十月(盲愛少女)




その三人での飲み会は、とりあえずで注文した生ビールとつまみの枝豆、そして久々の再会となったかつてのチームメイトである円堂の悲鳴じみた驚愕と共に始まった。

「え!?鬼道たちまだ結婚してないのか!?」
「しかも恋人関係ですら無いんだぞ」
「なんで?」

「心の底から疑問です」と言いたげな円堂の澄んだ瞳に鬼道は、俺が聞きたい、という台詞を辛うじてビールごと喉奥に流し込んだ。本当に叶うなら鬼道が一番知りたいと思っている。
影山一香。彼女は鬼道の亡き恩師の実子であり、自分とはかつて婚約者じみた関係性にあった女性であり、鬼道が初恋を捧げて約二十年ほど想い続けている最愛の人でもある。現在はその頭脳明晰ぶりを生かして鬼道財閥の抱える会社の研究所で働いており、鬼道が義父の跡を継ぎ次第、佐久間同様に鬼道の秘書になる予定だった。

「え、だってたしか、一香ってイタリアにまで着いて行ったんじゃなかった!?」
「着いていったな。『鬼道をそばで支えたいから』という理由でイタリアの有名大学に現役合格してたぞ」
「それで、鬼道が日本に戻ってくるときも一緒に帰ってきたんだろ!?」
「めちゃくちゃ向こうに引き止められたらしい。それを『私の居場所は有人さんのお側です』と一蹴して帰ってきたな」

なぜ佐久間がそこまで彼女のことに詳しいのかはさて知らず、たしかにそこまで聞くと側から見ればまるで夫に着いて世界を飛び回る健気な妻だ。しかも、よく招待されるパーティーの同伴者も一香。通りで最近は見合いの話が皆無だと思ったのだ。その影響もあるのかもしれない。

「見合いの話なら俺が全部突っ返してる」
「お前が犯人か」
「必要だったか?」

必要あるわけがない。佐久間の言う通り、鬼道が想うのは昔も今もただ一人、一香だけだ。たとえ世間一般の社長とやらに愛人が必須であり、必要事項だと言われたとしても、鬼道は彼女以外は要らないと言い切ることもできる。

「ならなんで彼女ですらないんだよ」
「………………タイミングが」
「嘘つくな鬼道。土壇場で怖気づいて告白の機会を失っているのは分かってるんだよ」
「だからなぜお前はそこまで俺の事情を把握してるんだ…!」

否定できないのがまた悲しい。つまりは自分で自分を根性無しの臆病者だと揶揄しているのと同じだが、実際そうなのだから仕方ないのだろう。…本当は簡単なことなのに。ただ鬼道は一言、彼女に向けて結婚を前提にした交際を申し込めば良い。しかしその言葉を告げる勇気を、他でもないその臆病者自身が待ったをかけるのだ。

「…俺は、あいつを幸せにしてやれる自信が無い。絶望も悲しみもなく、幸せな家庭を築いてやれると心から言えないんだ」

それは、自分の生い立ち然り、彼女の抱える傷然り。どちらも本当の親を早くに亡くしてしまっていたからこそ抱える悩みだった。鬼道も彼女も、今日に至るまで、いろいろあり過ぎた。
比較的まともな鬼道でさえ、今の父親と穏やかな関係性を構築できるようになったのは中学二年のときなのだ。父親である影山零治との温かみのある家庭の思い出など皆無である一香なら、それはなおさら。
しかしそれを聞いて、この中では唯一の既婚者である円堂が神妙な顔で頷いたのとは裏腹に、佐久間は鼻で鬼道の弱音を笑い飛ばした。

「お前は本当に昔から、本質的なことは何も変わらないな」
「…何?」
「鬼道、お前は一人で何もかも抱えすぎだ。家庭はお前だけが築くものじゃないだろ。…何が幸せで、何が苦しいかなんて、そんなものは本人に聞かなきゃ分からない」

その正論でしかない言葉に鬼道は思わず黙り込む。…分かっているのだ、そんなことは。きっと鬼道が尋ねれば、彼女は快く正直に答えてくれるだろうし、鬼道の想いを無下に扱うような真似はしない。憎からず想われている自信もある。
それに、もうとっくに彼女へ向けて贈る言葉も指輪も、何もかもが自分の中では定まっているのだ。生涯を共にしたいという願いも嘘ではない。
だがしかし、それでも、それでも自分は。

「プロポーズを断られるのが恐ろしいと言ったら笑うか…」
「あ、それが本音だな」
「やっと吐いたか」

ぶっちゃけ、大切で重要なのはそこなのである。何せ恋愛を絡めた男心というのはガラスよりも脆いので。情けなくも微かな呻き声と共に卓へ突っ伏した鬼道を横目に、円堂と佐久間は肩を竦めながら二人のまだ見えぬ未来の幸福を祈って静かに再度グラスを合わせた。
そしてそこからは怒涛の鬼道の愚痴という名の反省会が始まり、雷門中学校を卒業してから現在に至るまで鬼道を支えながら側に居てくれた一香への惚気も交えながらの混沌とした飲み会は、珍しく鬼道が酔い潰れて寝たところで終わりを告げた。手慣れたように鬼道の財布から黒いカードを取り出して会計を済ませた佐久間に、円堂は「そういえば」と一つ思い浮かんでいた疑問を投げかける。

「佐久間はさ、さっきからやけに鬼道たちのこと詳しいのはなんで?」
「全部話は薫から直接聞いてるんだよ。あいつは鬼道よりもよっぽど覚悟を決めて、鬼道からの言葉を待ってるぞ」
「…やっぱ女の人って、そこら辺は男より強いよなぁ」
「同感だな」