とは言え、少しやりすぎたかしら」
「どこが少しだ」
 苦笑を交えながら、なまえは傍で心配そうにこちらを見ていた自らの水精霊の名を呼ぶ。精霊は頷いて彼女の手の上に氷を生成し、心配気な目をサリハスラグへと向けた。
 それに気づいたなまえは「叩いただけだから大丈夫よ」と笑いかける。叩かれた方はそれどころではないのだが、しかし文句を言おうものなら凄まじい言葉の猛攻は火を見るより明らかだ。ここはおとなしくしていよう。そう思った彼は黙って彼女の処置を受ける。
 言葉のないそこへノックの音が飛び込んできたのは、サリハスラグが赤くなった?を冷やしているときのことだった。部屋の主である彼はそれに応じ、ためらいがちにドアが開かれた。
「遅くなりました」
「スシュラ、ありがとう」
 先ほどまでの剣幕とは打って変わったなまえの態度に面食らいながらも、サリハスラグの処置をした人物を彼女の前へと差し出す。
 その姿を目に留めた瞬間、なまえの目に剣呑な色の光が戻って来る。
「あら、誰かと思ったらルカナじゃないの」
「せっ、先生……」
 この場に来るまでにどういう説明を受けたのからわからないが、明らかにおびえた様子を見せるルカナと呼ばれた青年は、恐る恐るといった様子で彼女を見る。
 彼は彼女の元で医学を学ぶ生徒の1人だった。とはいえ、彼女は普段の優しさを一切取り払ったかのような恐ろしい雰囲気をまとっており、とてもいつも自分たちに優しく享受している人物だとは思えなかった。
「私、確か言ったはずよね? 少しでも処置を違えると大変なことになるって」
「はい」
「じゃあ、あの処置は正確だったといえるのかしら?」
 すでに巻き直された包帯の下を知るものはこの場にいる4人だけだ。彼女の冷たい言葉に、ルカナ青年は返す言葉が見つからない。彼女の言葉の通り、最適な処置ではなかったのかもしれない。しかし、あの場においてできることは限られており、最善を尽くしたとは思っている。
 先生は、戦場に出ないのだからわからないだろう。そう言いたいが、言ってしまえば横にいる大尉が機嫌を損ねるのは目に見えている。
 なんせそんな文句で煽ったのならば「じゃあ戦場へ赴きましょう」と言いかねない人なのだ。
 そんなルカナに助け舟を出すが如く、スシュラフが自らの兄を見つめ、気づいたことをそのまま口にする。
「兄さん。その?は……」
「あ? ああ、これは――」
「ちょっと、ね」
 彼女に往復ビンタされた跡だと言うのは躊躇われたサリハスラグが言い淀んだのを、なまえがそっと拾う。それだけで誰の手によるものなのかは察した2人はまた口をつぐんだ。
 さすがに説教モード出続けるような雰囲気ではないことを察したなまえは、極めて明るい声色で、態とらしく両の手を打ち鳴らした。
「ルカナは宿題。次の授業までにその場にあるものを使った最適な処置を考えてレポート提出して」
「ええっ!?」
「何?」
「いえ! なんでもないです!」
 慌てて取り繕ってから、彼は3人に頭を下げて屋敷を後にする。
 それをみて、サリハスラグが茶化すように「おお、恐……」と呟けば彼女は再びジロリと彼に鋭い視線を送る。
「お願いだから、もっと自分を大事にしてよ」
「してるだろ」
 言葉の通り、いざとなれば自らの身を犠牲に……などという方向に思考が向かうことのない彼は、自分と弟のスシュラフがいかに無事で帰還するかを想定に入れている。今回できてしまった傷は全くの不注意であり、彼にとっても受け入れ難い現実だ。
 演習では味方を盾にしてでも生存を伸ばそうとするのだ。それを知ってか知らずか、彼女は心配そうに彼を見つめて大きなため息をつく。
 何をしてでも、無事に帰還してくれないとこちらの身がもたない。咎めるような視線に、緑髪の兄弟は顔を見合わせて小さく肩をすくめるのであった。