簡素な部屋だ。
実験室の隣に誂えられた、専用の小部屋はおれの持つそれとは随分と趣が変わっている。
実験器具をしまっている鍵付きの戸棚。床から天井まではあるだろう本棚に、それに行儀よく整頓されて並ぶ専門書の数々。
几帳面さの伺えるその部屋の主人は、おれの向かいで柔らかな革張りのソファに座り、机上のティーカップに紅茶を注いでいる。
相変わらず、その瞳からはなんの感情も伝わってこない。
「お前がおれを呼び出すなんざ珍しいじゃねぇか。明日は嵐か?」
「貴方が私の呼び出しに応じることも珍しいんじゃない?」
「気が向いたからな。光栄に思えよ」
そう言って笑えば、目の前の女は大きく息を吐いた。
こいつ、なまえ・みょうじは一応これでもこの研究所に籍を置く研究者の端くれだ。とはいえ、そのへんの塵芥よりは多少マシな部類であり、この研究所内に専用の部屋を与えられる程度には能力を有している。
おれと比べれば天と地ほどの差はあるが、あのクソ野郎からは目をかけられている存在のうちの一人だ。
毒を中心に研究しているが、どうやらこいつはおれも研究対象に入れているらしい。その点は忌々しいことこの上ないが、どうせ凡人だ。このおれに届くことなんてありはしないのに、必死に追いかけてくる様はなかなかにいじらしい。
「……何を企んでいるの?」
「何の話だ?」
なまえの抽象的な指摘に、あえてわからないふりをして肩を竦める。
彼女が聞きたがっているのは今の俺の研究についてだろう。しかしそれがわかっているからと言って答えてやる義理もない。それらに答えたからといっておれの都合がいいように世界が回るわけでもなし。ならば都合の悪いことは全て切り刻んでゴミ箱に捨ててやるのがせめてもの情けだろう。
俺の態度が気に食わないのか、努めて無表情である眼の前の女の眉間にわずかに皺が寄る。
「話ってのはそれだけか? なら忙しいおれは帰らせてもらうぞ」
「シーザー!」
「シュロロロロロ。なまえ。いいことを教えてやる」
立ち上がり、彼女に背を向けて背中越しに声をかける。この女が一体どういう反応を見せるのか、気にはなるがなぜだか見てやる気にはなれなかった。
「おれの研究はそろそろ一区切りつくぞ。そうなったらあのクソ野郎はどんな顔をしてくれるんだろうな?」
静かな部屋に、彼女の息を呑む声が響く。その時のお前の顔も、楽しみだ。その楽しみのために今はこうして背を向けているのだから。
普段澄ましているそのツラに、一体どんな色を付けてくれるのか。
シュロロロロロ。笑いながら、部屋を後にする。向かう先は当然自分の実験室だ。そろそろ実験体が出来上がり始めているはずだ。
カツカツと靴を鳴らして自室へと向かう。
――あの毒ガスが完成したら、この島を実験場にしてみるのも悪くない。あの憎らしい奴らを軒並みモルモット扱いして、その死に様を見るのも悪くない。
そうと決まれば早速準備をしなくては。その時は刻一刻と、まるで狂ったワルツを奏でるように壊れた三拍子を刻んでいる。
「……なまえ」
誰もいない廊下で足を止め、ポツリと名を呼んでみる。この、胸に広がる違和感は何なのだろうか。
まるで終わりを拒んているかのような……。
何を馬鹿な考えに囚われているのだろうか。あいつは多分、おれのやろうとしていることと、それによって起こりうる未来がわかっているのだろう。それを諌めるために呼び出したに違いない。
ガラにもないことをしやがって。それに、今更だ。今更すぎる。もうおれは止まれないし止まる気もない。元々そういう気質でもないがな。
だからおれはなまえを拒む。なまえの持つ世界を拒む。胸に留まる違和感ごと切って捨てる。今までだってそうやってきたのだ。今になってできないはずがない。
ギリギリの境界線で、あいつが叫んで手を伸ばしたところで俺がその手を取ることはない。互いに、わかりきったことではないか。
白を基調としたその場所で立ち止まっていたおれは、ようやく一歩を踏み出した。自室へ戻るための一歩であり、自分の未来を掴むための一歩でもあり、この場所に住まう人間を終わらせるための一歩を。
……らしくもない感傷に浸ってしまった。生意気にもこのおれに食い下がるなまえが頭をよぎる。
いよいよ自分らしくない。わかっている。わかっているさ。最後のその時にあれはおれの側には居ない。幾度となく討論を重ね、突き放し続けたあの女は完全に俺とは違う生き物だ。
「シュロロロロロ……その時が楽しみだ。なあ、なまえ」
そうポツリとこぼしてから、おれは実験室で研究に戻った。
過ぎること数日。ついに構想のうちの一つが形になる。当然のようにその毒ガスでこの島全体を覆いつくせるように準備もした。表向きには研究に打ち込んている封を装ってだ。
大掛かりだったが故に周りに目をつけられ、おれは憎きベガパンクの野郎に追放を言い渡される。
衝動だ。しかし後悔はない。あの日、この島は"事故"によって死の島へと変貌を遂げた。
最後のその瞬間、なまえの顔を見やればあの女、笑いやがった。他のやつは気づきもしない程度の変化だ。うっすらと浮かべた笑みは、微笑んでいるくせにその感情が読み取れないような曖昧なもので、腹立たしさがふつふつと湧いてくる。
そうじゃない。そうじゃないだろう、なまえ。おれが見たかったのはそういうものではない。
周りの騒ぎなんてものともしない。我先にと逃げ出していく野郎どもも気にすることなく、なまえは笑ってから、ゆっくりとおれに背を向ける。
――それからしばらくして、自らの部屋で冷たくなったなまえを見つけた。あの日からずっと、胸に空いた穴が塞がらないでいる。
(20210923)