もう一度、白にする

 バッドガールな私は、いつものようにクルーウェル先生に特別授業という名の、たった一人しかいない補習のようなものを受けていた。相変わらず綺麗な顔ですね、なんて煽てたところでもちろん成績が上がるわけでなく、職員室ではなく魔法薬学準備室で先生と向かい合うかたちで問題を解いていく。理系科目が苦手というわけではないけれど、今回はただ少しやる気が出なかっただけ。テストの点と気分には大きな関係があると思っている。フロイド先輩だってそのタイプ、らしいし。

「クルーウェル先生、飽きました」
「そんな文句で切り抜けられると思ったら大間違いだ」
「ケチ!」

 長い脚を組んで、先生は私が教科書にダルメシアンのイラストを描くのをただ眺める。眺めるというよりは、監視なのかもしれないけれど。先生といる時間は結構好きだし、クルーウェル先生の薬品とは違うどこかスパイシーな甘い香りも好き。けれど、勉強となれば訳が違う。今日は本当に気分じゃない、それだけだ。先生だって私のような気分屋優等生のために時間を割くほど暇じゃないだろうに。

 ――と、そんなことを考えながら簡単な計算式を立てていたところまでが回想である。

「……」
「……ハァ」

 つい今さっきまでお勉強会を開いていた私とクルーウェル先生は、突然強い光に包まれたかと思いきや、六畳ほどの大きくない部屋の中にいた。それも、気が狂いそうになるほどに、天井も壁も白くて、電気も窓もないのにその室内は明るすぎるほどだった。光なんて入ってくる隙間はないのに、そういう類の魔法でもかかっているのだろうか。
 私が唖然と立ちつくして、隣の白と黒の先生が溜息をついたのは、唯一の出入口と思しきこれまた白い扉に綴られた文字のせいだった。

『キスしないと出られません』

 こんなふざけた話があるだろうか。しかもこの組み合わせで。試しにガチャガチャと丸いドアノブを回してみるけれど、びくともしない。どうやら内鍵でも外鍵でもなさそうだし、もちろん引き戸だなんてこともなかった。あまりにもふざけすぎているのではないかと、先生の方を見ると、頭を抱えて、どうやら何か知っている様子だった。

「妖精たちの仕業だな」
「よ、妖精? なんて悪趣味な……」

 クルーウェル先生が言うには、男女をくっつけよう計画を企てる妖精がもともと学園に棲みついていたらしく、しかし肝心の女子がいない中に私というイレギュラーな存在が入ってきたため起こったであろう、ということだった。それがよりにもよってどうして先生なの!? と言うと、先生は「生徒同士だったら変な気を起こしていたかもしれないな」なんて。確かに。その点ではクルーウェル先生なのは安心かもしれない。
 キスって、その話だとおそらく唇と唇。挨拶でするような頬に軽く触れるものでは開かないだろう、と推測を立てることは容易だった。挨拶程度のキスなら、私はあまり馴染みがないけれど、父親や母親、友人同士なら頬にすることは珍しくない。けれど、唇には――

「仔犬」
「は、はい!」

 開く気配が微塵もない扉の前に立っていた私のもとに、私と先生の声や息遣い以外何も聞こえない、静かすぎるこの部屋に靴音を響かせて近づいてきた。相変わらず、少し主張の強いアイシャドウをキラキラ輝かせて。努力の賜物だろう、とても三十代とは思えないきめ細かい肌が羨ましくなる。
 するとクルーウェル先生の赤い革手袋に包まれた、それでもわかる男性特有の骨ばった大きな手が私の髪をさら、と耳にかけた。あ、もしかして、本当にするの? そのまま後頭部に手を添えられて、まさしくそういう雰囲気になってしまって。薬品と香水の匂いが強く鼻についた。徐々に近づいてくる薄めの唇に、突然心臓から喉にかけてが緊張によって大きな音を立て始めたので、ぎゅっと目を瞑って身体をカチカチに強ばらせると、唇に降るはずの感触は私の額に、ちゅっ、と軽く音を立ててから離れた。あれ、おでこ?

「あっ」

 やっぱりクルーウェル先生も私と同じ考えをお持ちらしく、そうですよね、どこにも唇って書いていないですものね。それが普通の考えだろう。額にわずかに残された温もりがさらに熱を持ったかと思うと、先生は何とも思っていないみたいな表情ですぐ隣の扉を見た。羽根ペンで書いたみたいな手書きの文字はもちろん消えているはずもなく、つい数秒前まで私の頭に添えられていた手がドアノブを捻る。それはあっさりと開いて――

「……」
「……」

 扉はガチャガチャと音を立てるだけで、少しも開く気配がない。先生は潔くドアノブから手を離すと、また溜息をついた。そりゃあ、何度も溜息をつきたくもなりますよね。扉には『唇じゃないとダメに決まってるでしょ!』とお怒りらしい妖精によるおしゃれな手書きメッセージが浮き上がってきたのだから。こっちの方がお怒りだし、クルーウェル先生は怒りを通り越して呆れ果てている。

 とりあえず埒が明かないので解決策を考えようかと先生と白しかない地面に座った。気味が悪いことに、私たちの影が落ちることはなかった。まず、この状況を妖精とはいえ他人が見ていることは、普通に考えてそれなりに恥ずかしい。先生は深く考えるような素振りをしてから、体育座りをして膝に顔を埋めている私の方を向いた。

「ファーストキスは済ませたか?」
「へっ!?」

 突然振られた話題に声がひっくり返ってしまうのも無理はないだろう。そんな、普段クラスメイトがしているみたいな話題を私にクルーウェル先生が振ってくるだなんて。けれど、先生はクラスメイトたちと違ってふざけているわけでもなさそうで、真剣な面持ちで私の目を真っ直ぐ見ていた。どんな表情でも綺麗なので呪いたくなってしまう。
 どう答えようか、何を言えば先生の望む答えになるのか、もちろんそんなことを考えても仕方がないので、素直に、包み隠さず答えることにした。

「……ないですけど」

 なんとなく予想はできていたけれど、私の答えへの返事はもちろん深い溜息だった。頭を抱えて、だなんて、今日一の溜息かもしれない。それから頭を手で押さえたまま、今度は私の方を見ずに扉の方を見ながら言葉を紡ぐ。さらなる質問ラッシュだ。

「想い人は?」
「今はいません」
「交際経験は」
「……何度か」

 クルーウェル先生相手だからこそこういう話ができるというのもあるけれど、クルーウェル先生相手だから恥ずかしくなるのも当たり前のことだ。どうして先生に生徒の恋愛事情を共有しなければならないのか。それはこの状況を鑑みると仕方がないことなのかもしれないけれど。
 先生は交際経験はあるのにキスはまだなのか、と言いたげな、というのはきっと私の思い込みで、じっと私の方を横目で見てきたので、今度は私から口を開くことにした。

「ファーストキスって、大事って聞くので。本当に初めてがこの人でいいのかなって思っちゃって」

 ミドルスクールで交際をして、キスをして、早ければそれ以上に発展することはこの世界では珍しくない。けれど、いざそういう雰囲気になってしまったときに怖気付いてしまうことばかりで、交際経験はあれど手を繋いだり一緒に遊んだり。経験と言っても飾りのようなものだ。

「……厄介だな」

 先生はさらにまた深い溜息をつくと、そう呟いた。きっと先生は、クルーウェル先生のことだから、私のファーストキスを守ろうとしてくれていて、私の言うことだって尊重してくれるだろう。私だってこの考えは間違っていないと思っているし、初めての口付けは本当に好きな、この人しかいないと思える人としたい。ミドルスクール時代の友人には「夢見すぎ」なんて言われたものだけれど。
 だから、クルーウェル先生とできるか、と言われると、答えはできる。けれど不安はある。好きといえば好きだけど、恋愛に発展するようなそれではないことは私もわかっているし、何よりこの美魔女に騙されてはいけない。美魔女の対義語が存在するなら、美魔男。先生と私はひと回り以上離れているということを見つめ直すと、より不安やら何やらは募るのだ。先生だってきっと、それはわかっている。

「……先生とするってなるなら、不安だし、後悔するんじゃないかっていうのもあるよ」

 もし私がプレイガールで、今までに何度もそういう経験があって、なんとも思っていない男の子にも余裕でキスできるような人間だったら、とっくにこの部屋から出ていた具合だろう。クルーウェル先生はきっと経験豊富だろうから、こんな私をうざったく思うかもしれない。
 しかしこんな私の答えでは埒が明かないのもまた同じ。イタズラ好きの妖精さんが私なんかの答えを尊重してくれるはずはないし、私たちだって唇同士でキスしないと出られないことは承知済みだ。だから――

「出ましょう、先生。キス、しましょう」
「……ミョウジ」

 私は埋めていた顔を、先生の方に向き直して、直視するのも恥ずかしいくらい綺麗なお顔は意を決した私には少しも恥ずかしくなくて、真っ直ぐにその瞳を見た。先生は私から顔を逸らさずに目線だけ下に遣って、顎に手を添えて考え込む素振りをした。何か、まだ問題があるのか。それとも私を気遣っているのか。そんな気遣いとか、私の初めてを守るとかよりも出ることの方が最優先なのに。
 数十秒考え込んだらしいクルーウェル先生は、一人納得したように小さく頷いてから、また私と目を合わせた。白い前髪が少し揺れて、そこから覗く意思の強い瞳。

「ここから出たら、ここでの記憶を消す薬を作ってやる」

 せめて記憶くらいは。そう呟いた先生は扉の方をちら、と見てから私に手を差し伸べた。その赤い革に覆われた、布越しでも体温を感じる手に自身の手を重ねるとそれに引き寄せられるように立ち上がって、扉の前に立つ。

 先生はさっきみたいに私の邪魔な髪を耳にかけようとして、その目はやっぱり教師をしているデイヴィス・クルーウェルの顔。真剣そのもので、それが逆に私の身体を硬直させる原因になった。本当に先生とキスするなら、やっぱり、不安だ。それを汲み取ってかクルーウェル先生は、すぐに終わらせる。そう言うと私の髪を梳いた。綺麗にしておいて良かった。ここで絡まって引っかかってしまったら、それこそまた恥ずかしいから。
 その手に与えられる安心感により、徐々に力は抜けていく。覚悟を決めた私は先生を見上げて、小さく頷いた。

「目は閉じていろ」

 ここから出たらどうせ記憶を消してくれるし、お互いこのことなんて覚えていないはずなのに、先生はこうして配慮してくれるらしかった。私にとってはどうせ忘れるそんなこと、どうでも良かった。けれど、先生のせっかくの気遣いを無下にするわけにはいかず、また頷いてからゆっくりと瞼を下ろした。すると次第に先生の気配と香りが強くなって、顎に手を添えられたので目を開きたい衝動に駆られつつも目を閉じたままでいると、私の唇にさっきは降ってこなかった感触が、降りてきた。柔らかくて、思っていた以上の安心感。体感時間はひどく長いけれど、きっと実際はまだ五秒も経っていないのだろう。気になってつい薄目を開けると、目を開けたままの先生と視線がぶつかって、顔が熱くなったので目を自主的に閉じる前に、先生の手が私の目元を暗くした。それでも薬品の匂い、スパイシーで甘い香水、それからこの距離だから感じられるのであろうまた違う、クルーウェル先生の香りが鼻腔をくすぐり、私と口付けを交わしているのが誰かということは見なくても認識できた。

 ファーストキスが好きな人じゃなくても、私が絶対にこの人だと選んだ人でなくても、こんなに安心する人なら忘れられなくてもいいかもしれない。少し勿体ないような、そんな気すら。けれど、せっかくの先生の心遣いだし、忘れる前にもう少し先生の香りと唇の感触を強く感じていたい。そう思っていた矢先、私たちの隣でガチャ、と鍵の開くような音がして、その音を認識した瞬間にゼロだったクルーウェル先生と私の間に距離が生まれて、同時にぼやけた視界が広がり、ゆっくりと像を結んだ。

「開いたようだな」
「……そうみたいですね」

 私に背を合わせてくれていた先生は、元の目線の高さに戻って、ふう、と息をつくとドアノブに手をかけた。扉には満足そうな『いいもの見れたわ! ありがとう♡』という私たちの気も知らなそうにしているメッセージが浮き上がっていたので、先生も舌打ちするしかなかったみたいだ。

「出るぞ」

 思いきって扉を開けたクルーウェル先生は、何もなかったみたいに私の方を見てそう放って、唇から離れた熱が少し惜しいのは気のせい。気づかれない程度にその温もりに自身の人差し指と中指で触れると、先生に次いで部屋から出た。

 ◈◈◈

「妖精たちには強く言っておく」
「お願いしますよ、本当に」

 部屋から出たらパッとまた光に包まれて、最初にいた薬学準備室に二人並んで立っていた。先生が薬を調合している間、妖精に対する愚痴と、それからクルーウェル先生は悪くないのに私に何度か謝罪をしてくれた。私が面倒くさい女なことに、どちらかといえば謝罪がしたい。
 あの白い部屋にいた記憶だけを消す薬だなんて限定的だな、と思えば、ここ一時間の記憶を消す薬らしい。一時間前といえば丁度この準備室に来た頃らしく、先生は「この勉強の成果が反映されないのは残念だが」なんて言っていた。まあ、大して進んでいなかったし私もそんなに勉強は苦手ではないので許してほしい。

「ほら、できた」
「早〜い」

 ものの数分で完成してしまったその薬は、蛍光を含んだグレープジュースみたいな色をしていた。美味しそうといえば美味しそうだし、不味そうといえば不味そうだ。効能のなくならない特殊な器にそれなりの量を注がれると、私に手渡される。魔法薬の不味さって結構致命的なのに、この量はそれなりに苦しいなあ。って、

「先生は飲まないんですか?」
「俺はお前が無事に飲んだのを確認してから飲む」
「徹底しますね」

 そんな先生の手元にはもう数滴分ほどしか残っていないけれど、クルーウェル先生のことだから調合なんておちゃのこさいさいなのだろう。私がきちんと飲みきって記憶を消すのを見届けてから飲む、らしく、一緒に飲めばいいのになあとも思う。

「いただきます」

 蛍光のせいでやはり不味そうに見えるそれを飲むのは多少なりとも覚悟が必要だけれど、先生がせっかく調合してくれたし? 先生が頬杖をついて見守る中、息を止めてそれを思いきり喉に流し込んだ。

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