05

 欲が出る。彼女と話す時間が、思っていた以上に自分の中で大きなものになっていることに気づいた。気になる女子というだけだったはずの彼女とよく話すようになって、見ていた世界の色が変わった。見ていた彼女への認識が変わった。それ故に、いらぬ欲が顔を出す。
 だから、廊下で会う度にこうやってニヤニヤと笑いながら話しかけに来る先輩を見ると一瞬不快感を覚える。
「よお、辻ちゃん」
「……どうも」
「ハハッ、嫌そうな顔するなよ」
 誰のせいでこうなっていると思っているのか。事あるごとに相川さんの話を持ち出した挙句、意味ありげに「へえ、頑張ってんじゃん」などと言ってくるような人ににこやかに接することができるはずもない。
 これがただのくだらない嫉妬である事は分かっているが、どうあがいたところで犬飼先輩のように彼女に接する事はできない。羨ましいのかと問われれば、多分そうだとしか答えようがなかった。
「辻ちゃんはさあ、七海の事、どう思ってるわけ?」
「先輩には関係ないですよね」
 会話自体、そう大きな声で交わされているものではない。だというのに先輩の言葉はやたらと頭に響く。いつも以上につっけんどんな答えを返してしまったと気づいた時には、先輩の表情が面白いものを見たと言わんばかりに歪んでいた。
 この人のこの表情が意味するところは何なのだろうか。自分が相川さんに対して少なからず好意を抱いているから、というのを察しているのが一番大きなところだとは思う。ただ、それだけでは説明がつかないような、この何処と無く現れる不安はなんだろうか。
 俺を避けるように先輩が一歩前に出れば、彼は自分の少し後ろへと消えてしまう。その表情が見れないことに言いようのない不安を覚えた。
「……関係ない、か。どうだろうなあ?」
 意味深な言葉に振り返れば、先輩は既に自分の教室のある方向へと歩みを進めている。時間的にはもう少しで予鈴がなる時間であり、ここで彼を引き止めるほど余裕があるわけではない。
 もやもやとした思いを抱きながらも、俺もまた、自らの教室へと足を運んだ。

「辻くん、もう普通に話せるのにね」
 その日の放課後、いつも通り気がつけばあの廊下へと足を運んでいて、そこで待っていたかのように相川さんは笑って俺に手を振った。
 同じ教室で、同じ時間にホームルームが終れども、俺たちが肩を並べて教室を出ることはない。少し時間をずらして現れた俺に、彼女は笑いながらそう言った。
「……相川さんだからね」
「前もそれ言ってたよね。慣れたら平気って」
「それが結構大変なんだよ」
 大変だ。大変なのだ。意中の女子とこうして言葉を交わせている奇跡に驚くほどに。本来ならばこうして顔を合わせて言葉を交わすなど、想像すらできないことなのだ。
 眉を下げてそう言えば、彼女は「ふうん」と言葉を返す。言葉自体は興味なさげなのに、少しだけ嬉しそうに見えるのは勘違いなのだろうか。
 いや、ここであまり期待してもあとで恥をかくだけだ。しかし、そうは思っても思いがけず言葉がこぼれてしまう時というものはあるようだ。
「……それに、相川さんだったから――」
 こうして話したいと思ったんだ。という本音が音になる前にハッと気づいて言葉を切った。聞き取れなかったのか、相川さんは目を瞬かせながら「えっ?」と聞き返す。それに俺はなんでもないよ。と返して、おしまい。
 恥ずかしいのでできればこの件は蒸し返さないで欲しかった。故に、一番気になっていることを問いかけることにした。
「……あのさ、前も聞いたんだけど」
「うん?」
「犬飼先輩と仲、いいの?」
「うん? うん。中学の頃にやらかしちゃって……」
 あはは。と何かを誤魔化すような笑い声をあげて、ほんのり頬を染める様子に胃よりも上、心臓のあたりがツキンと痛んだ。
 まるで、特別な関係であるかのように思えてくるのは考えすぎだろうか。なんせ今朝、当の犬飼先輩が意味深な言葉を残しているのだ。
 焦り。そう、この急き立てるような感情は焦りだ。このままでは、相川さんが犬飼先輩の元へと言行ってしまうのではないかという漠然とした焦り。
 彼女の行動を制限することなどできないことはわかっていても、極力2人を近付けさせたくない。見て見ぬ振りをしてきたものに直面するような感覚。
 わかっていたことだ。俺は相川さんが"気になるクラスメイト"なんかではないことに気づいている。
「どうしたの?」
「……いや、なんかすごく仲がいいみたいだから」
「そうかな? 普通じゃない?」
 小首を傾げる様子に、「全然普通じゃない」と言いかけてやめる。もしかしたら彼らの関係は一般的に見て普通の先輩後輩で、彼女に想いを寄せる自分だからこそ普通に見えないだけなのかもしれないと思ってしまったから。
 そうだとしたら、相当に痛いやつだ。彼女には、相川さんには、かっこ悪いところばかり見せてしまっているけど、幻滅はされたくない。鬱陶しいと思われたくない。
「犬飼先輩、相川さんの話ばっかりしてるしね」
「手のかかる後輩だからなあ」
「相川さん、しっかりしてるのに?」
「してないしてない! 先輩とか、辻くんにだっていっぱい迷惑かけちゃってると思うし」
「……それはこっちのセリフだよ」
 思い返せば恥ずかしくなるほどに、俺は相川さんに迷惑ばかりをかけている。今だって、本当は忙しいであろう彼女の時間を拘束しているのだ。
 いっそ、本当のことを伝えて彼女を解放してやるべきなのではないか。俺が、彼女に想いを告げてしまえば、この関係はいともたやすく崩れ去る。簡単なことだ。彼女に想いを告げるだけ。簡単な……――。
 相川さん。呼びかければ、彼女はまた、目を瞬かせて不思議そうに俺を見る。改まった様子に何かを察したのだろうか。
「俺、相川さんに言いたいことがあるんだ」
「どうしたの? 改まっちゃって」
「……いや、うん。また今度、ね」
 今、言うべきなのだと思った。関係を壊してしまうにしろ、継続するにしろ(どちらにしろ壊れてしまうとは思うのだが)、告げるならば今だと思って改めて彼女の名を呼んだはずだ。だというのに、意気地なしの俺はあっさりと結論を先延ばしにしてしまった。
 また今度。なんて、いったいいつになったら解放してやるつもりなのだ。
「? うん。また今度。楽しみにしてもいい内容?」
「……わからない」
 相川さんが、もしも俺を想ってくれているのならば楽しみにしてもいい内容なんだけど。都合よく考えてしまった俺は、自己嫌悪を抱きながらその考えを否定する。
 どう考えたって彼女を困らせてしまうのだ。だが、いつまでもこの関係が続くはずがなく、続けていいはずもない。
 そんな俺が、今彼女に告げることができるのは謝罪だった。ただ、それだけ。依然不思議そうな顔をした彼女に。俺は目をそらしながらそれを口にすることしかできない。
「ごめんね」
 好きになってしまって、ごめん。