その味は誰も知らない

「あらトルル。サリハを見なかった?」
 重苦しい沈黙の中、不意に透き通ったアルトソプラノが響いた。校舎の裏手側、人気のないそこに現れるにはなんとも場違いなその女性は、白衣を身にまとい、緑の髪の青年へと微笑みかける。
 しかしその直後、傷だらけで座り込む黒髪の青年を視界に入れ、驚いたように目を見開いた。
「えっ? ちょっとやだ。どうしたの? 打撲?」
 突然の来訪者による言葉の雨に、その場にいた帝国騎士団と姫殿下は呆然とその姿を眺めていた。そんな中、いち早く反応を返したのはトルルと呼ばれた青年だった。
「なまえさん……どうしてここに?」
「サリハを探してるのよ。あの人この辺にいそうじゃない?」
「ええと……」
 質問したかったのはそういうことではない。と言い返すことができず、トルウェイは困ったように頭を掻いた。彼女が探している人物こそ、先ほど自分たちをリンチにかけようとしていた中心人物であり、現在座り込む友人の怪我をこさえた張本人だった。
 とはいえそんな野蛮な出来事があったと彼女に言うわけにもいかず、どうしたものかと視線を泳がせていたら、彼女は思い出したように黒髪の青年、イクタの前に座り込む。
「一応の処置はしているみたいね。ベッケルさんは手際がいいから……ああ、そうだ。氷を出してあげる。ミーナ」
「せっ、先生……ありがとうございます」
 傍の水精霊に呼びかけ、氷を取り出す。それを自らの生徒であるハローマ・ベッケルへと手渡したその時、視界にちらつく金髪に気づき、顔を上げる。
「……っ! ひっ! 姫殿下!」
「ああ、気にせずともよい」
 失礼致しました! と頭を下げる彼女に、困ったように眉を下げながら姫殿下ことシャミーユ・キトラ・カトヴァンマニニクは楽にするようにと声をかける。
 この、カトヴァーナ帝国第三皇女は何を思ったのか高等士官学校へ入学するという"奇行"に走った物好き皇女と裏で囁かれている少女だ。その事はなまえ・みょうじもこの学校へとやって来る際によく聞かされていることだったが、受け持つ科目が科目なだけに、今まで一度も顔を合わせたことがなかったのだ。
「ところで、誰か探していたようだが」
「あっ! サリハ!」
 思い出したかのように勢いよく立ち上がり、その勢いのまま少女らに頭を下げて校舎裏の奥の方へと慌てて向かう。まるで台風のように現れて消えていったその女性を、6人は惚けた表情のまま、見送る事しか出来なかった。
「おいイケメン。今の女性は?」
「なまえ・みょうじさんといって……」
「帝都病院の末娘……そういえばここで特別講師として教鞭をとっているんだったか」
 トルウェイの言葉をシャミーユが引き継ぐ。それに肯定を返したのは彼女の生徒であるハロだった。
 曰くわかりやすい教え方とその容姿も相まって校内での人気は高いという。説明を受けながら、イクタの目に怪しい色が射し始めたのに気づき、トルウェイが慌てたようにそれに補足を入れる。
「彼女は兄さんの……その、恋人だよ」
「あのサドイケメンの!? この世界は狂っている!」
 大袈裟に落胆を示すイクタに、トルウェイは苦笑を漏らしながらも、彼女の去った方向を心配げに見つめる。この、好色の友人よりも、今は彼女が心配で仕方がなかった。何と言っても、先ほどの乱闘の後だ。
 そんな心配をよそに、友人らは兄とその恋人の組み合わせに思うところを吐露しているのであった。

「ああ、いた! やっと見つけた!」
 目的だった緑の長髪をようやく視界にとどめた彼女は、駆け足でその背後へと駆け寄る。
 サリハ! という言葉とともに背中に衝撃を受けたサリハスラグはわずかに前に傾きながらもそれを持ちこたえる。
 背中に張り付く人物に心当たりがある故にそれを振り払う事はなく、先ほどの件で蓄積された苛立ちを押し込めてその女を見る。
「……なまえ」
「スシュラも久しぶり」
 3人の男を器用に運ぶ体躯のいい男に笑顔で声をかけ、ゆっくりと抱きついていたサリハスラグの背から体を離す。
 口数の少ないスシュラフの会釈を受けつつ、彼女は笑顔で自らの恋人と向き合った。
「なんでお前、こんなところにいるんだよ」
「サリハを探してたの。そういえばトルルに会ったわ。トルルのお友達のあれ、サリハでしょ?」
「ハッ……何のことだ?」
「しらばっくれるの?」
「しらねぇな」
「まあ、貴方がそう言うならそれでもいいけど」
 追求したところで答える気がないのなら無駄だ。と早々に諦め、彼女は苦笑して肩をすくめた。
 今はそんなお小言を言いに来たわけではない。あまり会う機会のない恋人の元にこうして顔を出せるチャンスが巡って来たのだ。それを生かさずしてどうするか。
「久しぶり。会いたかった」
 ぎゅっ、と正面からサリハスラグに抱きつくなまえを振り払うでもなく、彼は弟に目配せをしてその場から立ち去るように指示する。
 久々の逢瀬を喜んでいるのは何も彼女だけのことではない。互いの事情からなかなか顔を合わせることのないこの恋人たちは、彼女が講師として校内にやって来た時か、互いに休暇がかぶった時のみ、顔を合わせることができるのだ。
 ただ家で待つだけの女であったのならば、もっと気軽に顔を合わせることができたのだろうが、彼女も帝都病院の医師の端くれである。そう簡単に抜けることも叶わず、会う時間はなかなか取れないと言う結果になる。
「近くにいるはずなのに何でこうも会えないのかしら」
「お前が仕事をやめれば済む話だ」
「私がどれだけ優秀かご存じなくて?」
 拗ねたように彼の胸に顔を埋めながら、なまえは嫌味を織り交ぜてそう返す。
 そんなもの、言われずともサリハスラグもわかっていた。そもそも、優秀でなければこの学校の特別講師という形で教鞭をとることなどないだろう。
 院内でも指名が入るほどには彼女の腕は優れていた。……そこが、彼にとっては面白くない部分であるが。
 いっそのこと、お飾りであったのならばどれだけ楽なのだろうか。こうして限られた時間でのみ顔を合わせるでもなく、休暇を取ればそこで待っているような、そんな女だったら――。
「今、やなこと考えてたでしょ」
「俺にとっては良いことだ」
「って事はやっぱり嫌なことね。大方私が優秀なことを嘆いていたのね」
 アタリでしょう。と自分を伺い見る彼女の視線から逃れるため、そっと目をそらす。できればその目を塞いでしまいたいほどに、自分は今わかりやすい顔をしているという自覚があった。
 見んな。と辛うじて返した言葉は、彼女を喜ばせる以外の何者でもないのだという事はわかっている。しかしこの顔を見られるわけにはいかないのだ。
 堪えきれず片手で彼女の目を塞いだら、クスクスとなまえが笑みをこぼしながら抱きしめる腕の力を緩める。
「照れなくても良いのに」
「照れてねぇよ」
「嘘」
 サリハはわかりやすいから。なんて言う彼女のその唇を塞ぐように、彼は自らのそれを押し当てた。
 唇を重ねて、離したかと思えばさらに深く口付ける。予測はできていたものの、想像していたよりも荒々しいその口づけの雨に苦しげななまえの声が漏れる。
「はあ、これが外じゃなければよかったのに」
 唇が離れた折、情欲の色が見え隠れする目を彼に向けながら、なまえはポツリと漏らした。しかしそれに対する返答はいらないと言わんばかりに、なまえは再びサリハスラグに口付けるのであった。