遥か幼き頃に見た南の海の色は、どこまでも深い色を湛えていた。
水面はまばゆく光り、大小の波が絶えず岸に打ち付けて二度と同じ表情を見せることはない。しかしその下は、どこまでも底が見えぬ、何もかも飲み込んで無にする貪欲な器。
そこ残るのは、濃紺だけ。
* * *
とある初夏の夜。その夜は夏らしくなく、酷く冷え込んだ。後に江雪左文字と呼ばれることになるその付喪神は、透き通るような色の長い髪を揺らめかせながら、ある部屋の前で立ち止まった。
「主、茶をお持ちいたしました」
一声掛けて部屋のふすまを引くと、濃い墨の匂いが鼻につく。その香りは、昼過ぎに彼がこの部屋を訪れた時より一段と濃くなっているように感じられた。
「おお、左文字、すまんな」
卓上には幾枚もの書状が書き上げられて積んであったが、それでもなお、主は筆を動かす手を止めようとしない。
「主、夜もふけています。休まれてはいかがですか」
「気遣いはありがたいが、人命がかかっておるのでな。おいそれとは休めぬよ」
積まれた書状に目をやると、彼の予想を裏切らず、そこには和睦と主家存続を嘆願する言葉がびっしりと書かれていた。
天正18年(1590年)6月。関東屈指の名城・小田原城は、数十万の軍勢に囲まれていた。数多くの支城に守られ、難攻不落と謳われたはずのその城は、まさに八方塞がりな状況下に置かれていたのである。
周囲を敵に囲まれ、入ってくる情報も数少ない中で聞こえてくるのは、支城の開城、落城、味方の討死という悲劇的な言葉ばかりであった。
北条家の重臣である板部岡江雪斎は、主家を救うべく、旧知であり、敵大将である太閤・豊臣秀吉に和議の嘆願を申し入れる書状をしたためていた。
「――よし、これで良いか」
筆を置いた主は、既に冷えきって久しい茶を取り、一口すすった。
「床は、整えてありますよ」
「気が利くな、左文字よ。刀にしておくには実に惜しい」
いや、人にするほうが惜しいか――そう冗談めいた口調で呟いた主は、ゆっくりと立ち上がる。
「この乱世もいよいよ末だ。太閤はおそらく、この和議を飲むだろう――もっとも、例えこちらが徹底抗戦などと抜かしても、結末は何も変わらんだろうが、な。」
寝所に向かう道すがら、主は呟く。
いくら今が絶望の淵に沈んでいようが、近いうちにいずれこの戦は終わるのだ。
「そこには、人死が多いか少ないかの違いしかありはせぬ。世の大筋は何も変わらんのだ」
「――しかし、その違いこそが重要だと、そう仰りたいのですね」
「ああ、そうだ。その差が毛ほどもないのであったら、儂はとうに北条を見限っておるわ」
だが、と、寝所の前に着いた主は歩みを止めて振り返る。出家して久しい主の剃髪頭が、月の光を鈍く映していた。
「例え人死が多いが多くまいが、世はそう遠くないうちに太閤のものだ。それは変わらぬし、人の記憶にもそれが強く残る。……京では上から下まで皆口々に『世が変わる』と言っておる始末だ」
太閤――豊臣秀吉の前歴を考えれば当然のことだろう、と彼は思った。秀吉の姿は、主に付いて数度見たのみである。しかし、上等な着物を着ていようが、どこか土の匂いを思い出させるような風貌であったと、彼ははっきりと記憶していた。
「この世の中、華々しい功績のみが大きく持て囃される。太閤がいい例よな――"勝利"、"統一"。この乱世、その裏では常に破壊、撫で斬り、殲滅…常に悲しみが生まれているのだ」
「そして、それが次の争いの火種を呼ぶ…とても、悲しい世の中ですね」
「そうだな。…力押しでは、世は真に収束しないのだ。真の収束とは、常に目立たぬものなのか、はたまた元より存在せぬのか……」
永く生きるお前ならば、知っているか?と問いかける主の目の色は深い。幼き頃に見た南の海を思わせる、深く、強さを湛えた色だった。
「……いいえ、残念ながら」
「この世の民は皆、本当の意味の平安を知らぬというわけだな。」
実に悲しきことよな、と薄く微笑む主に、彼も小さく頷いた。
「――ならば、誰かが確かめねばなるまい」
「……、」
「儂は、そのための贄となるのよ」
「贄、ですか」
「どの道、儂はもう先が長くはあるまい。それでよいのだ」
「……、」
「して、お前はどうする?」
――今まさに変わろうとしているこの戦国乱世に、お前は何を思う?
問いかける主の視線は変わらず深みを帯びている。
主が休んだ後も、彼は考え続ける。
そう、確かに彼は主よりも遥か昔に生まれ、長い時を生きてきた。今の主の曽祖父、祖父、父、と受け継がれて今に至る彼は、人の一生を儚く短いものであると認識していた。儚い人間である今の主が、短い一生を犠牲にしてまで求める"和睦"や"収束"が一体何なのか、生まれてこの方戦乱しか味わったことのない彼にはわからない。
同じく荒れた世しか知らないはずの主が追い求めるものとは、果たして何なのか――
* * *
天正18年(1590年)7月。不落と言われた小田原城はここに開城されることとなった。小田原・北条氏は、北条相模守氏政、陸奥守氏照と、家臣数名が切腹に処せられた。
戦勝者である太閤・豊臣秀吉は、複数の家臣や近習を伴って城の検分に現れた。秀吉との和睦交渉に積極的であった板部岡江雪斎は、秀吉自身にその交渉能力を評価され、処罰を免れたどころか、秀吉の直臣に迎えられる好待遇を受けていた。
「――先ほどの本丸と天守は居城として使用していたもので、戦の指揮系統はあちらに見えます八幡山の山頂にございました」
秀吉一行を城内に案内する大役を担った江雪斎は、秀吉に城の説明をしてまわる。江雪斎がちらりと左上を見ると、馬上できょろきょろと辺りを見回す天下人は、いたく機嫌が良いようだった。
「立派な城じゃのう!あとひと月籠もられたら儂の負けじゃったわ」
楽しげに言う秀吉の言葉に、周りの近習が笑った。
城裏手の山に登るべく、秀吉一行を伴って江雪斎は足を進めた。居住地としての意味合いの強かった城の平地部を抜けると、一転してそこは戦城としての匂いを漂わせる。
「これはこれは。不落の名を捨てるには惜しい城よな」
険しい坂道の途上、土塁と曲輪を横目に見ながら秀吉は言った。
難攻不落の城。
城攻めの為には、城を守る側の何倍もの兵力と労力を要するものだ。天下人の力が及ぶ以前から作り込まれた強固な防備施設は、城を周囲を、領民の住まう街を取り込みつつ3里(=約11q)ほどまで囲んでいる。これを更に囲う為には、それこそ何十万という兵力が要求される。敵が安易に手を出そうものなら、その手が城の中枢に届くはるか手前で叩き潰せる――そういうものだった。
また、外の防備が整うのと同時に、城中心部でも、戦のための施設である山城の部分と、居住と行政の平山城の部分とで役割分担がなされた。この街は、交易都市と要塞という二つの機能の共存を可能にし、今日まで発展してきたのである。
数十年を掛けて作り上げられたこの街の歴史は、伝え聞いただけの自分よりも、その目で見てきた"彼"の方が詳しく知っているに違いない。江雪斎は左腰に下げた太刀の鞘を撫でて、小さくため息をついた。
この長い街づくりの過程で、この地の民と、街に安心と繁栄をもたらした領主・北条家との間には、確かな信頼関係が育まれていた。それを、北条家臣下であったはずの江雪斎は、『人死を減らす』という名目の為に、自らの手でこの地に敗北をもたらした。その上、己は主家と命運を共にせず、こうして"敵側"だった天下人・秀吉にとりいっている。
小田原の民から見れば、その行為は…己の存在は、即ち――
「この表裏者が……!!」
江雪斎の出した答えと同じ言葉が、叫び声として突如降って湧いた。
険しい坂の先を見上げると、そこにはボロ布を纏った年増の男が一人、憤怒の形相を浮かべて立っていた。秀吉近習と家臣が一瞬にして色めき立つ。
「主家から受けた御恩を、貴様は何とも思わなんだか!!この、売国奴め!!!」
男の手元が煌めく。その手には短刀が握られていた。男がこちらに向かって走って来る。
"表裏"、すなわち"裏切り"。そう、それが己の評価だ。何も間違ってはいない――
武士としての自分が、迫り来る短刀への警告を発する一方で、和平を望む交渉人としての江雪斎は男の言葉に納得した。致命的な、反応の遅れだった。
あと数歩で男の短刀が江雪斎の懐に潜り込もうかというその一瞬。
刹那、そこに白い"人影"が現れた。襲いかかる男の刃から江雪斎を隠すように立った"人影"は、一息せぬ間に抜き放った己の刃で短刀を受けた。一瞬の鋭い音の後、男の短刀は手元から離れて跳ね上がる。
江雪斎が左腰を探ると、そこには何も無くなっていた。
男は、目前に突然現れた"人影"が理解できず、瞠目したまま尻もちを付いた。その首元に音もなく太刀の刃を添えた"人影"――左文字は、静かに言葉を放つ。
「あなたは、この地の民を無駄死させようというのですか」
彼の長い髪が静かに揺らめいた。
「苦心の上にこの地を繁栄させた主家への恩義に報いる行為が、大勢の民の死であると、そうおっしゃるのですか」
彼の言葉が、ざわざわと不穏に揺らめく江雪斎の心を静めた。
江雪斎を庇うように立ったこの付喪神の背から、普段には無い感情の波が立ち、江雪斎へと打ち寄せる。
「民がいなければ地は枯れ、もう元には戻らない…忠義に殉ずるなどということが、それこそ不忠であるとは思い至りませんか」
――これが、鋭い刃を持ったお前の、答えというわけか。
安堵と共にどこか複雑な思いが江雪斎の中で湧き上がる。
「――左文字、控えよ」
しんと静まったその場に放った江雪斎の言葉は、やけに大きく響いた。
僅かな間の後、左文字は流れるような動作で太刀を鞘に納める。ほんの少し前まで騒がしかった辺りは静まりかえって、誰も物音を立てない。
「太閤殿下の御前だ。控えよ」
「――ええ」
足元に呆然と尻餅をついたままの男を一瞥し、左文字は江雪斎の横に控えた。
江雪斎がちらりと背後の馬上を見上げると、秀吉は驚き顔ののちにすぐ破顔した。
「これは!江雪斎!お前の刀も余程の名刀と見える!!」
ぽかんとする背後の家臣団を余所に秀吉は高らかに笑い続ける。馬の横に控えていた洋装の近習が、慌てた様子で口を開いた。
「主殿、皆が困っておりますぞ」
秀吉をなだめた近習は、どうにも秀吉好みの派手な服装で、浅葱色に見える奇妙な髪色をしていた。
「おお、すまんすまん。お前たちのような刀は儂の手元にあるもののみかと思っておったのでな!」
「――主殿、」
――と言うことは、この珍妙な髪色の青年は、刀であったか。
馬上から身を乗り出して江雪斎の方に顔を寄せた秀吉は、声を落として言った。
「ここにおる近習は皆、そちの左文字のような刀の化身でな。」
「――そうでございましたか」
その言葉に従って背後を見ると、確かに浮世離れした見た目の近習が多いように思えた。
「中でもこの者は粟田口藤四郎の手による太刀であってなあ、――」
誇らしげに己の近習――刀についての話が延々と続いた。この男は、世に名刀と呼ばれるもの全てを集めているとの噂があったのだが、それは真のようだ。
「――流石、太閤殿下でいらっしゃいますな。太刀から短刀に至るまで、皆々剣の腕が立つと同時にさぞかし頭も切れることでしょうな」
持ち主に似るのでしょうな、と付け加えると、秀吉は機嫌が良さそうに高笑いした。
「人も物も家畜も、親や持ち主に質が似るとは良く言うがなあ!儂はそんなことは信じておらなんだが、あながち間違いではないのかもしれん」
ひとしきり笑った秀吉は、ふと江雪斎の横に視線を移した。
「と、いうことは、左文字も…上等な切れ味に加えて江雪斎、そちに似て頭も切れるだろうな」
好奇心を隠そうともしないその視線は、溢れて流れる湧き水のように透き通って輝いている。
「――そうだと良いのですが、お恥ずかしながら…こやつには某の悪しきところばかりが写ってしまったようでしてな。戦事よりも詮無き考え事のほうが好みで、切れ味を活かしきれておらんのです」
「……先ほどの無粋な行い、どうかお許しください」
左文字が静かに口を開いて太閤にすっと頭を下げた。
「――実にお前らしいな、江雪斎よ」
秀吉が、呆れたように笑った。
* * *
その夜。自宅の荷を片付けながら、江雪斎は口を開いた。太閤によって関東平定がなされた後、この地は三河の徳川家康の領地となる手筈であった。江雪斎は、秀吉の御伽衆に召し上げられたため、上洛し、住まいを移すことになっていた。
「左文字よ、すまぬな。いらぬ汚名を着せることになった」
江雪斎は、昼間の会話を反芻し、口を開いた。左文字が戦を好まないのは確かな事実ではある。しかし、一度戦に出れば、彼の鋭さが恐ろしいほど活き活きとすることを、江雪斎は知っていた。
「構いませんよ」
「太閤は、名刀と見るやすぐに己のものにしたがる質でな。ああでも言わんとお前はすぐあの近習たちの仲間入りだ」
いくら穏健派と言われようと、丸腰では儂が困るのでな、と江雪斎は笑みを浮かべた。
「お前が望むなら、太閤の蒐集品の一振りに加わることが出来ようが――」
「主を困らせる趣味は、私にはありません」
それに、と言いかけて、左文字は言葉をとめた。
「なんだ、言ってみよ」
「秀吉からは、……未だ争いの気配が感じられます」
「――ほう、」
確証があるわけではありませんが、と付け加えて彼は目を伏せた。永くを生きる故の経験からか、はたまた人で言う第六感のようなものか、彼のこの手の予感はよく当たる。そして、その予感が突拍子のないものであるとも思わない。
「太閤はこの乱世を体現するお方だ。常に戦いの中にあり、生き残ることで今の地位を得た。そして創りだされたのが、今の、統一されたと言われる世の中よ」
「ええ」
「だが、乱世が創り出すものは乱世にしかならぬ。そうは、思わんか」
* * *
主の、荷を纏める手が止まった。
何の証拠も無いことを口にした彼を咎めることもしない主は、ふとこちらを振り返って、再度口を開いた。
「蛙の子は蛙などと言うが、これも大して変わらんと思うのだ」
まっすぐにこちらを捉える主は、穏やかな表情だが視線には常日頃のような暖かさはない。
「つまり、主は、世がいずれ再び乱世に戻ると、おっしゃるのですか?」
「――ああ」
普段物腰柔らかな主にしては珍しく、語気を強めに断言した。
「戦の気配は、嫌いか」
「ええ」
「左の字を刻まれ、鋭い刃を持っていようとも、か」
「――ええ」
「……どうやら、お前は本当に儂の影響を受けすぎたのかもしれんな」
呆れたような表情で主は微笑んだ。
「お前は賢く、そして鋭い。本来ならば、お前の刀としての真価はこの儂ではなく、真に"つわもの"たる者の元で発揮されるものであろうな。」
「……、」
「だからこそ儂は、力を持ったお前に見届けて欲しい。この世の行く末を、儂に似た、お前の目で。」
* * *
彼の予感にも主の推測にも違わず、乱世の申し子は乱世を生み出した。秀吉の、確かに優れていたはずの先見の明と独特の価値観は、この日ノ本という島の中では大いに役に立ったが、そこから一歩踏み出した途端に使い物にならなくなったのだ。日々伝わってくる、決して良いとは言えない前線の戦況は、遠い昔に見た筑前の海の、どこまでも終わりの見えぬ果てしない広さを彼に思い起こさせた。
慶長3年に豊臣秀吉が死してから、実に様々な事があった。他国侵略という悲劇しか生まない戦は、国内の歪みと対立しかもたらさなかったのだ。
それから2年あまり経た慶長5年の秋、関ヶ原の中心に位置する東軍本陣に、彼は居た。
「――板部岡殿、よいのか」
「ええ、この戦と家康殿の今後のためのご祝儀でござる。"天下人"の手にあってこそ、刀は名刀たりえるのです。」
姿を現さぬまま主の手の中にいた名刀・左文字は、ふと宙に浮く感覚を味わう。
硬い、触り慣れない手によって、刀身が鞘から静かに解き放たれた。
「……実に、美しい太刀であるな」
「我が家に代々伝わった、家宝でございました」
「――そうか、ならばこの名刀、『江雪左文字』とでも呼ぼうか」
「それはそれは――お心遣い、痛み入りまする」
この瞬間、新たな主となった徳川家康の声を、"江雪左文字"は遠くに聞いた。
関ヶ原の合戦では、既に隠居の身であった主――否、元主の江雪斎を家康は大いに重用し、大役を負わせた。
――小早川秀秋の説得。
民に表裏者呼ばわりされたこの儂が表裏の説得とはな、と笑った江雪斎の顔に、言いようのない恐怖がよぎったのを片時も忘れたことはない。
争いは終わらないのだ。人が群れ、生きる限り、それが絶える日は決して――
江雪斎はそれをわかっていたのだろう。わかっていて尚、儚き一生を賭して終わらせようとした。
家宝とまで称した佩刀を献上した――それは即ち、もうこれ以上家康の為には働かないという意思表示だと、江雪左文字にはわかった。そして元主は、これからも永くを生きるであろう己に、その願いの行方を託した。
だが、その任を背負うにはまだ早い、と彼は思う。
刃紋を覗き込む家康の目は、流れの早い小川のような光を宿していた。それはいつか見た秀吉の目に似ている。
この乱世に収束が訪れることがないということは、前の主によって身をもって証明された。
ならば、己が収束を探すのは、乱世が終わってからで良い。
そう思った江雪左文字の刀身には、どこから写り込んだかもわからない港の景色が映し出されていた。
* * *
遥か幼き頃に見た南の海の色は、どこまでも深い色を湛えていた。
水面はまばゆく光り、大小の波が絶えず岸に打ち付けて二度と同じ表情を見せることはない。しかしその下は、どこまでも底が見えぬ、何もかも飲み込んで無にする貪欲な器。
そこ残るのは、濃紺――どこまでも変わらぬ、絶望だけ。
完
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