ふと、思うことがある。こうして相川さんと話をしている時間が、かけがえのないものへと変わっていっている。元々、彼女に対しては名前のつけられない感情を抱いていた。もちろん、好意的なものだ。
透明感のある綺麗な声は、自分の苦手な女子そのものであるというのに、発信源が相川さんだというだけで違って聞こえる。わかっている、この感情が何であるかは初めから理解している。ただ、相手への迷惑を考えると名前をつけてはいけない気がしているだけなのだ。
背中を壁に預けて、いつものように彼女と言葉を交わすこの時間は、自分にとって大切なものである。ただ、それだけに疑問がわく。
「いつも思うんだけど、相川さん楽しいの?」
「えっ? なにが?」
「ここでこうして俺と話してるの。つまらないんじゃないかなって」
こういうことはあまり口に出してはいけないということはわかっていた。優しい彼女のことだから、どう思っているかはともあれ絶対に俺にとって耳障りのいい言葉しかくれないだろう。
でも、やはり湧いてしまった疑問を口にしてしまった以上、今更の撤回はできない。壁を挟んで背中合わせになっているということにひどく安堵を覚えた。彼女は今、いったいどんな顔をしているのだろうか。考えるだけで恐ろしい。
「つまらなかったらここに来なくない?」
「相川さんは優しいから」
心からの言葉である。優しい彼女は予想通り、俺にとって心地の良い言葉をくれる。たとえ社交辞令であろうとも、その言葉は容易に俺の中に染み渡っていく。
まるで解毒剤のようだ。じわじわとこの身を蝕んでいた毒をいともたやすく綺麗にしてしまう。この場においての毒は、あの日からずっと考えていた犬飼先輩と相川さんの関係についてのことだった。
考えれば考えるほどドツボにはまり、よもや付き合っているのではないかという考えさえ湧いてくる。なんせ、女子に対してちゃんづけで呼ぶ先輩が名前を呼び捨てているのだ。それなりに親密でなければありえないだろう。
「優しいのは辻くんでしょ」
「え?」
予想外の言葉に、思わず固まる。自分は彼女に優しくできているのだろうか。こんな壁越しでしか話さなくて、更にはただそれだけの時間を楽しんでいるだけの男だ。
それのどこが優しいのだろう。そんな疑問は、続いた彼女の言葉が解決してくれた。
こんな私なんかと話してくれたりしちゃって。忙しいんじゃないの? なんて、まるで自分が俺と話していること自体がおかしいのだと言わんばかりの発言に驚いた。
なんせそれはこちらのセリフだ。自分が、彼女の時間を拘束してしまっているのだ。
「……まあ、ここにきてる日は忙しくはないよ」
「その間」
その声色から、彼女が呆れたように半眼でこちらを見ているような気がしてくる。自分に向けられたものではないが、その顔は見たことがある。
あれはいつのことだったか。思い出すよりも早く、彼女の言葉が再開される。
「辻くんってさ、女子が苦手って聞いたんだけど」
「急だね」
脈絡もなくそこに切り込まれるのは流石に一瞬動きが止まってしまった。なんでそうなのかと聞かれても困るのだが、彼女はそれを切り出して一体何が言いたいのだろうか。
からかう様子も感じられないから、余計にそう思ってしまう。わずかな警戒が芽生えるのを感じた。
ただ、それ以上に脈絡のない問いかけだったから、思わず笑ってしまった。
「私とはこうして話せるじゃん?」
「壁越しだけどね」
そう、彼女とは言葉交わすことができるのだ。親族だとか、同じチームの繋がりがあるとか、そう言うわけでもないただのクラスメイトであるはずの彼女と。……訂正。密かに気になっているクラスメイトだ。
だからこそ、自分にとっては奇跡的なのだ。
そう思う俺をよそに、彼女は言葉を紡いでいく。
「徐々に慣らしていけたりとかしないの?」
「なんでまた……」
言ってから、これは言外に彼女が迷惑だといっているのではないかと言う可能性に行き着いた。そりゃそうだ。多少話す程度のクラスメイトは、自分以外の女子とは言葉をかわすことができない。誓って言える。相川さん以外とは、たとえ壁越しであっても無理であると。
もしも俺のこれが迷惑であるのなら、はっきりとそう言って欲しい。しかし優しい彼女は「やっぱり不便じゃない?」とさらに問いを続ける。俺はそれを肯定することしかできない。
不便と言われればそうなのだろう。世の中の約半分は異性であり、その大半と言葉をかわすことが困難である。ただ、俺はこう指摘になる人と話せればそれでいいとも思っているから少しだけ、申し訳なさが募る。
こんなの、気持ち悪いに決まっている。
「ボーダーの女の子は大丈夫なの?」
「うちのオペレーターは……慣れた、かな」
「なるほど慣れ」
妙に納得したような声色に、先程から渦巻く不安が少しだけ薄れた。まあ、調子に乗っていると言っても相違はないだろう。
相川さんも慣れた方。なんて、自分らしくない言葉を口にすれば、彼女はくすくすと笑いながら「壁越しでー?」と口にする。おっしゃる通りである。
だから、なんとか作ろうように言葉を探すけど、俺はこう言う時にろくな言葉が浮かんでこない。
「なんというか……恥ずかしい」
「わ、私が!? 何か恥ずかしいことでもしてる!?」
不安そうな声色に、やはり勘違いを招いてしまったと自己嫌悪に陥りながら「や、相川さんがじゃなくて……」と言葉を重ねる。こんな時、先輩だったら気の利いた言葉の一つでも浮かぶのだろうか。そう思うと余計に気分が落ち込んでしまう。
相川さんは「言いづらいなら言わなくてもいいよ」と慌てたように口にする。ああ、こんな時にでも他人を気遣える彼女がとても眩しい存在に思えてくる。……いや、それは多分初めからそうだ。
何か言わなくては。そう思っても出てこない言葉を、どうにかこうにか搾り出そうとしたらやっぱり彼女が先に言葉を切り出した。
「辻くんのその苦手意識って、ボーダーのお仕事でも支障をきたすんでしょう?」
「なんっ……犬飼先輩か」
なぜ彼女がそれを知っているかなんて、考えるまでもないことだ。どういうわけか彼女は犬飼先輩と仲がいいらしい。それについて詳しく聞こうとするたびに先輩がからかうような視線を向けてくるため、結局のところ何もわからないままだ。
いっそここで聞いてしまおう。別に、変な事を聞くわけではない。……不自然でもないはずだ。
「相川さんって犬飼先輩と仲良いよね」
「中学の時からお世話になってるから……ってそうじゃないよ! 今は犬飼先輩じゃなくて辻くんのはなし!」
慣れた様子で答えたかと思えば、顔を合わせていないにもかかわらずたじろいでしまうほどの勢いで話を戻すみょうじさん。気にはなるもののここでさらに話を戻すと厄介そうだから、今はおとなしく彼女に話を譲ることにする。
主導権を得た彼女は、一瞬のためらいののち「練習」の提案をしてきた。曰く、女子が苦手ならば自分で慣れればいい。とのことらしい。
確かに彼女は数少ない話せる異性ではあるが、そこまで甘えてしまうわけにはいかない。という思い半分、この時間を正当化することができる。という不純な思い半分。それらを悟られないように平静を装って「練習って」と返すので精一杯だった。
「話したり、目を合わせたり?」
あ、話は顔を合わせなければできるのか。と続ける彼女の言葉をやんわりと否定する。多分だけど、ひゃみさん以外はほぼ相川さんだけだろう。試したことはないが、試す気もない。
どことなくやる気に溢れている彼女を微笑ましく思いながら、不純な思いが混ざってしまった自分が彼女の提案を飲むと答えてしまった。
ただ、彼女に迷惑をかけることになるのだからこのまま「よろしく」とはいかないだろう。
「相川さん」
意を決して振り返れば、彼女は驚いたように目を瞬かせてこちらを見た。一瞬のそれだけで、顔に熱が集中していくのを感じる。目を合わせるだなんて、とてもじゃないけど無理だ。
自分にできるのは、彼女に礼を述べるだけだ。ありがとうと口にして、それじゃあ。と踵を返す。
もはや、恥ずかしすぎてこの場に留まることすらできない。そんな俺に、彼女は「待って」と制止をかける。それを振り切ることのできない俺は、ピタリとその場で足を止めた。
「連絡先を教えて欲しいんだけど」
「あれっ?」
こう、自意識過剰でもなんでもなくて、もう知ってるものだとばかり思っていた。そういえばこの場には連絡をして集まっているわけではなくて、ふと思い立って足を運ぶだけだった。以外にもそれですれ違いを起こすことが少なかったせいか、今更な問題が浮上していたようだ。
それに、先日「七海に連絡先聞かれたから教えるぞ」と犬飼先輩が言っていた気がするのだが、あれはなんだったのか。彼女の様子から、そんな事を口にした気配すら感じ取れない。
とりあえず、それは一旦隅に追いやることにした。今は自分の携帯に登録された相川七海という表示を目に入れて、ひっそりと幸せを噛みしめるだけだ。こんなこと、絶対に知られるわけにはいかないけれど。
義務感であったとしても、相川さんはやっぱり優しくていい人だ。