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小さい頃の女の子は皆、誰しもお姫様に憧れて、絵本に出てくるような王子様が迎えに来るのを待っている。私も例に違わずそんな子供で、たくさんの御伽話を読み聞かされては、まだ見ぬ王子様に思いを馳せた。けれど私はどうやら人よりマセた子供だったようで、絵本の完璧な作り物の王子様なんかよりも、泥臭くとも確かに本物の愛を紡いだひいお祖母様たちの恋物語を聞くことが好きだった。

『お祖父ちゃんはな、きっと誰と出会っても、お祖母ちゃんしか好きにならなかったんだ』

何故、ひいお祖父様はひいお祖母様と結婚したのかと問いかけて。ひいお祖父様は決まってそう答えた。愛おしげな目つきで、たった一人の伴侶を想って呟いたその言葉に、ひいお祖母様が何度も照れたようにひいお祖父様の肩を小突いていたのを、今でも覚えている。私は、そんな二人の仲睦まじげなご様子を見るのが好きで、繰り返し二人のお話を強請っていた。

『ひいおばあさまは、ひいおじいさまのこと、すき?』
『ええ、もちろん。だってあの人は、私のヒーローだもの』

ひいお祖父様の話をするひいお祖母様は、いつだって恋する少女のように可愛らしく微笑んでいらっしゃった。たとえ離れていても、ただ一途に、ひいお祖母様はひいお祖父様を想われたのだとも聞いた。だからこそ二人は運命の愛で結ばれた人たちなのだと私は憧れて。
…だから、私が八歳のとき。ひいお祖父様が亡くなられたその傍らで、お父様やお祖父様が泣いているのに対して。ひいお祖母様が涙をこぼすことなく、ひいお祖父様の手を握られていたのを見て、私は不思議に思ったの。悲しくはないのかなんて、子供特有の無邪気な好奇心で尋ねて。
けれどひいお祖母様は、そんな私の質問に、穏やかに微笑んで答えた。

『きっとまた、すぐに会えるから』

そしてその言葉の通り、ひいお祖母様はだんだんと体調を崩され、二年後、静かに息を引き取られた。私が十歳になった年、今から三年前の話だった。私は泣きに泣いたわ。誰よりも大きな声で泣いたの。お祖父様も、お父様もやっぱり泣いていて、大伯母様も泣いていたけれど、私はとうとう大好きなひいお祖母様まで亡くなってしまったから、それが悲しくて、辛くて、たくさん泣いた。

『ミノルちゃん』

息を引き取る前、ひいお祖母様はみんなに一つずつ、直接遺言を残した。大それたことじゃない。これからのその人の未来を案じる声や、希望を願う言葉。最後までひいお祖母様らしい優しさで、置いて逝かなければならない私たちに、素敵な宝物を残してくれた。…そしてそれは、私にも。

『自分の意志で、前に進みなさい』

何度も、何度も。繰り返し告げられたその言葉を、ひいお祖母様は最期に私に念を押すようにして告げてきた。たとえ迷ってしまっても、誘惑に負けそうになっても、最後には誰の言葉にも揺れることなく、自分の意志で進むべき道を掴み取りなさい、と。ひいお祖母様は最期にそれだけを私に告げて、もうほとんど握り返すこともできないような弱々しい手で私の手を取って、微笑みながらそっと息を引き取ったのだ。

『幸せに、なってね』

だから私はずっと、ひいお祖母様のような人になりたかった。一生に一度、本当に心の底から愛し抜いた人と生涯を共にできるような素敵な恋をした、ひいお祖母様のように。
恋とは偶然で、愛とは奇跡なのだという。生まれることすら稀で、同じ方向を向く可能性なんてほぼ無いに等しいその感情を、ひいお祖母様たちは同じ重さで、同じような質で抱きあえた。そんな偶然と奇跡を手にしたひいお祖母様は、いろんな意味で、私にとっての指針だったから。

「…私は、どうすれば良いの、ひいお祖母様」

ひいお祖母様の写真の前で問う。穏やかに微笑みながら、ひいお祖父様とまだ幼い私と三人で写るひいお祖母様は、年老いてもなお最期まで美しい人だった。自身を取り巻く全てを愛し、慈しんだその在り方は、私にとっての憧れで。ひいお祖母様は、「本当に好きな人にしか優しくできない」だなんて言って、ご自分を狭量な人間だと語ったけれど、私はそうは思わなかった。ひいお祖母様は、ご自分の愛に正直に生きることができる人だと、そんな風に私は思ったの。
だからこそ、ひいお祖母様に縋りたかった。こんなとき、ひいお祖母様ならどうしただろう。もしもひいお祖父様が、何かしらの危機に晒されていて、もう二度と会えなくなるかもしれないという現状に立たされて。そんなとき、ひいお祖母様は何を思うの?何をするの?…それを、私は知りたかった。

「…ミノルちゃん、大丈夫…?」
「カノン…」

おずおずとひいお祖母様たちの部屋のドアを叩いて顔を覗かせたカノンは、私の隣に座って一緒にひいお祖母様の写真を見つめた。「薫さんと話してたんだね」なんて一つ笑ってから、カノンはしみじみと呟くようにして口を開く。

「…もし今、薫さんが生きていたら、ミノルちゃんとバダップのこと、何て言ったんだろうね」
「…ひいお祖母様が…?」
「だって、ほら、薫さんはミノルちゃんの夢を応援してくれてたでしょ?」

…その言葉を聞いて蘇ったのは、過去のひいお祖母様の微笑みだった。ひいお祖母様のように、素敵な人を見つけて結ばれたいのだと話す私に、ひいお祖母様は馬鹿にすることも、子供の夢だと侮ることもなく、嬉しそうに微笑んで私の頭を撫でてくれたのだ。

『ミノルちゃんも、きっと見つけられるからね』

そんなひいお祖母様が居なくなってしまった今。あのとき語った夢のような、素敵な人を見つけたのだと話したら、ひいお祖母様は何と言ってくださったのだろうか。
そしてそれは、きっと、「良かったね」と微笑んで、「大事にしなさい」と諭してくれるのに違いないのだ。だってひいお祖母様はいつだって、ひいお祖父様からいただいた愛を、同じ分だけ返したがっていたのだから。
それなら私が、しなきゃいけないことなんて、始めから決まっていた。

「…私らしくなかったわ…」
「ん?」
「どうして私は今、たとえひいお祖母様が相手であっても、私の意思を誰かに委ねようとしたというの…!!」

自分で考えて、ぞっとする。今私は無意識のうちにひいお祖母様へ、自分の判断を委ねようとしていたのだ。けれどそれは、私のポリシーにもひいお祖母様の遺言にも反してしまう。…それにきっとひいお祖母様は、たとえ私が同じ質問を投げかけても答えなかった。あの穏やかで優しい微笑みのまま、黙って私の背中を押してくれる。そうに違いない。だから。


「私は、私の意思で行くのよ」


立ち上がる。もう、座り込んでなんていられない。こんなところで泣いていられるほど、あいにく私は弱くないわ。…バダップが迎えに来てくれないというのなら、今度は私から迎えに行ってあげるわよ。だって女の子が待つことしかできないだなんて、そんなの決まってないもの。

「カノン」
「…たぶん、ミノルちゃんならそっちを選ぶんじゃないかなって思ってたよ」

仕方なさそうに、けれどどこか嬉しそうに笑ったカノンと一緒に部屋を出る。そして玄関先へと向かいながら電話をかけた先は、今頃政府に抗議中のお父様だった。手短に用件を…きっと今頃割り出せているであろうバダップたちの居場所を尋ねれば、お父様は私の判断を咎めるような声で諭そうとする。娘への心配からくるその言葉を、親不孝者の私はいとも簡単に切り捨てた。


「私は自分の足で、彼を迎えに行くの。そう決めたのよ」


…私の言葉に迷いも、躊躇いもないことを理解したお父様は、一つため息を吐いて呆れたように笑う。お前は間違いなくお祖母ちゃん似だ、と呟いたその言葉に、私は静かに微笑んで見せた。





何の通達も無く集められ、閉じ込められ、手首を拘束され、目の前にたたずむ男が自分らを蔑むような目で見下ろしてきたとき。「とうとうこの日が来たのか」と、バダップはどこか他人事のように、思わず内心で自嘲してしまった。

「貴様らは、処分を言い渡された」

これが非合法的で、独断の処分であることは態度で分かる。何故ならそれは、バダップが恋い慕う彼女が、何も言わなかったからだった。昨日もいつも通り、彼女へ愛を囁いたバダップに対して、可愛らしく頬を赤く染めて、少し怒ったように睨みつけてきた彼女の顔を思い出す。…今日だったというのに。
百日目。想いを告げたバダップに、彼女が向き合ってくれるために出した条件としての期日が今日だった。今日、今までのように彼女へ愛を捧げてしまえば、自分の抱いた想いに、彼女が向き合ってくれるはずだったのに。

「国の未来のために、潔く覚悟を決めろ」

背後にいるエスカバやミストレたちを庇うようにして、バダップは彼らの前に立つ。この部隊のリーダーとして、メンバーを守るのは当然のことだった。そしてそれを見て、目の前の高官は舌打ちする。たしかこの男は、提督であるヒビキとよく対立していた人間ではなかっただろうか。平穏主義を掲げながら、その裏では自分の目的の障害となるものの排除に躊躇いがない人物だと、政府内で密かに危険視されていた。そんなこの男にとって自分らは、どうやら同じように危険視されたらしい。ヒビキ提督の戦力を削ぐ意味もあるのだろう。「国の未来のために」という綺麗事が、やけに寒々しく聞こえた。

「…処分は俺一人に」
「バダップ!」
「言い訳が無いだろう!貴様らのような人間兵器もどきを、野放しにはしておけん!!」

駄目元で願い出た、背後のメンバーへの情けは簡単に却下された。その盲信的なまでの男の正義を目の当たりにしたとき、バダップはまるで少し前までの自分らを見ているかのような錯覚に陥った。自分らの思想が、理想が正義だと信じて疑わなかったあの頃、きっと自分もあんな目をしていたのだろう。
自分以外の全てが間違っていると、盲目的な使命感に駆られた人間の目を。

『その凝り固まった頭で考え、曇った目でよくご覧なさい!カノンを!私を!!貴方たちと戦う「意思」と「勇気」をもって、時空までをも超えてここまでやってきた私たちが、貴方には弱い人間に見えるのかしら!』

だからあのとき、高らかに彼女が謳ったその言葉が衝撃だった。バダップは彼女たちのことを、ただ自分らの使命を阻む邪魔者だとしか見ていなかった。それなのによく見れば、彼女たちはバダップたちの理想とする人間性を備えてそこに居る。しかも自分たちと同じ時間を生きる、同じ未来の人間として。
自分らの理想が間違っていたとは思わない。戦いを恐れ、馴れ合うだけの行為に未来は切り開けなかった。…けれど、そんな今から目を背けて、過去ばかりが悪いと憎むのは、お門違いだったのだ。

『まず貴方たちは過去を変えようとしたことがナンセンス!それじゃあ貴方たちの言う、現実から目を背けて享楽に耽った輩と同じじゃない』

見据えるべきは、変えるべきは自分たちの生きる時代だった。それに気がついたとき、今まで心に巣食っていたサッカーへの憎しみはすっかり消え去っていて。その代わりにこの心は、そんな真っ直ぐな言葉をバダップたちに向けた彼女に向いたのだ。
彼女は眩しかった。似たような立場に生まれたくせに、考えることも、生きる道ですら違える彼女はいつだって、自分のためだけに精一杯生きている。真実の愛のために生きるなどと、そんな夢を過去の己が聞いたなら、きっと鼻で笑ったのだろう。けれど今、それを聞いてバダップはただ、羨ましいとさえ思った。

『せっかくの一度しかない人生なのよ?それならば、自分の意思のままに生きてごらんなさいな』

誰にも覆すことのできない夢を、誰に笑われようと恥じることなく掲げて、清々しいまでの笑顔で生きる。その生き様をすぐ近くで見せつけられたあのとき、まるで太陽に焦がされたかのような熱い鼓動が、この心臓を波立たせた。
もっと近くで、彼女の側で、その生き様を見てみたいと願う。自分には無い熱量と、自分には持てない夢をもって未来を見据える彼女はきっと、己の夢が叶うその瞬間に、誰よりも美しく笑っているはずだから。…だから、告げたのだ。この病にも近いような恋に浮かされた頭で、彼女の言葉に胸を借りて、思うがままに彼女へ自らの愛を吐いた。

『…じょ、条件をつけます!!!』
『何だ』
『今日から百日間!私は貴方の愛を試します!』

そうして始まった百日間。やはり自分の目に狂いは無く、近くで見れば見るほどに、彼女の生き様は眩かった。バダップの差し出す言葉一つで面白いように狼狽える彼女が、それを丁寧に受け取ってくれる度に、この心は歓喜に震えて。
誰が何を言おうと、バダップのそれは、紛れも無い恋の形をした愛だった。憧れと、尊敬と、ほんの少しの愛おしさを混ぜて、百日間の時間が紡いだ彼女との記憶が、有耶無耶だった想いを恋の形に昇華させたのだ。
そんな恋を抱いて彼女を想った日々は、バダップにとって穏やかな幸福そのものだった。百日後、必ずしもこの想いが実るわけでは無いことは理解していたけれど、それを差し引いても、彼女の元に訪れることのできる理由を得られたことが、彼にとっては何よりも重要で。
このままずっと、永遠であれば良かった。
何のしがらみも無く、一人の人間として彼女を好きで居られればそれで構わなかったのに。
…けれど、世界はそう簡単に都合よく回ってはくれなかった。百日目の今日、彼女に告げる言葉を喉奥に閉じ込めたまま、バダップはこうして見えぬ処刑台の断罪の刃が降るのを静かに待っている。

「…俺は」

当然の報いだということは分かっていた。これまでの穏やかな日々も、彼女や彼女を取り巻く者たちの温情で成り立っていたことも。本来ならば、違法な理由で過去に干渉した自分らも、何かしらの罰を受けなければならないことだって。…分かって、いるのに。

(死が、恐ろしい)

覚悟はしていた。いつか来るであろうその日を、薄氷の上の幸福を拾い上げながらも、暗く冷たい水底へと自分らを引きずり落とす手を、自分は待っていたのだ。それなのになぜ、こんなにも今。
この心は、まるで臆病者のように死を恐れ、生を請う。

「こちらへ来い」
「…はい」
「おい待てよバダップ!お前はそれで本当に良いのかよ!?」

背後では、自分に庇われることを良しとしないエスカバたちが、しきりにバダップの名を咎めるように呼んでいた。それを意図的に無視して、バダップは指示の通りに一歩前へと踏み出す。手首の拘束を解かれて、後ろ手に組むよう指示された。それに逆らうことなく動いて、ほとんど間も置かずに額へ突きつけられたのは、鈍く黒に輝く拳銃だった。

「この国の平和の礎となることを誇りに思い、死ね」

撃鉄がゆっくりと下されるのを耳で聞きながら、バダップは目を伏せた。せめて震えぬようにと、自身の手首を砕けそうなほどに握り込む。…そうして、その存在に気がついて、目を見開いた。
少しだけ擦れてしまった、手首に巻かれたそれは。
彼女が、自分のために作ってくれたものだった。


『は、初めてにしては、結構上手く編めたと思うのだけれど』


初めて。彼女が初めてこのミサンガを作った理由は、他でも無いバダップのためだった。少しだけ不安そうに、それでいてどこか、バダップの反応を期待するかのようにそわついていた彼女を見たとき、バダップは初めて、制御しきれぬほどの衝動に駆られた。「愛おしい」という思いだけで人間は、こんなにも簡単に感情的になるものなのだと彼は初めて知った。

「遺言があれば聞いてやろう」

せせら嗤う高官の言葉に対して、バダップは反射的に繰り出した右手の裏拳をもって答えた。驚くほど軽く吹き飛んだ男のことを気にすることもなく、バダップはパキリと右拳の骨を鳴らす。一瞬の間を置いてから、彼に対しての怒号と罵倒が飛び交い始める中、バダップは背後で呆然とするエスカバたちへ、手短に謝罪の言葉を吐いた。

「すまない。命が惜しくなった」
「…ハッ、臨むところだね」

好戦的な笑みでその謝罪を跳ね除けたミストレを筆頭に、他の者たちも笑いながら立ち上がる。それを見てたじろいだ高官たちは、逆らう気かと喚き始めた。…逆らうに決まっていた。何故ならまだ、自分らは、自分は、命が惜しい。
彼女に伝えるべき言葉を、喉に閉じ込めたままでは。たとえ死んでも死に切れないのだから。
だからバダップは、そんな彼女の言葉に、生き様に胸を借りて、目の前の死を死んでも跳ね除ける意志を見せた。

「…罰はいくらでも受けます。それは紛れもなく俺たちの受けるべき道理です」

ですが、と吐き捨てて、バダップは眼前の敵を睨めつけた。抗う。怒る。退ける。あらゆる意志をもって、彼は自身の運命を捻じ曲げんと足掻く。愛に生きる彼女へ、バダップに生を望ませた理由が彼女への愛であると言えば、果たして彼女は笑うのだろうか。それとも「馬鹿ね」とため息をついて、怒ったような、呆れたような顔をするのだろうか。…どちらにせよ、きっと彼女は最後には「よくやった」と言ってくれるのだろう。彼女はそういう人間だった。だから。


「俺はここで死ぬことはできない!!」
「よくぞ言い切ったわ!!!」


その叫び声とほとんど同時に、まるで入り口の扉を蹴破る勢いで飛び込んできた少女の姿に、バダップは目を見開いて絶句した。ここまで乱戦でもあったのか、いつも身綺麗にしている格好は無残にもボロボロで、手足には擦過傷がところどころについている。何してるんだあいつ、と呆れたように呟いたミストレの言葉を耳聡く拾って、彼女はあの不敵な笑みと共に胸を張って答えた。

「いつまでもいらっしゃらないフィアンセを迎えに来て差し上げたのよ!!」

…聞き間違えたのかと思った。今、彼女が真っ直ぐに示す先、フィアンセと謳った人間は紛れもなくバダップだったから。あまりにも自分に都合の良すぎる言葉に、思わず狼狽えて立ち竦む自分の元に彼女が猛然と駆け寄ってくる。そしてそれと同時に、彼女の背後から出てきた警察たちによって高官たちが捕われ、連行されていくのを呆然と眺めていれば、いつの間にか目の前にまで来ていた彼女がその勢いのまま、バダップの首筋に縋りつくようにして飛び込んでくるのを反射で受け止めた。必然的に抱き締めるような形になって感じた彼女の柔さと甘い香りに、ぐらりと酩酊するような心地を覚える。

「…私としたことが、肝心なことを忘れていたのよ」
「…?」
「好きよ、バダップ」
「は」

抱き上げられたまま、バダップの頬に手を添え、真っ直ぐに瞳を合わせてそう囁いた彼女の言葉に、バダップは思わず目を見開いた。…そしてそれと同時に先ほどの言葉が聞き間違いでは無い、彼女の紡いだ言葉なのだと理解して、途端にこの心臓に熱が宿る。

「貴方にだけ言わせて、自分は受け取るだけだなんてそんなの卑怯だわ。私だって貴方のことが好きだもの」

だから、と彼女はバダップの腕の中、少しだけ照れたように微笑む。そうして百日前彼が彼女に差し出した始まりの言葉をそっくりそのまま、今度は彼女が自分の意思で、バダップに向けて差し出した。


「私と結婚を前提に付き合ってくれないかしら」


遠くで拘束を解かれている最中なミストレの「他所でやってくれ!」という怒号が聞こえたが、彼女はそれを当然のように無視したし、バダップはそもそもそちらに構う余裕も無く、ただ跳ね踊る心臓に惑わされていることしかできない。

「…俺で、良いのか」

思わず漏れ出た弱々しいバダップの言葉に、当たり前じゃない、と笑った彼女の微笑みに目を奪われた。いつもの自信満々で勝気な笑みを、その綺麗な顔に浮かべて、彼女は至極当たり前のような表情で口を開いてみせる。
後悔なんて何一つ無いのだと語る彼女はバダップの頬に手を添えて、その理由を無邪気に話した。
その言葉が、声が、表情が、瞳が。
何度も何度も、彼の心を貫いて、幾度目とも知れない恋に浸して、彼女への想いを深めさせた。


「私の運命は、私が自分で掴み取るものだもの」


…嗚呼、ほら、いつだって。
思うがままに道を征く彼女のその瞳は、まるで太陽を孕むかのように眩く、美しい。
そしてその眩さを、バダップはきっと誰よりも特別な意味で、愛してしまっていたのに違いなかった。