水に変わりないはずなのに

 よくある光景、だったと思う。

「む……」
「なに、どうしたの?」

 ブラッシングを終えて、準備運動も終えたら、ウォーミングアップ。お互い一年生なのもあったり、同級生の中でも彼の扱いを慣れているのは私だけだったし、一緒に授業を受けたりで、言うなれば友達。リリアさんいわく、こうした人間は私が初めてだったみたい。セベクにとっては、新鮮だったのかな。
 ゴール地点まで走って、セベクも私も好調だったから、今日も私の負け。けれどセベクはどういうときでも手を抜かず、真摯に戦ってくれるから、ありがたい存在だった。これに関しては、リドル先輩やシルバー先輩も同じだったけれど。それぞれのタイミングで馬から降りて、待機位置まで戻る。いつもの流れだったのだけれど、時期もあって日差しが痛い。朝から時間をかけてセットした前髪は当然のように汗で張り付いては崩れる。どうやらセベクが小さく声を上げたのは、暑さによるものらしく、インナーに染みを作っていた。

「喉が渇いたのだが、生憎水は部室に置いてきてしまった」
「あらら」

 スタイリング剤が、強いのだろうか。完璧ではないオールバックの、綺麗な色の髪は汗をかいても乱れていなかった。そもそも、スタイリング剤が落ちるほどの汗でないというのが事実だろう。その髪を少し掻き上げるような仕草をすると、セベクの額から汗がつー、と落ちる。タオルも部室に置いてきたのなら、取りに戻らなきゃなあ。そう思って背の高い彼を見上げていると、ポケットから小さく見えるハンカチを取り出しては、ぽんぽんと汗を拭っていたので、つい笑ってしまった。

「何がおかしい!!!!」
「やん、ただでさえ暑いのに大声出さないで。ただハンカチ持ち歩いてるの偉いなあって思って」
「ふん、何を当然のことを」
「できてない男の子もいっぱいいるでしょ」

 セベクは、元々の性格とお育ちの良さが結構目立つ方だ。彼からすれば常識なのかもしれないが、いつかのニュースでお手洗いに行った後に手を洗ってない男の人も多いというものを見たときは衝撃だったものだし。それに、「偉い」のひと言でドヤ顔をするところが、なんとも末っ子気質だ。

 暑さもあり、まだ息が切れる。各々の馬を引いて、厩の近くには私の水筒とタオルが置いてあるから一旦休憩という意図でそちらに向かえば、セベクも私に並列して着いてくるものだから、またかわいい。あえて触れずに、何も言わないで厩の方まで到着すると、シレーヌを柵に繋いでから地面に置いたペットボトルを手に取って、喉に流し込んだ。うわ、ぬる。まあ、ないよりマシだけれど。透明な水がいつもより強い日光を反射する。ラウンジにあるウォーターサーバーで好き放題水を入れていると、そろそろ寮長がうるさいから明日からはカルキ抜きだ。それから、保冷の効くやつにしないと。

「……はぁ〜っ!」
「ミョウジ酒飲みかよ」
「うるさーい」

 こんな真夏に外で、なんて、馬鹿げてる。そりゃ酒飲みにもなる。まあ、馬に乗っている分生ぬるいけれど風は感じるから、バルガスの授業よりは余程マシだ。それから、ペットボトルの上にかけておいたフェイスタオルを首にかけては、もう前髪やメイクなんて気にしていられない! と、しかし控えめにちょんちょんと汗を拭いていると、日の下だからか透き通って見えるアンティークゴールドと目が合った。

「あれ、そういえばなんでこっち来たの」
「それは…………何故だ」
「無意識だったんだ」

 なんの疑いもなく着いてくるの、結構危ないじゃん。部室は厩の裏でそれなりに遠いから、待っててあげようかなあ。暑そうに汗を拭うセベクを見てその考えが頭をよぎるも、私の手元にあった水が、風のようにその考えはどこかに運んでいってしまった。また、私の悪戯心が燻られる。

「ぬるいけどこれ、飲む?」
「ああ。すまない、ありがとう」
「おっ」

 少し、予想を裏切られた。てっきり、「破廉恥な!!」とか言われて、「破廉恥なのはどっちよ」と笑う予定だったのに、少し思いとどまったものの、私の手の中にあったペットボトルはあっさりとセベクの大きな手に渡った。私が飲むか聞いたときのにやにやは、周りにはいつものことかとバレていただろうけれど、セベクはそんな遊びに乗るより水分補給を優先したのだろうか。熱中症になればものすごく困るし、セベクの方が正しい。
 右手を腰に当てて、おそらく冷たくない水を喉を鳴らして飲むのを、やっぱり背が高いなあ、なんて呑気に考えながら見上げる。水だけでなく、セベクのミストグリーンの先から滴る汗もきらきら綺麗に陽の光を反射していた。

「セベク」
「ん?」
「間接キスだね」

 気にしていないとしても、一応言っておこうか。余程喉が渇いていたのだろう、半分以上あった水が再びちゃぷ、と音を立てると、中身はかなり減っているように見えた。まあ、自販機で買えばいいし、言っている間に日だって沈むから全然構わないけれど。
 セベクが口を離したタイミングで、セベクに声をかければ、わかりやすく口に含んでいた水を吹き出した――わけではなく、わずかに口の中に残っていたのかもしれない水が変なところに入って噎せたらしい。ごほごほと、頭を少し下げながら大きく咳をしていた。

「な、な、なんてことを言うんだ貴様!!!」
「事実を言っただけだよ」
「なんて破廉恥なやつだ!!!!」
「照れた? 照れた?」
「照れてなどいるものか!!!!!」

 クレッシェンドがよく効いている、素晴らしい大声だと思う。元々が大きいせいで、ほとんど同じ音量な気もするけれど。暑さのせいか、私のせいか、頬どころか耳まで赤く染めたセベクがぐっと左手に力を入れると、ペットボトルが少し凹んだ。その状態をキープしたセベクの手からそっとペットボトルを私の手に戻すと、セベクの手の形はペットボトルを握っていたときのままで固まっている。
 凹んだままって、気になるよねえ。ふうっ、と思いきりペットボトルに口をつけて息を吹き込むけれど、もちろん私程度の肺活量で戻ることはなくて、お湯につけるほどでもないし、とついでにまたぬるい水を少し口に流し込むと、キャップを閉めた。そのままちら、とまたセベクを見上げれば、同じ体勢のままで顔だけをさらにかあっと赤くしていた。

「……また照れさせちゃった」
「あー、全部お前が悪い」
「セベクが可哀想だろ」
「っ! だから照れてなどいないと言っているだろう!!!」

 二度目の私からの間接キスは、私だって意図的ではない。けれど、友達なら回し飲みくらいするでしょ、の考えを持っている私にとっては照れる材料にはならないし、むしろまたセベクの美味しい反応が見れてラッキーだった。セベクをからかった罪として私は他の休憩中の部員たちに責められ、セベクは照れていないと眉を寄せている、その後ろではリドル先輩とシルバー先輩が颯爽とコースの障害物を避けていた。

 ◈◈◈

 セベクも私も、インターンのときから薄々感じていたけれど、職種は似たようなものだった。しかもそのまま就職して、最寄り駅も同じ。家はそんなに近いらしいけれど。しかし、だからといってお互いの家の住所を把握しているわけでもなければ、頻繁に会うわけでもなく、就職後初めて予定を合わせて会ったのは、私たちの代での同窓会だった。

「まさかセベクが茨の谷を離れるなんてねぇ」
「やめろ、若様の元に戻りたくなってしまう……」
「ホームシックだ」

 とはいえ、セベクの若様命! 精神はかなり控えめになっているようだった。こうして地元も離れたわけだし。それでもセベクの口からはさっきからずっと若様、若様、若様、リリア様、シルバー。茨の谷が大好きなのは、変わりないようで安心する。それにしたって、たまに仕事帰りに見かけて話しかけたときから思っていたけれど、背も伸びたし、ガタイもさらに良くなった。声は落ち着きをもっていて、何より変わったのは、若様の前だからと固めていた髪が無防備になっているところだ。ひと房だけ、主張が強い髪が垂れていた。

「セベクってお酒強いの?」
「妖精族は元よりアルコールに強い体を持っている。僕もその血を引いているのだから、人間よりは強い」
「へえ。セベク、弱そうなのにね」
「馬鹿にしているのか?」
「ううん、褒めてる」

 まさかあのセベクが二次会にまで来ると思わなかったし、二次会がバーだとも思わなかった。多くが明日は仕事だから、と離脱したので、割とこじんまりとした空間でテーブルを囲み、カクテルを喉に流し込んだ。セベクとは身長差はあるけれど、それでもこうして同じ高さの椅子に座ったときの肩の高さが高そうで高くないあたり、座高も脚の長さも良いバランスで羨ましい。
 お酒に強いと言いながらも、好んでグイグイ飲むわけでもないセベクと、ベロベロになって帰れなかったら嫌だからと比較的度数の低いお酒を飲む私以外は、だいぶ出来上がっているようだった。

「仕事も、真面目にやってそうだね」
「抜かりない。ナマエも……いつも頑張っているみたいだな」
「ふふ、うん。慣れてきたよ」

 ナイトレイブンカレッジ卒業の女なんて、馬鹿げている。そう思ったけれど、学校側がなんとか融通を利かせて、辻褄を合わせてくれたおかげでインターンも受け入れてもらったし、そのまま就職させてもらえて上手くやっている。まあ、もし拾ってもらえなければアズール先輩の経営するリストランテなり、それこそナイトレイブンカレッジなりと就職先は他にもあったけれど。そこそこの有名企業なのもあり、先輩に出身校を聞かれたものなら、なんとか切り抜けている。

「ねえ、また予定合わせて会おうよ。サシ飲みしよう」
「ああ、構わない」
「やりい」

 いつでも会える距離なのが、大きいよねえ。これまた明日は休みらしい、仕事帰りのトラッポラは別の面々と話していたが、この話題を耳にしては「オレのことも呼んでよ」と振り返ってきたので、セベクと顔を見合わせてから、「もちろん」と笑った。一年生のときは、この三人で一緒に並んで授業を受けるなんてそうそうあったものではないのに、そういえばこのメンツは、と思ってまた一人で笑みを零した。『魔法解析学』っていうグループ、作っておこうか。

「あ、てことはセベク彼女いないの?」
「彼女? いるように見えるか」
「うん。かっこいいし、女性もいる環境に入ったから一人くらいできたかと思って」
「かっこいい……だと?」

 セベクの綺麗な瞳と同じような色のカクテルを、彼はまるで水のようにくい、と飲むけれど、決してアルコール度数は低くないのが、見栄でなく、実際にお酒に強い身体だということを証明する。疑っていたわけではないけれど。対して私は、見た目通り度数もかわいらしい、オレンジとチェリーが浮いたカクテルをちびちびと飲んでいた。
 かっこいい、という言葉に困惑しているようだけれど、髪を下ろしているのもかっこいいし、元々顔もかなり整っている方だと思っていた。それがナイトレイブンカレッジにいた頃より垢抜けて、大人っぽくなって、声に落ち着きができて、体格も良い。かといって、あの大声がなくなったわけではなくて、より場を弁えられるようになっただけだと思う。それらを踏まえると、やっぱり――

「うん、かっこいい。世の女の子が好きにならないわけがないじゃん」
「……そうか」
「うん」

 また静かになったセベクに相槌を打てば、再びレモンピールとオリーブが浮いたカクテルをぐい、と飲んでから、バーテンダーに目配せしては同じものを作ってもらっているようだった。それを待つ間、浅いグラスにもかかわらず少しずつしか減らないカクテルを未だゆっくり飲んでいる私をじっと見てくるものだから、見返せば、目を逸らすことなく、少し濡れているようにも見える瞳が私を捉えたまま、八重歯を覗かせた。

「そういうナマエこそ」
「うん?」
「恋人はいないのか」

 お酒が、回ってきたのかもしれない。セベクから“恋人”というワードが飛び出てきてから、ほとんど同時に頭の方が熱くなったような気がする。まさか、あのときのセベクからは絶対に自主的には出てこなったであろう言葉が、易々と恥じることなく飛び出てくるなんて。私の方も、柄にもなく、あ、とか、え、みたいな母音ばかりを発しては、セベクにじっと見つめられたままだ。

「……いないよ。いない」
「そうか」

 もちろん、嘘なんかじゃない。言葉通り、ミドルスクールのとき以来恋人の存在はなくて、ナイトレイブンカレッジにいたころは「周りが硬いから」と言い訳していたものの、ここまで来ると私自身に問題があるのではないかと思い始めるくらいだった。だからといってマッチングアプリを始めたり、同僚に紹介をしてもらうほどでもなかった。
 予想外のセベクの成長ぶりに振り回されたような気分になってしまい、ようやくグラスの半分まできたカクテルを揺らしては溜息をつくと、突然の思いつきがあった。あの頃とは違って、水はお酒に変わり、本当に酒飲み、になってしまった。けれど、きっと今からしようとしているやりとりはあの頃と変わらないでしょ、と思って、頬杖をついてセベクを見つめると、私の視界の方がぼやけているものだから、アルコールは順調に回っているらしい。それを自覚した上でこれからの言葉を言うなんて考えると、馬鹿げていると思うけれど。

「セベク、それ美味しい?」
「ああ。少し強いが、すっきりと飲みやすい」
「ふぅん。……ひと口ちょうだいよ」

 わずかにぽやぽやしている頭で、けれどまだまだ他の人に比べるとよく回る頭で、どうにか私がやられた分を取り返そうとセベクに上目遣いをした上で、間接キスをねだる。私の知っているセベクなら、「破廉恥だ」と言うか、「断る」と言うか。大人になったから、「お前には強すぎる」なんて言ってやんわり断るようになっただろうか。それとも、最初は気づかずに、私が指摘をすることで噎せてくれるだろうか。どれにしたって、セベクがあの頃みたいに顔を赤くして照れてくれれば良い。まだ幼さのあった、あの頃のセベクの顔を脳裏に浮かべながら、セベクの返答を待った。のだけれど。

「わかった。その代わりナマエのものもひと口くれないか」
「えっ、……ああ、いいよ」

 新しいグラスが届いてから一度だけ口をつけられたセベクのグラスと、何度も口をつけているにもかかわらずまだ半分残っている私のグラスが自然な運びで交換されると、口をつけたのはセベクの方が先だった。恥じらいなんて知らずに、水のように飲んでは、少し目を細めて「丁度いい甘さだ」と言った。それも、頬を赤くすることなく、強いて言うならばアルコールの影響でほんのりピンク、といった具合だった。

「飲まないのか?」
「あ、いや。ううん、飲む」
「お前には強いかもしれないな」
「馬鹿にしないでよ」

 む、と眉をひそめながら、手が水滴でじわじわと濡れていくのを感じながらもグラスに口をつけると、その瞬間から、触れたところから順に身体が熱くなるような感覚があった。ハーブの複雑な風味を感じて、セベクの言うとおり爽やかで飲みやすさはあった。けれど確実にアルコールは回るし、それ以上に、どうしてだか味の情報はもう入ってこなかった。顔がじわっと熱を持ち始めたのは、この強いアルコールのせい。涙が滲んでくるのも、アルコールのせいだ。

「……うん、美味しい」
「そうか。なら良かった」
「うん」
「間接キス、だな」
「んっ!?」

 セベク、いま、なんて? 私が言おうかと思っていて、しかもそのことを私はアルコールによる弊害で忘れてしまっていたのに、あの頃私が幾度となく言っていた言葉が、セベクの口から聞こえた。思わず軽く咳き込んでは、喉がピリピリ痛む。頭が沸騰しそうだ。それに、涙が零れそうで仕方ない。全部全部、飲み慣れていないこのカクテルのせい。ごほごほと咳き込んでは、滲む視界の中セベクを捉えると、彼はまた予想外にも、何食わぬ顔だった。さも当然のような表情をしていた。何か変なことでも言ったか、とでもいうような。
 それで終わりかと思えば、私の手に渡っていたグラスをひょいと取り上げると、また彼がそのアルコール度数の高いお酒をくい、と喉に流し込む。しかも、ここで私の大失敗。セベクの厚い唇に吸い寄せられるように視線を持っていけば、その唇をつけていた部分には薄らとルージュの赤色が移っていて、より私の頭に血が上るような感覚がした。

「? どうかしたか」
「……ちょっとお水。あと夜風に当たってくる……」
「危ないから僕も行こう」
「あー、いい。いいから」

 私がガタンと、あくまで控えめに音を鳴らして席を立つと、セベクが不審に思ったのか声をかけてくれたし、その隣にいたトラッポラもじっとこちらを見ていた。トラッポラも、もしかして一部始終見ていたの? そう思ったけれど、いや、トラッポラは別の友人と話しているっぽかったし、と自分に言い聞かせては、手の甲で唇を拭う。グラスに付着したものより濃い色が、肌に移った。
 それでも熱が冷めるような気は微塵もしなくて、セベクから逃げるように席を離れては、赤くなっているような気がする耳を、アルコールによる暑さで、その耳にかけた髪で隠す。それでも気になるからちらりと見れば、ぼやける視界の中ではっきりセベクの姿を捉えた。視線が絡み合っていることがまた確認できると、もっともっと熱を持っては、視界はより不明瞭に。それを誤魔化すように、わざとらしくヒールの踵を鳴らして、テーブルから遠ざかり、ドアを引いてはベルを奏でる。冷たい風が室内に入ってきて、それでも火照った身体は冷めなくて、扉が閉まる直前にもう一度賑やかなテーブルを振り返ると、セベクは私に背を向けては、話し相手がいなくなったからか、トラッポラと何やら話していた、と思う。さっきまでと打って変わって、彼もまた耳があの頃みたいに、今の私と同じように赤いように見えたのは、私の都合のいい幻覚だ。きっと全部、この酔いによる幻覚だ。
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