会社の昼休み。

もの凄い叫び声が聞こえて、俺は机に突っ伏した顔をあげた。声の主はわかっている。その主のせいで俺は今寝不足なのに、俺のささやかな眠りさえも邪魔しようというのか、あいつは。

「き、き、っ清正ーー!」

騒々しい音がして、ドアの激しい悲鳴と共にヤツがこの部屋に入ってきた。部屋にいた人間がみな、此方を見る。

「……今度は何だ、名前。」

名前 がびくりと震えた。寝不足、且つたった今眠りを阻まれた俺の声は、想像以上に固く響いたらしい。

部屋の一番奥の机に座る社長が、にやにやしている。きっと、俺が寝不足というところで、良からぬ想像…否、妄想をしているに違いない。――そんなだからいつも夫人のお説教を喰らうんですよ、社長。
しかも、俺の寝不足は社長の想像するような理由(多分)ではない。もっと悲惨だ。

弱々しく「ごめん……」と発せられた名前の声に、僅かに申し訳なさを感じ、俺は立ち上がって彼女の元に寄った。

「用があるんだろ。なんだ?」

「あ、あのね…アレが、……いて。」

俺が努めて軟らかく出した声に安心したらしい名前は、いつもの調子で喋り始める。

「…… 何処にだ。」

「廊下にいたの。それで…私が叫んだら、トイレに……あ、アレがいたら嫌なの!早く駆除して!」

「……俺はゴキブリ屋じゃないんだぞ。報酬払うってんなら考えるが。」

‘アレ’とは、名前の天敵・ゴキブリのことである。なんでも、薄っぺらいくせに黒光りするあの姿が許せないんだそうで。

世の中にはゴキブリ退治のために警察を呼ぶ人もいるらしい。俺は呼ばれた警官に大いに同情する。

「あああ!その名前も聞きたくないの!言わないでよ!」

「……で?払うんだな?」

「……わ、わかったから!払うから!早くっ!」

名前は廊下を指差して喚いた。俺はわざと大きめの溜め息をついて、彼女の指し示す方へ足を踏み出した。

「で、まさか俺に女子トイレに入れっていうのか?」

廊下に出た寝不足の俺は、最愛の彼女にも皮肉った口しか聞けなかった。…だが、これは仕方ないことだと思う。

「ちがうよ!あれが入ったのは男子トイレのほうだから!大丈夫でしょ、だから早く取って!」

名前 に背中を押されるようにして、男子トイレの目の前についた。

トイレの戸を開けるが、特にアレの黒い姿は見当たらない。

「見当たらないな。お前は、昨日の夜のことを考えすぎなんだ。」

昨晩、俺の自宅に泊まりに来ていた名前は、ちょうど運悪くゴキブリを発見してしまった。というのも、俺が住んでいるのは築何十年とも知れないボロアパートで、ゴキブリ如きでいちいち騒いでいたら何も出来ないような所なのだ。
俺は、確かにゴキブリは好きか嫌いかと問われるなら嫌いだが、別に怖いわけではなく、部屋内で見つけたら取るように努力するものの、名前のように徹底的に駆除しようという気はない。
トイレの床を一通り見てから、個室の中を覗く。特にそれは見当たらない。

「名前、いない。お前の見間違えだろ。」

そう言いつつも、俺の目線は未だ床や壁の隅や角を辿る。惚れた女には弱いというのはまさにこの事か、と自分で思ってしまった。名前は俺の言葉を無視するように、何も言わない。なんとしても探せということだろうか。

最後に掃除用具を収納する所を見たが何もいない。

「名前、何もいなかった。これでいいだろ?」

俺は振り返って名前を見たが、彼女は俯き、何も言わなかった。俺の顔を頑なに見ようとしない。それどころか、言葉すら聞きたくない、と言っているような雰囲気だった。

「……名前?」

俺は名前に近づこうとして、左足を一歩踏み出す。すると彼女は俯いたまま一歩引いた。

「何だよ、名前。」

否、名前 は俯いているのではなかった。床のある一点を見つめている。その先は、










―― 俺の右足。



「――え、」

言葉を発する隙もなく、彼女は俺を目覚めさせた悲鳴よりも大きな叫び声をあげて、オフィスルームの方へと走り去った。





嫌な予感を禁じ得ない。



そっと足を上げると、そこには――




光る夢の行方


(その日の夜、履いていた靴を即行で捨てた俺は、今月中にアパートを引っ越そうと決心した。)


end

 




© 2023 KK @ +tonic