「……もう、行くのか…?」


背後から気怠そうな声がした。静かに隣を抜けたつもりだったが、気配に敏感な彼は私をただでは逃がしてくれないようだ。私はワイシャツの袖に腕を通しながら言葉を返した。


「明日、大事な会議があるから。……うまくいくかわからないけれど、またしばらくは忙しいから会えないかな。それはそちらも同じ事でしょ?」

「……そう、だな」


彼は、眠そうな顔に悲しげな表情を浮かべた。我ながら冷たい答え方だと自覚している。少し前までは、こういう言い方をしても彼は顔色一つ変えなかった。だが、今はどうだ。私の言動ひとつでここまで彼は表情を変えるようになってしまった。


「……今度、いつ会える」

「……だから、わからないって言ってるじゃない」

「……電話は」

「電話?私、あなたに電話番号教えた記憶ないんだけど?」

「……声を、聴くのも駄目なのか」

「あなたは本当にそれを望んでるの?私とは体だけ、って始めにそう言ったのはそっちでしょ」

「……、」


私は知っている、四六時中鉄面皮で威圧的な雰囲気を放つのは相当な疲労を伴うことを。
私は気づいている、私が、貴方にとって自分を演じなくても良い数少ない相手になりつつあるということを。
そしてわかってしまった、貴方の心が私に傾いていることを――


「服、そろそろ着たら?社長が風邪なんて引いたら下に示しがつかないでしょ」

「……大丈夫だ。」

「部屋代はここに置いておくから、帰るとき払ってください。」

「……いや、それは」

「それと、早く帰ったほうがいいんじゃない?他のオンナノコが心配するんじゃない?」

「……わかっているんだろう、本当は俺にはそんな女なんていな「それじゃ、また。」――」


作りが安そうなドアが、存外重い音を立てて閉まった。長い廊下を一人歩く。聞こえるのは自分のヒールが立てる硬質な音と、いくつも並ぶ小洒落たドアから微かに漏れる誰かの嬌声のみである。

溜息を漏らさずにはいられない。いつからあの人は私にあんなに入れ込むようになったのか。


『最初に言っておくが、俺は女などいくらでも選べる立場にある。この関係に何も期待しないことだ。』
『勿論、わたしもそんなこと望んでないから。』


最初に彼は確かにそう言った。だか、彼が言葉通り私に体だけを求めたのは、ほんの数ヶ月だった。

彼と初めて体を重ねてからはや10ヶ月。女には不自由していないような外見の通り女性経験は豊富だとわかったと同時に、案外子供っぽいところがあるということも知った。


今日のようにさっさと帰ろうとする私を止めたり、急にプレゼントと称してアクセサリーをくれたり……。私の体を後ろから抱きしめて顔を私の肩口にうずめたまま何もしようとしなかったこともあった。

私はゆっくりと歩みを止めて、溜息をついた。

彼が変わった原因は何だろうかと思いを巡らしても、何の答えも見つからない。でも、確実に私の所為だということはわかる。

彼を変えたのが私なら、彼が私のことを好くように仕向けたのも、意図していないとは言えど私なのかもしれなかった。

そう思うと、責任を感じずにはいられない。

振り返り、先程出て来たばかりの扉を注視する。

そして――ここまで彼のこと心配する私は、彼が私に囚われる以上に彼に囚われているのだろうか。

私はため息をついて、踵を返した。

 




© 2023 KK @ +tonic