部屋を見渡して思う、この場所にいられるのもあと少しなのだ、と。
私は近い内に、顔も知らない男のもとへと嫁ぐのだ。
私の家は、自分で言うのも何であるけれど、地位としては高い方にある。そんな家の娘は、色々と利益があって、道具になりやすいのだ。私は昔からそういった自分の運命を、客観的にどこか冷たい目で見てきた。
だが、いざこの時になってみると、諦めきれない、捨てきれない思い出、そしてやり切れない悲しさばかりが溢れてくるばかりである。
私には幼なじみが沢山いる。
――今となっては顔さえ合わせることも叶わないような間柄であるが。
太閤秀吉の妻、おねね様の縁戚に当たる私は、身よりがいなくなった為に秀吉夫妻の元に身を寄せていた。
身よりは既に居なかったにせよ、秀吉様の臣下の子供達がまるで家族のようにいつも側にいた。
中でも一番に仲が良かったのは、秀吉様の小姓であった佐吉という少年であった。
おねね様の縁戚にあたる、ということで、まるで姫のような扱いを受けていた私は、今考えると恥ずかしいことであるが、何の疑問も持たずに姫として振る舞っていた。
"姫"には、沢山のわがままが許されていた。佐吉もその"姫"のわがままのうちの一つで、本来は秀吉様の小姓であったにもかかわらず、私が一目で友達と見初めて連れ回していたのである。
今になり改めて考えてみると、幼い頃の思い出はほぼ全てと言っていいほど佐吉と共に作ってきた。
その彼は今では大出世を遂げ、もう共にいることはない。彼は私のことなど忘れているかもしれない。
――だが、私の中で諦めきれないものがあるのも事実だった。
――彼のことを考えると、後悔するのみだ
私は頭から過去を振り払い、改めてこれから自分の夫となる男のことを考えた。顔は分からない。どんな性格だろう。どんな風に私を呼ぶのだろう。嗚呼、私を大切にしてくれる人なのだろうか。
「姫、おられますか。」
そう呼びかける言葉が聞こえたのは、そんなときだった。
「おります。何用なのです?」
「姫に面会を求める方がいらっしゃっております。お通しなさいますか。」
「…かの人のお名前は?」
「石田三成様でございます。」
なんということだろう。
私は驚きを通り越し、何か訳の分からない涙が出そうになった。
お通しして、そう侍女に声をかけ、私は部屋の奥に急いで正座した。
こんなに都合良く"佐吉"がやってくるとは、夢のようだ。
まもなく、廊下から、急いでいるともとれる大きい足音がして、乱暴に部屋の引き戸が開かれた。
「名前!どういうことだ、説明しろ!」
「いかがなさいましたか、石田様。」
「……っ。お前、徳川の臣下と…!」
彼は何故か怒っている。私はそれを視界に入れないように深々と礼をした。決して彼に顔を見せない。
「仰せの通り。それが、いかが致しましたか?」
「いかがも何も…!お前、まさか…自分で言ったことを忘れたのか!?」
――嗚呼、今更になって何を。
私は思わず顔を上げて三成を見た。目の前にある顔は、口調とは裏腹の複雑さをたたえている。
「覚えておいででしたか。嬉しい限りでございますわ――」
長浜近くの山の中。私と佐吉は武道の稽古の休憩に、と見晴らしのよい丘の上で横になっていた。丘に生える草が丁度良い柔らかさだ。
今日はたまたま、佐吉と私の二人だけであった。
「気持ちがよいですね、佐吉殿。」
「はぁ、それはそうですが…姫君がこのような場所でこのように寝るなど…」
「良いのですよ、佐吉殿。……それに、二人だけの時には名前で呼んでください、と申したではありませぬか。」
「……。…見つかったら、俺の首がありません。」
「大丈夫。私が貴方に強いた、といえば良いだけの話。姫のわがままとして軽く扱われましょう。」
「それはなりません。姫が……名前、が…悪く言われるようなことがあってはなりません。」
「ふふ。やっと名前で呼んでくださった。」
私が佐吉の稽古に勝手について行き、私が彼を振り回す、という毎日の繰り返しであった。それでも、佐吉は私に付き合ったし、たとえ私がわがままを言っても笑って受け入れた。
「羽織を持ってくればよかったですわ。…少し冷えます。」
「…先に、お帰りになりますか。」
「いいえ、そんな訳には参りませぬ。折角、佐吉殿と二人きりになれましたのに。」
そうして歳を重ねるにつれて、私は必然の如く佐吉に惹かれていった。
「お風邪を召させるといけません。こうすれば――」
そして、どうやらそれは佐吉も同じであったらしい。
彼は私の方に寄り、その腕で私を抱き寄せ、密着した。
「…暖かいでしょう。」
「……意外と大胆ですのね、佐吉殿は。ありがとう、嬉しいです。」
「…見つかったら、本当に俺の首はありませんな。」
柔らかく笑ってそういう彼に、私は頬を染めた。
普段はあまり喋らない彼が、私の前では微笑みながら口を開く。
私が他の人の前では決して口に出来ないような甘い言葉を冗談めかして口にすると、困ったように眉尻を下げ、照れたように目をそらしながら、負けず甘い言葉を真剣に返してくれる。
その全てが、愛おしい。
そしてこの暖かさをずっと、味わいたかった。
「では、見つからなければ良いだけの話。そうでしょう?」
「しかし、永久にこのまま、という訳にもいきません。」
「……」
しかし、私達の前には、"身分"という大きな壁があった。
それは、今一番聞きたくなかった話だ。それは佐吉も同じではないのだろうか。それを今敢えてする彼の意図が読めず、私は彼の腕の中から彼を見つめる。
「俺、決めたんです。…聞いてくれませんか。」
「……何をです?」
「俺は、今まで以上に学にも武にも励み、今の名前の地位よりも必ず偉くなって見せます。そうしたら、堂々と名前を……」
「私を?」
「……俺は、貴方とこのまま一生を過ごしたい。
だから、貴方を、俺の妻に、したいのです。」
「……佐吉殿…。私…」
「嫌ですか……?」
「……嬉しいです、ありがとう、佐吉殿…。」
「泣かないでください。俺は…貴方の笑った顔の方が、……好き、です。」
その言葉と共に腕の力を強める彼に応えて、私も彼の背に手を回す。
「では、私は、それまで何があっても佐吉殿を待っていますわ。たとえ何があろうとも、婆になっても……必ず。」
「ありがとう、名前。必ず、必ず迎えに行く――」
「絶対、ずっと待っていますわ。」
――――
「あのとき、名前は『待っている』と言ったではないか…!」
『ずっと待っていますわ』と言って、抱擁のうちに熱い接吻を交わしてから、十年弱が既に過ぎ去っていた。あの頃の気持ちは今も変わらず、寧ろ昂ぶるばかりである。しかし――
「あれから年月が過ぎ、私は世を見て多くを学びました。
何所の馬の骨とも分からぬような私と貴方では、釣り合うものではないと分かったのです。
……貴方はその昔、私の身分に追いつきたいから学に武に励むと仰いました。しかし、身分に追いつかなければならなかったのは私の方だったのです…。」
「何所の馬の骨?名前はおねね様の縁戚だろう。
それに、今でも名前は此処、豊臣の姫だ。追いつけていないのは俺の方だ……」
「いいえ。それに、貴方には、私などよりももっと相応しい女性がおりましょう。」
「あり得ぬな!……悪かった。あれからもうすぐで十年だ。待たせすぎているのは分かっている…。だが、あと少しなのだ。だから……!」
「そういう話をしているのではございませぬ。…私は、家康様の臣下の元に参ることになっております。これでやっと、私は自分の存在を確固たるものとできるのでございます。このような身でも、石田様と家康様の架け橋となる事くらいは出来まする。」
「俺に……お前ほどに相応しいおなごがいるとは思えぬ。……寧ろ俺には勿体ない…。そんな女をむざむざとあのような狸の元にやるなど、出来るわけがないだろう!」
彼はそう言って、昔のように近寄り、私を腕に閉じこめた。
「それとも、もう俺のことなど……」
「そういうわけでは断じてございませぬ。これは、貴方様の事を思ってのことでもあるので御座います。秀吉様が万一亡くなられるような事があったら、家康様が台頭することは目に見えることです。特に石田様、貴方様はこういった協力関係を築くのは苦手でございましょう。だから今の内に、私がやっておくことが上策なのです。」
そんなものは建て前だ。私は、どんどん出世する彼を喜ぶ反面、どこか引け目と不安を感じていたのだ、と今になって思う。
私はいつになったらわがまま姫から抜け出せるのだろう。
「そんな事は俺の為にはならぬ!頼む――」
最早、私の耳元で発せられる言葉は絞り出されるような囁きでしかない。
「俺を、置いていくな…!」
ここ数ヶ月の私の覚悟がいとも簡単に崩れ去るのが感じられた。
「姫様、お取り込み中のところ、申し訳ありませぬ。」
どのくらい三成に抱きしめられていただろうか。突如、戸の向こうから降ってわいた侍女の声に、私は我に返らざるを得なかった。
「…何事ですか。」
「……先方の使者が、お見えに、なられました…!」
「……わかりました。少し待って頂いて。」
「御意に。」
私の肩にある三成の顔を見つめた。彼は何も語ろうとせず、微動だにしない。
「石田様、私、行って参ります。貴方様のお気持ちが今わかり、嬉しい限りで御座います。さあ、お離しください。話をつけてまいりますわ。ね、だから――」
私の為に涙なんて流さないで下さいませ、三成殿
懐から手拭いを取り出して、彼の頬を伝うものをふき取った。
「……ふっ。やっと、名前を呼んでくださったな、"姫"は。」
――――
「それは、誠に御座いますか…!?」
「はい。そのお詫びにと、本多様から此方をお預かりしております。」
――――
「三成殿、三成殿…!」
知らぬ間に流れていた涙で送り出した名前の、騒々しく廊下を駆ける音が聞こえてきた。何やら俺の名を呼んでいる。
正直、久しぶりに会ったと思ったらいきなり苗字で呼ばれ、驚いた。やはり、彼女には名前で呼んで貰う方がしっくりとくる――
そこまで考え、今度は自分に驚いた。行つの間に俺はそこまで名前依存していたのか…
「どうした、名前。」
気になって部屋の外に出ると、そこに駆けてきた名前は俺に抱きついた。見ると、どうやら泣いているようだ。
俺としての最悪の事態が容易に予想出来た。だが、顔には出さない。否、出せない。
「……部屋に入れ。」
名前は小さく頷いて俺に従った。
「で、どうしたのだ。」
先程とは逆、今度は俺が手拭いで彼女の涙を拭き取った。
「私、私……もう、置いて行かれてしまった様なので御座います。」
「何だと…!?」
「昨日、私の旦那様となった方が、なくなったそうなのです…。何でも、戯れから発した諍いに巻き込まれ…」
「………そう、か。」
「一度も会うことがなかったとはいえ……かの人は数日、私の旦那様であられました。
…こんな婚姻、と何度思ったかはわかりませぬ…ですが不思議と――」
身の引き裂かれるような思いがするものですわ――
――――――
暫くは沈黙だった。
三成は相変わらず私を強く抱きしめていてくれた。こんなに身勝手なことばかりいう私なのに、彼はなんと優しいのだろう――
「名前…」
三成がふと、私の名前を呼び、小さく言葉を紡ぐ。
「名前……俺を、許してくれないか……。名前の夫ともあろう人が死んで、喜ぶ…俺を。」
驚いて体を離して見上げると、そこにあったのは今までになく苦しそうな顔。
私は思わず彼に手を伸ばし、艶やかな髪を柔らかく撫でた。
「……私よりも苦しそうですわね、三成殿は。……貴方様には関係のなかったこと、そう割り切ってくださいませ…。……それに……」
私は言葉を切って、手に持っていたものを彼に差し出した。
「……先方の使者の方が、お詫びにと下さったお花でございます。」
赤い赤い、花。
それはまるで血を吸ったように赤く、
「………これは…」
「……家康様の元に届けられた、南蛮渡来の珍しい花で、"はいびすかす"と言うそうです。」
「……」
「…………花言葉は…」
新しい恋
end
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