噛みついた



俺の世界はとてもシンプルに、しかし言い方を変えれば何とも薄情にできている。大切なものは身内と俺自身。その他の有象無象は特にどうなっても知らないという、他の人間が聞けば揃って眉を潜めそうな人間が俺という存在だった。特に俺の片割れである守は俺にとってはもっとも大事にすべき存在で、守以上に俺の心を占めるものはいない。俺は生まれつき心臓が弱いから守と一緒にプレーはできないけれど、その眩しく輝かしい笑顔がずっと続けば良いと願って、俺は守のサッカーを支える道を選んだ。そしてそれが俺の生きがいで、すべて。…そう思っていたのに。

「豪炎寺、どうしたんだ、いったい」
「…」

今俺は、部室の床の上。何故か険しい顔で半ば俺を睨みつけるような目をした豪炎寺に押し倒されている。頭は辛うじて打たなかったものの、そこそこ体への衝撃はあったらしく、多少の痛みが体を襲った。…どうしてこうなったのだろうか。先ほどまでの豪炎寺とのやり取りを思い出す。たしか今までずっと、俺は豪炎寺に対して染岡たちの話をしていたのだ。俺にとっての身内、ずっとここまで一緒に頑張ってきた仲間。俺の中では数少ないながら大切な人間に割り振られる彼らの話をするのが、俺は好きだった。
しかし話せば話すほど、俺があいつらの話で微笑めば微笑むほどに、豪炎寺の顔は暗く険しくなっていく。その訳を尋ねたのだ。何がお前を悲しませているのかと俺は問うた。…そして豪炎寺は、俺から目を背けたまま、少しだけ躊躇うような素振りで口を開き。

『…お前にとって、俺は何なんだ』

そんな疑問を口にした。俺はそれに首を傾げる。俺にとっての豪炎寺の存在とは。そんなの、至ってシンプルだ。豪炎寺だって俺にとっては大切な身内。守のピンチを救ってくれたあの日から、俺は彼に嫌悪を抱いたことは一度として無い。だから俺は答えた。何故か怯えたように縮こまる肩を叩いて、安心させるように笑って。

『友達だよ、ずっと』

…安心させるために言ったその言葉が、豪炎寺の不安定だった心にトドメを刺しただなんて俺は知らなかった。その答えを聞いて傷ついたような目をこちらに向けた豪炎寺は、みるみるうちに顔を歪ませたかと思えば、その変わりように呆然とする俺の胸倉を掴んで床に引き倒す。そして、痛みに呻いた俺に吐き捨てるようにして口を開き。

『友達なんて、そんなことを言うな』

どこか泣きそうな顔で、悲鳴じみた声をあげて。…そうして話は冒頭に戻るのだ。俺の問いかけに答えないまま苦しそうにこちらを睨む豪炎寺を、俺はどうしてやれば良いかもわからず、宥めるように目の前の頬を撫でてやる。そうすれば豪炎寺はまた、何故か傷ついたような顔をした。

「…お前は、そうやって何でもないような顔をして、残酷な真似をする」
「…俺、豪炎寺に何かした?お前が傷つくようなことをしたのか?」
「あぁ」

豪炎寺は自嘲気味に笑った。まるで俺の無知を嘲るようにして、泣きそうな顔をして。そうしてまるで、決別を望むかのような投げやりな態度で言葉を吐き出した。

「俺を知れば、お前は俺を軽蔑する。…だから隠そうと、努力した。…なのに、お前は…!!」

胸倉を掴んでいた両手が俺の頬に添えられて、まるで目を背けることさえ許さないと言いたげに俺の動きを封じる。逃げる気なんて最初からさらさら無かったのだけれど、それを知らない豪炎寺はやや痛いほど強く指を俺の頬に食い込ませた。…どうして、お前がそんな顔をするんだ。
まるで俺の言葉だけでなく、自分自身の行動の一つ一つにさえ傷ついているかのような、そんな顔で。


「お前が好きだ」


…豪炎寺のそれが友愛でも親愛でも無いことは、目を見てすぐ分かった。瞳に宿していたのは、どろりと溶けて複雑に混じり合った恋情の色。俺に向ける想いの全てに、豪炎寺の苦悩する思いが見えたような気がした。そしてそんな呆然とする俺がどうやらショックを受けていると勘違いしたらしい豪炎寺は、やはり一人自嘲するように薄く微笑んで、鼻先をすり合わせるように額と額を合わせる。

「お前が好きだ。友人でも何でも無く、男として、俺はお前に恋愛感情を持っている。…言わせたのは、お前だからな」
「ご」

豪炎寺、と呼んでやりたかった名は、彼自身の唇に阻まれて音にさえならなかった。そして代わりにもたらされたのは、がちりとぶつかった歯の痛みと僅かに切れたらしい唇の血の味。長いようできっと短かったキスをやめて俺を見下ろした豪炎寺は、どちらのものか分からない赤を唇に付けたまま、やはり泣きそうに笑って口を開く。

「ざまぁみろ」

そうして、そのまま。床に倒れ込んだままの俺を放ったまま。豪炎寺は自分の荷物を引っ掴むと、まるで全てを投げ打って逃げ出すかのようにして、部室から出て行ってしまった。残された俺は追いかけることもできないまま、鉄の味がする唇を指の腹でそっと撫でる。思い返したのは、乱暴ながらにどこか泣き叫ぶかのような豪炎寺の口づけと、その温い唇の温度。
痛みと、血の味と、虚しさと、ほんの少しの興奮。
それが俺の、ファーストキスの記憶だった。





「なぁ、豪炎寺と何かあったのか?」
「…いろいろ事情が複雑なんだよ。俺は別に怒ってないんだけどなぁ。あっちが一方的に気まずいらしくて」

あれから二日が経った。あの日、部室で別れてから俺は豪炎寺とは全くと言って良いほど喋っていない。俺が何度か話しかけようとすると分かりやすく避けてくるし、部活中も他の奴らと連むことが多くなった。これだとまるで立場が逆だ。普通は熱烈に告白された上にキスされた俺が避ける方なんじゃないだろうか。しかしこうして風丸にも心配されるくらいには、俺たちの今の様子は相当周囲には不自然に見えているらしい。まぁ、あれだけいつもべったり隣に居ておいて、いきなりこんな風に離れていれば「何かありました」と公言しているようなものだろう。

「試合までには何とかしろよ?次は準々決勝だぜ」
「うん…まぁ、やれるだけのことはやるさ」

このままではたしかに練習どころじゃない。それに今週末には御影専農中との準々決勝も控えている。そのことを考えれば、こんなところで仲違いしているだなんて冗談じゃない。そう思いながら俺は、昼休み終わりに教室へ戻ってきた豪炎寺の手を半ば無理やりに掴んで引き留めた。少し怯えたように目を逸らす豪炎寺に構わず、俺は一方的に用件を伝えた。

「放課後、屋上な」
「…」
「俺はお前をずっと待ってるよ」

どうせ今日は試合前に英気を養うという目的で練習も休みだ。いくらだって時間はある。守の練習に付き合ってやれないことは残念だけれど、今はこちらを優先させて欲しい。豪炎寺は何も言わなかったけれど、俺は特に返事を求めることなく肩を叩いて席に戻った。
そして放課後になって、やはり自主練したいと駆けてきた守に今日は断りを入れて、俺は何か言いたげな豪炎寺をわざと見ないフリで屋上に向かう。外に出て目に入った、夕暮れに染まりつつある空がとても綺麗だと思った。…三十分程度、たった頃だろうか。誰かが階下から上がってくる音が微かに聞こえて、俺は黙って振り返る。そこには予想通り豪炎寺の姿があった。俺の立つフェンス前まで誘導するように軽く手招きすると、豪炎寺は少しだけ怯えたような様子で俺と二人分開けた隣に立つ。

「お前は来ると思ってたよ」
「…何の用だ」
「分かってるくせに」

俺はフェンスの金網に指をかけて、豪炎寺を顔だけで見遣る。けれど決して俺の方は見ない豪炎寺に、俺は静かに本題を切り出した。

「豪炎寺は、俺とどうなりたいの」
「…どう、なりたいか」
「俺とこのままが良いの。友達をやめたいの。…それとも、俺と恋人になりたいの」
「ッ!」

俺の言葉を聞いてカッと顔を赤くさせた豪炎寺は、まるで苛立ちをぶつけるかのように俺の胸倉を掴みながら俺を壁に押し付けた。僅かに息苦しくて咳き込んだものの、何とか平気なフリを装って俺はその体勢のまま、伸ばした手で豪炎寺の頬を撫でてやる。

「俺は、良いよ。お前と恋人になっても。豪炎寺のことは好きだしな」
「…お前の好きと俺の好きはベクトルが違う。同情なら止めろ」
「同情じゃない」
「違う、お前のそれは同情だ。…男から、こんなもの向けられて、気持ち悪くない訳が無いだろ」
「何でそう言い切るんだよ」
「それが常識だからだ」

どうやら豪炎寺は、俺の言葉を同情だと信じて疑っていないらしい。まぁたしかに同情が無いとは言い切れない。俺はゲイじゃないし、どちらかと言えば女の子の方が好きなのだろう。…けれど、俺はそれでも、豪炎寺と恋人になっても良いと思ったのは嘘じゃない。ちゃんと考えた。
この二日間、俺はどうしたら豪炎寺の想いに応えられるだろうかと考えたんだ。断るという選択肢だってあった。でもそうすれば、豪炎寺が俺の隣に立つことは二度と無いんだということも悟っている。豪炎寺は案外不器用だから。それでいて、愚直なほどに真っ直ぐな人間だから。簡単に他の人間を好きにはならない。傲慢かもしれないけれど、きっとずっと、あいつは俺のことが好きだ。
そしてそんな愚直さを、俺はたしかに愛おしいと思ってしまったのだ。あのとき、傷ついたような顔でキスをした豪炎寺を、抱き締めてやれば良かったと後悔さえした。そんな複雑怪奇な心が、お前を繋ぎ止める楔になるかなんて俺は分からないけれど、それでも俺はお前を失うことだけは嫌だと思ったよ。
どうしたらそれが本気だと、お前に証明できるのかな。

「…俺からお前にキスができたら、俺はお前の好きを受け入れる資格があるのかな」
「…は」

何か言われる前に豪炎寺の後頭部を抑えて唇を押しつける。今度は歯は当たらなかった。驚いたような顔で反射的に身を引こうとした豪炎寺を咎めるように、下唇に柔く歯を立てる。その途端、動きを止めた豪炎寺を良いことに俺は歯を立てた箇所を労るように舌を這わして舐め上げた。そうしてほとんど唇を重ねたままで、俺は豪炎寺に問う。

「これでも、信じない?」

…すると、そこまで受け身だった豪炎寺の目の色が変わった。胸倉を掴んでいたはずの手でするりと頬を挟み、俺の唇の隙間から無理やり舌をねじ込んでくる。咄嗟に開いて受け入れた口内を蹂躙するかのような乱暴で深いそれに、当然呼吸の仕方なんて分からず、ぎこちないながらも豪炎寺のそれに舌を絡め返してやることしか俺にはできなかった。酸素不足で目の前がチカチカする。初めて感じる快楽にに背筋が震えた。
やがてようやく俺が酸欠気味だと気がついたらしい豪炎寺が、名残惜しさを目に宿して唇を離す。そこでやっと大きく息を吸えた俺は、腰砕けになったせいで崩れ落ちそうなのを耐えるように豪炎寺の首筋に縋りついた。

「意外と、情熱的、なんだな、豪炎寺」
「…悪い」
「良いよ。あと、これでお前は信じるか?」

豪炎寺は何も言わなかった。…何を言えば良いか分からなかった、と言った方が正しいのかもしれない。実際、豪炎寺は俺の背中に手を回して抱き締めたまま、まるで縋るように俺の肩口へ顔を埋めてきたから。そんな豪炎寺の頭を撫でて、俺は耳元で囁いてやる。

「俺の愛はね、狭量的で不平等だよ。お前がいくら俺を好きだと叫んでも、俺の一番は守で、それだけは絶対に揺らがない」
「…」
「でも、少しだけ余裕の空いた心を、俺はお前に捧げても良いなって思ったんだ」
「!」

本当だよ。俺はあのとき、自分の心を傷つけながら俺に一方的なキスをしたお前のことが、愛おしいと思ったんだ。俺が守に幸せになって欲しいと願う想いとは違うベクトルだけど、お前が俺に向ける恋慕の深さと重さは、俺のそれと大して変わりはない。そんな風に想ってくれているのだと知ったとき、俺は忌避感なんて抱かなかったから。

「だからさ、俺を好きにさせてよ豪炎寺。俺を夢中にさせてくれ」

まだ恋じゃない。
まだ愛になれない。
それでも俺は、こうやってキスしても嫌いにならないくらいには、豪炎寺のことを好きなんだと思う。そしてその感情を恋に変えてくれることを、俺は豪炎寺に期待することにしたから。

「泣くなよ、可愛いな」
「…可愛いのは、お前の方だ」
「じゃあどっちも可愛いんだろ」

そう告げた俺に力一杯抱きついて、声を殺して泣く豪炎寺を、俺は優しく抱き締めてやった。そんないつもはカッコよくて、俺にとってはヒーローみたいなやつだった豪炎寺の姿が、今はどうしても可愛く見えて仕方ない。
…帰り際、階段の踊り場で俺は豪炎寺と触れるだけのキスをもう一度した。微かに照れたような、困ったような顔をした豪炎寺が面白くて思わず笑う。そうすればあいつは少しだけ怒ったような顔をして、まるで仕返しだとでもいうように、今度はあちらから俺に噛みついた。