ノックがして招き入れたのは、最近見かけなかった従者だった。どこ行ったんだ。俺のなんの報告もなしに。サングラス越しで視線を飛ばすが、いつもより雰囲気が重く感じて眉を少し顰める。書類整理を行う俺に、ルーティンのコーヒーを持ってくる。夜は白湯。3口はいつもの合図。朝日を浴びる黒いジャケットと漆黒の滑らかな生地のシャツが光を反射させてる。ドーンピンクについてるモルガナイトのネクタイピンは、俺の所有を示してる。
いつも通りコーヒーを注ぎ、俺に持ってくる。今日の報告を告げ、軽く返事をする。それだけで俺たちの朝の仕事は終わる。夜までこいつは他の幹部の手伝いやわがままを聞きにいくんだろう。花形のディナー隊でバンケットキャプテンを務めて、片付けが済んだら俺のところに白湯を持ってくる。その一日の始まりと終わりを教えてくれるようになったのに、何ヶ月ぶりか?そんなに長く離れてないかもしれない。会ってなかっただけで。いつもいるやつが居なくなるのがどれほどに日常に違和感を残すのか、俺は今知った。
デスクにコーヒーを置くと少しデスクから離れる。一礼するのかと思いながら、書類を片手に彼女を見つめる。今日はまだ一度も目があってない。
「なんだ」
妙な違和感を拭いたくて声をかける。目を合わせずに唇を少しだけ噛む。わりといいレスポンスをするこいつが言葉を選ぶのが疑問で首を傾げた。
「フフフフッフフ、なんだ。悪い事でもしたのか」
重い空気を出す彼女に聞いてみれば、「そうかもしれないです」と絞り出したような声でハッキリと告げる。そうかもしれないだと。境界が曖昧なお前が、悪いことなど。人を殺したとか血を流したような雰囲気ではないのことくらいわかってる。ウジウジしているというよりも覚悟を決めるのに必死な態度にため息をつく。
「なんだってんだ。俺がお前に怒ると思うか?」
フフフと笑ってやるが、彼女は笑わない。いつもの柔らかい笑みが全く見えず、上げた口角を下げる。薄い切り揃えられた前髪から覗く瞳は困惑している。そこで気づく、ベルトのシルバーの金具。いつもは閉めてるから見えないはずだ。珍しい。こいつが服装を少し変えるなんて。
「か」
短い言葉に耳を研ぎ澄ます。聞く姿勢になった俺に頭をカクンと低くする。シルバーの金具が消え、つむじが見える。
「懐妊、しました」
カイニン。少しその言葉を理解するのに時間が要したが、ほんの数秒だ。そうか、ガキを孕んだか。めでたいことだと頭の中で思う前に、少し焦る記憶が蘇る。数ヶ月前のような数日前のような夜。曖昧な時間感覚の中で、白湯を持ってきたこいつを気まぐれで抱いた気がする。たまにあることだ。避妊なんてさせたことなかった。抱く回数は庭の女どもより少ないから。気にもしなかった。こいつもこいつで特に口に出さなかった。きっと、不安に思うことはあったんだろうが、薬でも処方してたんだろ。そう思ってた。いや、そうだと思う。だか、この世で100%避妊できることなんて、腹の中をいじる以外ありえないことだ。全く内容を見ていない書類が左での中で音を立てた。
「若様の潔白な純血を汚してしまったことを深くお詫び申し上げます」
早口に告げるその言葉に、俺が気がしてた内容が全て間違えてなかったと強く押された。
「そうか」
見る気も起きない書類をデスクに放ると、端の方がぐちゃっとなっていた。
一切目の合わないこいつをサングラス越しで見る。
「どうするつもりだ」
少し覇気が混じってしまった言葉に、彼女は肩を揺らす。消えそうな声で
「命令とあれば。ですが、殺す気はありません」
相変わらず全ては俺次第か。でも、堕ろす気はないとハッキリと意識を伝えてくる。
「従者として、あるまじき行為であると思っております」
彼女の弱い声が部屋に響く。モルガナイトは影になって光らない。
「若様の役にも立てず、あまつさえ子を宿すなど。申し訳ありません」
謝ることしかできない彼女を見つめる。女から謝ってくるのは初めてだ。子を宿した女は他にもいたが、全て堕させた。それをこいつに行っていいのはわからなかった。産んで欲しいわけでもないが殺して欲しいわけでもない。腹の中のガキが俺の子じゃなちゃ、どこの骨か聞いてその後のことを思案してただろう。
サングラス越しの彼女は頭をあげない。そうか、俺の子を孕んだか。
「何ヶ月だ」
「2ヶ月半です」
「いつわかったんだ」
「12週目ほどでしょうか。月経が来ないので医師に見てもらった際、発覚しました。なかなか、お話しできずに申し訳ありません。合わせる顔が見つからなかったのです」
それで見なかったのか。仕事は恙無く進んでるのか。お前の生きる意味だ。それがうまくできなくなってきたから俺の前に現れたのだろう。
「悪阻は」
「若干ですが、始まっております。堕すタイミングを見失ってしまいました」
別に堕せとは言ってない。だか、産めとも言えない。俺の気まぐれがこいつの意味を奪って、縛ってる。
「フフフ・・消えるつもりか」
俺の呟きに肯定の黙秘を受け取る。ローポニーテールのおかけですっきり見える首には俺のかけた細い糸。引くのは今じゃない。
「俺の前から消えることを選べると」
「そうする他ないかと」
消えそうな声だ。無言が響く。鳥の鳴き声さえ届かない。ドレスローザ特有の爽やかな朝なのに、気分は爽快じゃない。腹と胸の中でねっとりした何かが渦巻いてるように感じて唾を飲んだ。
「俺はお前が消えていいなんざ、思ってもないが」
命令してないことはできないこいつには呪縛のような言葉だ。手元を離れることを許してはない。だが、そうなるようしてしまったのは俺自身だ。
「ですが、ご迷惑をおかけします」
モルガナイトはまだ見えない。泣きそうな声が聞こえる。
「お伝えだけしましたから、後のことは何も望んでません。若様の子。殺すことも悲しませることもしません」
「1人で育てるか」
「お手は煩わせません」
ついに涙が溢れたか。大粒の涙が鼻筋を伝う。初めて見る泣き顔は見惚れるものがあった。綺麗に泣くんだな。涙が透明すぎて光って見える。
「俺の子を誘拐するか」
冗談ぽく呟くがあまり耳に届いてなさそうだ。一筋許して仕舞えば、ずっと止まらなくて、鼻を啜る音が部屋に響く。2ヶ月か。
「性別は」
俺の質問に少し顔を上げる。赤くなった瞳と鼻筋。潤んだ瞳は水光を照らす庭のプールみたいで、もっと早く泣き顔を見ておくべきだったと思った。
「まだ・・来月わかる予定です」
ずびっと音が鳴る。どっちでもいいのだが、男ならこの国を継がせるしかない。女ならどうするべきか。
「そうか」
簡単に呟けばまた頭が下がる。手の甲で拭っても止まらない涙を制御しようとして、結局うまくいかなくなってる。
泣くほどに自分の立場としでかしたことを悔やんでる。お前だから、堕すという選択を俺は選んでないというのに。そうか、俺は産んで欲しいのか。目の前で涙に溺れる女を見つめる。こいつとの家庭が欲しいわけでも、子供だけが欲しいわけでもない。それでも、堕させる選択を鼻から選んでない時点で俺の中の答えは一つだったのだ。それでも、どの選択を選んでもこいつには後悔ではなく、悔しいという感情だけが残るんだろうな。そうしてしまったのは俺のせいで。俺が酔いに負けて、欲に負けて、手を出した時点で考えるべきだった。こいつは断る選択肢を最初から持ち合わせてないことを。庭の女たちはその為にいるのに、こいつは俺を整える為にだけにいる。それは大きな違いを俺は薄く考えていたのだ。俺が拾って俺が捨てた。いや、捨てさせた。こいつが大事に思ってたものを。それが俺にもつながっていたのに。
嗚咽が響くこの部屋で、俺はこいつにどう言葉をかけたらいいのか。いつも上手く回る口が全く機能しない。慰めるべきか、どうやって、撫でるか、抱きしめるか、どれも違う。じゃあ、仕事させるか、俺の子を身籠ってるのに?整えるくらいできるだろ、その希望を俺が壊した。元の関係には戻れないことを認識した瞬間、こいつに対して失礼なことをしたのだと。胸が冷えたような気がした。人に対してそう思ったことがない俺は、その胸の扱いを知らない。どこかに消えようとしてるこいつを縛ることはできたが、本当にそうだろうか。
朝日が窓から差し込んで、啜る予定だったいつも通りのコーヒーは冷めてしまって。今日一度も見てないこいつの笑みは泣き顔になってしまった。どうしようもなくなった自分自身の口腔と喉先で空気がどんどん膨れてって吐きそうにも言葉がなくてずっとそこで循環してる。申し訳ありませんと呟くか細い小さな声に、ピクリと反応するが、姿勢も顔も仕草も変わらない。それがどうしても胸を締め付けて、動けない。寄生糸をつけられたような感覚。殺したこいつの親たちもこういう気持ちだったのだろうか。謝って欲しいわけじゃない、むしろ謝るのは俺のほうかもしれない。そう思てる時点で、俺のいうべき言葉は決まってるのかもな。それでも、プライドか性格かこいつの性分か。それを発するのには全てを明け渡す覚悟が必要な気がした。そして、それをする俺をこいつはきっと受け入れない。わかっているからお互い動けない。
外は希望に満ちたような空だというのに、部屋の中は影が覆って静まってる。引き寄せていいのかわからなくて、指を動かすが、それが障るのではないかと下げては上げてる。
「とにかく、お前は悪くない」
自分でも驚くほどの小さな呟きに彼女は頭を上げる。朝日を吸い込んだような瞳は潤んだまま。
「好きにしていいが、消えることは許さない」
どう取るかは好きにしろ。これが俺の精一杯だ。わかったのかわかってないのか、鼻を啜る音だけが響く。
「性別だけは教えろ」
声の代わりに首が動く。シルバーの金具が見える腹が、気持ち膨らんでるように思える。そうか、この小せえ身体ん中に
「無理だけはするな」
無意識に出た言葉をこいつはどう取ったのだろう。頷くことしか許されないお前に産み落とされる予定の子供は、首を横に振るのか。
ただ、愛おしそうに手のひらで子宮部分を撫でる姿は、母親そのもので。俺の知らない姿を見せる。俺が染まってたものを俺自身で崩したことの重大さに胸を糸で吊られながら、目の前の女が微笑んだのを見逃さなかった。