買い物を済ませ、今まで通ったこともない商店街の通りをふらりと歩いていると、急に降り出した雨。咲く花を一瞬で散らすような激しい雨だった。名前は駆け足で目に留まった小さな商店の軒先へと足早に入った。前触れなく降り出した雨は、今も勢いを増している様だ。軒先の屋根はやや広く、ここなら容易に雨が凌げそうである。

ふと思い出して、彼女は持っていた紙袋を恐る恐る開く。そこには、紙袋同様に雨に濡れて形の崩れた、笹の葉包みのぼたもち2つが無惨な姿であった。おそらく、袋をむんずと掴んで走ったせいもあるだろう。名前は覚えず溜め息をついた。

「どちらさま?」

急に背後から声を掛けられたのはその時だった。
びっくりして後ろを振り返ると、目線の先にあった木製の引き戸がガタガタと音を立てて開いた所であった。
あまりに不意な出来事に、彼女は自分が紙袋を手から落としたのにも気づいていない。

「……湿気の所為か戸の滑りが悪いな」

そこから出てきた男性は、ぽつりと何でもなしにそう言った。
名前は男が出てきたことに驚きすぎて声も出ない。


「……あ、の、」
「驚かせたかな。でも俺も驚いてるんだ。人の気配がして戸を開いたらこんなに可愛いお嬢さんがいたんだから。」

男性は冷たい雨など物ともしないような暖かい笑みを浮かべて名前を見ている。

「……ここ、何のお店、なんですか?」
「ギャラリー兼本屋って感じかな。俺の趣味のものを置いてるだけなんだけどね。」

絵が好きな人が増えるのはとても嬉しいから、欲しがる人には売っているんだ、と微笑む男性は、ガタガタと音を立てる戸を押した。

「ギャラリー…」
「見てみる?」

思わず頷いた名前は、彼について室内に入った。紙の匂いが漂う、意外に広い店内。本棚には分厚い画集がずらりと並んでいる。ここまで立派な画集など見たことのない名前は、恐る恐る棚に寄り一冊の本を手に取った。表紙には、『Renoir』と書かれていた。

「これが落ちていたけど、君のかな?」

男性の声で我に返り、慌てて振り返る。しまった、ぼたもちだ。容赦なく持って走った上に落としてしまっては、もう中身は駄目かもしれない。

「あ、ありがとう、ございます」
「ふふ、そんなに固くならないでいいよ。…ルノワール、良いよね。」
「…?これ…ですか?」

ルノワールって読むんだ…と名前は納得しながら、彼に画集を差し出した。

「そうだよ。俺、ルノワール大好きなんだ。中学生の時からずっと画集が欲しくて、大人になってようやく買えてね。」

彼は名前に手渡そうとした紙袋を棚に置き、彼女が何気なく手にとった画集を手からそっと受け取ってページを捲る。何も知らずにそれを手に取ってしまった名前は、恥ずかしくなって俯いた。

「ところで君は、高校生?」
「はい、近くの私立に通ってます。」
「ふふ、ということは立海生?」
「はい。……どうして、そう…?」
「じゃあ君は俺の後輩だな。」
「え…!?」

予想もしなかった言葉に、名前は俯けた顔を上げて、初めて彼を正面からまじまじと見た。もう何年も前のことだけどね、とほほ笑んだ彼の顔には、そういえば見覚えがあるような、無いような――

「その顔、俺の顔をどこかで見たことあるって思ってる?」
「は、はい、でも…すみません、思い出せなくて――」
「いいよ。多分だけど、意識して見てるわけじゃないと思うから。」
「…?」

彼は今度は悪戯っ子のような笑みを浮かべ、再び画集を私の方に差し出した。

「好きに見ていていいよ。俺はお茶の用意してくるから。」
「え!?そ、そんな申し訳ないです…!」
「折角可愛い後輩が来てくれたんだし、おもてなししないと。それに君、傘持ってないんだろう?雨が止むまでゆっくりしていったらいいよ。」
「……じゃあ、…お言葉に甘えて…」
「ふふ、素直ないい子だ」

店の奥へ引っ込んだ彼の後姿を見送って、名前は画集に目を落とす。ルノワールさんどころか、美術全般に関しての知識は中学の美術の授業で習った程度だが、ページを捲るたびに現れる様々な表情をした人々に、名前は不思議と引き込まれた。風景画よりも人物画の方が多いらしいこの画家を好むあの男性は、人が好きなのだろうか。

「お茶の用意出来たから、こっちにおいで」
「は、はい!」

画集を棚にそっと戻して、彼に案内されるがままに店の奥の部屋へ入った。





おしゃれなティーテーブルとイスが置かれた部屋の壁には、沢山の絵が飾られている。ここの絵も、人物画が多いようだ。

「随分と画集に熱中してたみたいだね。」
「はい!いろんな人の絵って、見ていて全然飽きないです。」
「ふふ、気に入ってくれたようでよかった。人物画、良いよね。俺、何を描こうかと迷っているとき、いつの間にかキャンバスに人を描いていることがよくあるんだ。」

部屋の壁に掛けられた絵を見渡す彼は、何処か懐かしむような視線を絵にそそぐ。

「……もしかしてこの部屋の絵って――」
「ああ、俺が描いたんだ。ここにあるのは、全部俺の思い出だ。部屋に写真を飾るのはよくあることだろう?その代わりに、絵を、ね。」

イスに腰掛けた彼に倣い、名前もおしゃれな椅子に座った。洋風のティーテーブルに、古風な湯呑とお皿が置かれている。そのお皿の上に乗っていたのは、彼女が買ったそばから駄目にしたはずの、2個のぼたもちだった。

「あ、ぼたもち…!」
「そう、それ。ちょっと崩れかけていたんだけど、葉っぱに包まれてたおかげで雨には当たっていなかったから、勝手にここに出させてもらったよ。」

これ以上持ち歩いたらきっともっと崩れてしまうだろうから、ここで食べたほうがいいだろう?と、彼は湯呑を手に取って笑う。そこまで配慮してもらって、なんだか申し訳なくなった。

「あ、あの、おひとつ、どうですか?」
「いいの?」
「ふ、二つも一気に食べられませんから」
「そう?ありがとう、いただきます。」

彼がぼたもちを一つ持っていくのをよそに、名前は壁の絵を眺める。様々な人が描かれている彼の絵は、明るい色を多く使った柔らかい印象のものが多い。だが、その中に一つだけ雰囲気の違うものがあった。

「あの…あの絵は…」
「うん?……ああ、あれ。あれも俺が描いたんだけどね…この時はいろいろ大変だったからな。筆にもそれが出ちゃったんだ。」

君、なかなかの目利きだな、という彼の笑みはどこか今までと違う気がした。名前はもう一度その絵を見る。7人の人が描かれた絵。彼らは全員同じ服を着ていて――

「あ!…この服!」
「ふふ、やっと気づいた?これ、中学のときに描いたんだ。」
「このユニフォーム着た中学の子たち、たまに見かけます!……何部でしたっけ…?」
「ひ・み・つ。いつかわかるさ。」

ごちそうさま、とぼたもちを食べ終えた彼は、再び湯呑を手にする。高校から立海に入った彼女は中学の方に詳しくない。今度から気を付けて見るようにしようと決め、彼女もぼたもちを手に取った。確かに、崩れてはいるが美味しい。

「君、絵は好き?」
「今まで好きとか嫌いとか思ったことは無かったですけど…今日、好きになりました。あの画集も、この部屋の絵も、全部。」
「本当?嬉しいな。ここをやってた甲斐があったよ。」

お店を閉める前でよかったなあ、と彼はぽつりとつぶやいた。

「…え、……やめちゃうんですか…?」
「いや、そうじゃない。海外で仕事があるから、明後日には日本を発つんだ。だから、ここを開けるのは今日が最後。本当に、運が良かった」
「明後日!?」
「うん。日本には、毎年長くても春の短い間と10月から正月までくらいしかいられなくてね。だから、ここは毎年期間限定のお店なんだよ。」

いいお店を見つけたと少し喜んでいた名前は、今日が最後と聞いて少しだけ肩を落とした。

「ふふ、そんなに残念そうな顔をしてくれるなんて、ちょっと嬉しいな。…そうだ、ちょっと待ってて、」

何かに気づいたように急いで席を立って、彼は店の方に消えた。そんなに頻繁に外国に行くなんて、一体何の仕事だろうと名前は考えをめぐらすが、見当もつかなかった。

「おまたせ。はい、これ、今日来てくれたお礼。君は随分これを気に入ってたみたいだから、あげる。」

彼が差し出したのは、先ほどの画集だった。

「え!だ、駄目です、受け取れません!」
「いいよ、気にしないで。寧ろ、俺の方こそお礼を言わなくちゃ。今日来てくれたこと、あと、ぼたもちをごちそうになったこと…本当にありがとう。」
「で、でも!さっきその画集をやっと買えたって言ってたじゃないですか!そんな大事なものなのに…!ぼたもちなんて、あんなのとても人に出せるようなものじゃなかったし…!」
「うーん、だったら、俺が今度帰国するまで君に貸すっていうのは、どう?」
「……いいんですか?」
「勿論。見たがってる人のところに置いてもらえる方が、画集も幸せだろ?10月頃には多分帰ってこれるから、その時にまた来て返してくれればいいよ。」
「ありがとうございます!」

その後、学校のことを聞かせてほしいという彼に応えて、最近の行事や部活のことについて話した。彼は名前の話を、頷きながら懐かしそうに聞いている。

「聞いてると、俺の時とあんまり変わらないみたいだ。嬉しいな。」
「それはそうですよ、いつも『誇りある伝統を大切に』って言われますから。」
「ふふ、そういうところも変わらないな。」

ふと、窓から日の光がさした。窓から外を見ると、雨はいつの間にか上がって、綺麗な夕日が雲の隙間から顔をのぞかせている。

「雨、止んだね。…ほら、ここで休んでいってよかっただろ?」
「はい、本当にありがとうございました!お茶、美味しかったです。」
「よかった。こちらこそ、ありがとう。また、秋になったら来てね。待ってるよ」
「…はい!」

そうして、手を振る彼に見送られながら、名前は店を後にした。

(そういえば名前も聞かなかったし、名乗らなかったな…)

今度会ったときには絶対彼の名前を聞こうと決めて、名前は胸に抱いた画集をぎゅっと抱えなおした。



「ねえ、聞いた?テニスでグランドスラム達成した人、うちの卒業生だよね!」

9月末。夏休みが明け学校が始まってしばらくたった頃の朝。おはようと友達に声をかけると、友達はあいさつの言葉の代わりに、矢継ぎ早に名前に何事かを語った。

「……え?ぐらんど…?」
「名前ちゃんニュース見てないの!?立海を卒業してプロになったテニス選手が、日本人で初めてグランドスラム達成したんだよ!」

スポーツニュースどころかテレビ自体あまり見ない名前には何のことだかさっぱりわからない。聞けば、世界の主要な4つの大会全てで優勝すると、グランドスラム達成といわれるらしい。

「……その人が立海の卒業生なの?」
「それも知らないの!?幸村精市って聞いたことない?教員室前にその頃のテニス部の写真貼ってあるじゃん!」

そうだっけ…とはっきりしない名前に呆れたのか、友達は彼女の手を引っ張って教員室前に連れて行く。そこには、彼女たちだけでなく多くの生徒たちがその写真を見ようと群がっていた。

「ほら、あの真ん中の人だよ!」

群がる生徒の頭や肩越しに、友達の指さした先を見た。そこには、集合写真が額縁に入って掛けられている。8人の生徒がトロフィーや盾、旗を持って笑っている写真。いつもその前を通り過ぎるだけで、じっくり見たことがなかったその写真。


「………あ…!」

息をのむ。

はっとしたような名前の様子に、隣の友達は「ほら、やっぱり知ってるじゃん、」などと続けたが、その言葉を彼女は聞いていなかった。

あのひとだ。春に会った時とこの写真、ほとんど変わるところがない。間違いなくあの、ルノワールの画集の人だった。他のメンバーも、あのお店の奥の部屋で見た絵の中の人物たちと同じに見えた。

「――〜でさ、……って、名前ちゃん…?どうしたの?」
「……っ、…ううん、なんでもない。…で、なんだっけ?」
「あの人、絵のコンクールで入賞したこともあるんだって、っていう話!」

しかもイケメンだし良いよねー、という友達の話を聞きながら教室に戻る。黒板のすみに書かれた今日の日付が、教室の戸をくぐってすぐ目に入った。

10月まであと少し。
彼に会ったら何を話そうか。今度はどんなお菓子を持って行こうか。次から次へと湧いてくる取り留めのない計画に胸を躍らせながら、名前は鳴り響いたチャイムにしたがって席についた。


春の嵐がつれてきたもの・end

 




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