白紙のキャンパスをなぞる




まるで赤子のようだと、ウルビダに言われたことがある。
目覚めてすぐの私の記憶は何故か新品のキャンパスのように真っ白で、名前も生い立ちも何もかもが私の頭の中には初めから存在していなかったように無でしかなかった。
そんな戸惑うばかりの私を見舞ってくださったグラン様曰く、私は宇宙人であるらしい。何を言っているのだろうと私も首を傾げたのだけれど、誰もがそれを否定しなかったし、名の無い私に付けられた「オルガ」という名もそれらしい響きを持っていたから、仕方なくすんなりと受け入れた。それだけ。

「ぐらんさま」
「どうしたんだい?」
「さっかーって、なに」

そしてそんな宇宙人になってしまった私は、グラン様の率いるチームでさっかーとやらをしなければならないらしい。聞いたことのないその単語の意味を問えば、グラン様は何故かポカンと口を開けて呆けていた。
詳しく聞くと、さっかーは白黒のボールを蹴り合い相手のゴールに入れることで点数を競う競技。手を使ってはいけないのだとか。
そんな初めて聞くスポーツをしなければならないと聞いて、私は不安でたまらなかった。何せ、グラン様の率いる「ガイア」はエイリア学園の中でもトップチームだ。そんなところに初心者同然の私が入って、果たして足を引っ張ったりはしないだろうか。

「大丈夫さ、オルガなら」
「…ほんとう?」
「あぁ、本当だ」

その時は、どうしてそんな自信満々な顔で断言するのだろうと不思議に思っていたのだけれど、その理由は三日後の初めての練習ですぐに分かった。身体が、何故だかさっかーを覚えていたから。
ボールの蹴り方を知っている。
走りながら周りを窺う動作も。
精密なコントロールを必要とされるロングパスも。
迫り来る相手を翻弄して躱す方法だって。

「できた、ぐらんさま」
「あぁ、上手だよオルガ」
「うるびだ、できたよ」
「…フン、一応使えるらしいな」

抉れたグラウンドを前にして、私はグラン様とウルビダの方に向き直る。グラン様は良く出来た、とでも言うように褒めてくださったし、ウルビダは顰め面していたけれどどこか感心するような顔つきをしていた。
…ただ、少し離れたところで歓喜の声を上げる白衣の人間たちは、あまり好きじゃなかった。嫌悪や恐怖の感情ばかりが渦巻いて、思わずウルビダの背中にしがみつく。ウルビダは最初、そんな私に煩わしそうな顔をしたけれど、私の視線の先にいる白衣の人間たちを見つけてからは何も言わずそのままにさせてくれた。

「…グラン、こいつが剣崎たち研究員に怯えているようだが」
「…彼女は被害者だよ、ウルビダ。剣崎たちのおもちゃにされた、ただの被害者だ」
「!」

グラン様とウルビダが何か話をしている。けれど私はどうしても白衣の人間たちが気になってしまって、その話を理解することができなかった。
グラン様が私の頭を撫でる。ちょうど真ん中を境にして私の髪の色は半々だ。右が茶色で、左が雪のように白い。しきそ、というものが抜け落ちてしまったらしい。難しい話はよく分からなかった。

「…グラン、こいつの部屋を私の部屋に移せ」
「…珍しいな、ウルビダ」
「煩い。…監視代わりのようなものだ。少なくともあの胡散臭い剣崎に任せるよりずっと良い」
「それは否定しないかな」

そしてその日から私はあの無機質な一人部屋じゃなく、ウルビダと同じ部屋で寝泊りすることになった。今まで一人の部屋だったから最初は戸惑ったけれど、ウルビダは優しかった。言い方は乱暴だし怒ると怖いけど、それでも私を置いていかずに待っていてくれるウルビダは、とても優しい。
他のチームの人たちも、ガイアとは敵対していると聞いていたはずなのに、ときどき話しかけてくれる人はみんな少しだけ私を気遣ってくれた。緑の髪を立てた男の子、たしかレーゼという名前だった彼はどうやら私を知っているらしい。私のお披露目会、という名目でグラウンドに集められた他のチームの子たちの中でも特に驚いたような顔をしていたから。

「…何も、覚えていないのですか」
「?れーぜ、しりあい?」
「…ッ!…いえ、私の、勘違いだったようです」

痛ましそうな、そして少しだけ哀れむような目。そんな彼とはグラン様やウルビダの次くらいにはよく一緒に居たような気がする。あちらが気にかけてくれたのだ。私も、誰かとお話しするのは好きだったからとても楽しかった。レーゼは本当は、少しだけ気弱な優しい子だったというのを知ったときは、何だか嬉しくもなって。

「れーぜ、いいな、おそと」
「…そんなこと無いですよ。俺たちからすれば、あなたたちの方が羨ましくなる時があります」
「そうなの」
「えぇ、地球の言葉にも隣の芝生は青いというのがありますし」
「しばふは、みどり」
「…ことわざですよ。良ければ、貸しましょうか」

少し呆れたようなレーゼから借りた本。小さな子供向けだというその本は、文字は平仮名なら読める私はにも読みやすくて、毎晩少しずつ読んでいた。分からないところはレーゼやウルビダに聞けば良いし、言葉の意味を理解出来る様になると、レーゼが嬉しそうな顔をするから楽しかった。
レーゼとの時間は、短くても楽しくて優しかった。
…だから、そのことを聞かされたときは胸が痛くて仕方なくて。

「ジェミニストームは用済みになった」
「…れーぜ?」
「あぁ。…もう、会えないんだよ、オルガ」
「あえない」

そっか、会えないのか。グラン様に言いにくそうな顔をさせてしまったのがとても心苦しかった。何故か目から溢れる水が、ほとほとと落ちては重力にそって床の上で跳ねる。どうして私は、泣いているのだろう。

「…ぐらんさま、しんぞう、いたい」
「…それは悲しいってことだよ、オルガ」
「かなしい」
「レーゼは君の友達みたいなものだったんだろう?」
「ともだち、れーぜ」

…ともだち、トモダチ、友達。親しい仲のことを言う。そうなんだ、私とレーゼは、友達だったんだ。レーゼの私に対する口調から、敬語が外れたことが一度も無くても。立場が違っても。…あぁ、たしかに私はレーゼと一緒に居ることがとても嬉しかった。
そう思うとなおさら、涙は止め処なく溢れてきて、拭うことも忘れてひたすらに小さく嗚咽をこぼす。グラン様は少しだけ苦しそうな顔をして、私を抱き締めてくれた。

「…ごめん、オルガ」

レーゼに返すはずだったことわざの本はこっそりくすねたタオルで巻いて、部屋のベッドの下に隠した。白衣の人間たちは私がレーゼのことを思って泣くのを良しとはしなかったし、悪いことだと喚き立てていたから。
ウルビダは、そんな私のことを見ないフリで見逃してくれた。









ガイアはいつのまにか、ジェネシスという名前のチームに変わったらしい。
それと一緒に練習の内容が全部変わってしまうらしく、みんなはあの紫の石を取り外されていた。けれど、その中で私だけは石をつけたまま。グラン様に理由を尋ねたら「トウサンの指示だから」と困ったような顔で言われた。そうなのか、それならきっと、仕方の無いこと。
トウサン、オトウサマ、ダンナサマ。あのふくよかな人に向けて、みんなキラキラした目で色んな名前を呼んでいたのだっけ。私は何となくどの名前でも呼べなくて、あの方、という誤魔化すような言い方で呼ぶことにしていた。
そしてそんなみんなが、石を外されたせいで鈍くなった動きに何とか慣れようとしている中、私に与えられた使命はひたすらな調整、測定、調整、測定の繰り返しだった。何でも私の体はとても大切に管理しないと壊れてしまうらしく、いずれ来る敵を倒す日まで一番良い状態を保っていなければならないという。

「ふくおか、いけない」
「あぁ、オルガは留守番だ」

みんなはしばらくすれば、あの苦しい練習のおかげなのか前と同じくらい、それ以上に速く強く動けるようになっていた。そしてその実戦として、敵のところに試合をしに行くらしい。私は駄目だと言われてしまったのが、少し悲しい。
思わずしょんぼりしていれば、グラン様に「オルガは秘密兵器だから」と頭を撫でられた。ひみつへいき。とっても強くてすごいもの。バーンが言ってたから、知ってる。

「うるびだ、わたし、つよい?」
「調子に乗るな」
「……よわい?」
「……弱くは無い。弱いならとうの昔に追い出している」

ウルビダも仏頂面をしながらそう言ってくれたので、何だか自分がちゃんとこの場所で必要とされている気がして嬉しかった。
何も知らない、何も覚えていない真っ白の私。私ですら知らないこんな得体の知れないナニカを仲間のように扱ってくれるみんなは優しい。
だから、そんなみんなの優しさに報いたいと思ったの。

「てき?」
「あぁ、そうだ。我々の敵だ」
「わたしも、でるの」
「…お父様からの指示だからな」

いつもより騒がしいな、と思ったらグラン様に呼ばれて、今からその敵チームとの試合だと言われた。名前も初めて教えてもらう。ライモン。口の中で転がしてみて、妙に心地の良い響きに思わず首を傾げた。どうしてなのだろう。
でも、それにしても嬉しいな、楽しいな。前はそのライモンとの試合に私一人だけ置いていかれてしまったから。今度は仲間外れじゃないんだ。
嬉しくなってウルビダの背中に張り付いていれば、うっとおしいと怒られてしまった。でもそれなのに引き剥がそうとしないウルビダは、結局優しいから好き。ジェネシスのみんなの中で一番一番大好き。そう言ったらこの前、変なことを言うなと真っ赤な顔で怒られちゃったけど。
そんなウルビダの背中を追いかけていつも練習しているグラウンドに出れば、しばらくしてライモンの人間たちがようやく私たちの前に姿を表した。
青と黄色のユニフォーム。
素敵な色だなぁ、と何となく思った瞬間にツキリと痛んだ頭の奥に思わず顔を顰めた。あぁ、とても痛い。

[雷門イレブンの皆さんのために、特別に用意したスペシャルゲストですよ]

痛みに顔をしかめていれば、ライモンたちと話をしていたらしいあの方が私の名前を呼ぶ。前に出ろと言われた。「早く行け」とウルビダに背中を押されて前に出る。ぼんやりとしていたせいで転びかけてしまった。酷いな、ウルビダは。思わず頬を膨らませながら抗議するように睨むと鼻で笑われてしまった。ひどい。
…それにしても、さっきからこちらへ向けて呼ばれる「カオル」とは何だろう。
オレンジのバンダナの男の子が、信じられないものを見るような目で私を見ている。その後ろにいる人たちはみんな、「どうして」とか「何をした」って怖い顔でジェネシスのみんなを睨みつけていた。なんで、そんな目をみんなに向けるの。

「うるびだ」
「…何だ?」
「カオル、て、なに?」
「!!」
「…さぁ、私は知らない」
「そっかぁ」

ウルビダが知らないなら、仕方がない。きっと彼らには理解できても、私には理解することのできない何かなのだろうな。
もう戻って良いよ、とグラン様に優しく言われたので大人しくまたウルビダの背中にしがみつく。そしてこっそりとそこでようやく、我慢していた呻き声を小さく上げて深い息をついた。…さっきから、頭が痛くてたまらないのだ。
まるで頭の内側から何かが、ここから出せと壁を叩いているようなそんな痛み。あのライモンを見てから、ずっと。

「オルガ、FWとDF、どっちが良い?」
「ふぉわーど」
「そうか、分かったよ」

私は何故かこれまで、二つのポジションの練習をさせられていた。グラン様曰く、どんな場面でも確実に勝利できるように、とのことらしい。おかげで、どんなフォーメーションでも使ってもらえるようになったし、何より点を決めてもサポートをしても、みんなが喜んでくれるなら何でも良かった。

「薫!俺のことが分からないのか!?」
「…?カオルって、なに?へんなの」
「っ!!」

試合が始まり、ライモンからの攻撃を止めたら今度は私たちの攻撃だ。最初のトップを任された私が攻めながらいきなり相対したのはあのオレンジバンダナの男の子。一番最初に私に向けて何事か叫んでいた人。そして先程から思うに、カオル、というあの意味の分からない言葉を私に向けているということは、もしやそれは人の名前なのかもしれない。
けれど、残念だ。実に残念悲しいこと。私はそのカオルじゃない。エイリア学園ザ・ジェネシスの一員である、オルガなのだ。

「アンタレス・バースト」

彼を振り切って攻め込み、キーパーに向けて必殺技であるシュートを放つ。何度も練習してきた、私の必殺技。早く戻ってウルビダに褒めてもらおうと踵を返せば、またオレンジバンダナの男の子に呼び止められる。

「目を覚ましてくれ薫…!!俺たちは仲間だろ!?」
「…?ちがうよ、わたしは、じぇねしす」

おかしいな、訳が分からない。ジェネシスの一員である私がライモンの仲間なはずが無いのに。…けれど、彼に仲間だと言われてまた頭がツキリと痛んだ。まるで「そうだ」と応えるようにして痛みが脳を貫く。思わず顔を顰めて今度こそ踵を返した。これ以上は、何か駄目だ。
後ろからの呼び止める声を無視してみんなの元へと歩けば、ふとその途中で襟を立てた白い髪の男の子と目が合う。泣きそうな目をして私を見ている彼は、声には出さないまま唇だけでまた「カオル」と呼んだ。…また、痛い。

「…あたま、いたい」
「…オルガ?」

ポジションに戻った私がウルビダの元に行かなかったのを不審に思ったらしいグラン様が訝しげな顔をしているけれど、私は先ほどから痛みが更に酷くなった頭を拳で何度も殴りつける。…ライモンの人間たちの目の、せいだ。敵のくせに、あんな優しそうな、それでいて哀しげな目を私に向けてくる。そのせいで、さっきからずっと頭が痛くて痛くてたまらなかった。

「やだ、あのひとたち、なんか、やだ」

その一心でボールを蹴る。点を決めようと頑張るけれど、マークしてくるマントの男の子がとても邪魔だった。そのうちに、ベンチにいた男の子が復活して、同点ゴールを決められてしまって。何とか挽回しようと、私は半ば強引にマントの男の子を振り切って駆け上がっていく。…そんな私にかけられる声が、いくつも耳に刺さっては私の頭を射抜いた。


「目を覚ませ薫!!」

「お前はオルガなんて名前じゃないだろ!!」

「一緒に帰ろう薫!!」



「う、る、さああぁぁぁあぁぁあああい!!!!!」

頭が痛い。痛すぎて堪らない。引きつるような胸の痛みまでもが、私の冷静な思考を奪っていく。止めて欲しい。私の知らない名前で、私を呼ばないで。
私はオルガだ。ザ・ジェネシスの一員であるライモンの敵なんだから。

「アンタレス…」

攻撃の構えを取る。こんな煩わしい痛みも声も何もかも、すべてを振り切ってしまうつもりで。簡単なことだ。ライモンが私を仲間だと呼ぶのなら、私がまたシュートを決めてそれを否定してみせればいい。
足を振り上げた。狙い定めたのはライモンのゴール。さっきと同じように、するんだ。ジェネシスの勝利のために、私はただゴールを決めれば良いだけだから。
そんな風に考えながら、私は目の前のボール目掛けて足を振り抜こうと力を込める。
…けれど、それは。


「バース、どッ…!?」


迫り上がってきた嘔吐感のままに吐き出した真っ赤な何かのせいで、不発に終わってしまった。
見当違いの方向に飛んで行ったボールが、遠くの壁をえぐるのが見える。
思わず地面に膝をついて呆然としながら、喉に溜まる不快感をコホリと吐き出した。私の口からベシャリと音を立てて落ちた、赤い物。鮮血。血反吐。…それを認識した瞬間に身体中を襲いかかったのは、まるで身を引き裂くような尋常じゃないほどの激痛だった。

「あ゙、あ゙ガッ!?」

立ち上がることさえままならなくて、思わずその場に倒れ込む。痛い、何もかもが痛い。
内臓が、骨が軋む。体という体が悲鳴を上げていた。目の前が何度も真っ赤になって、その度に喉を裂くような悲鳴を上げて。
…それと同時に、怒涛の勢いでぐるぐると脳裏に過ぎる記憶が、私をさらに苦しめる。…頭の中にいる私と同じ顔をした誰かは、真っ白な部屋の中で泣いていた。
無理やり縛りつけられた椅子の上で注射を打たれて。
虚な目のまま首を横に振れば、何度も頬を打たれて、身体中を痛めつけられた。
頭の中をぐちゃぐちゃにするようにして、呪いじみた絶望に陥るには十分過ぎる言葉を何度も囁かれて。

「…オルガ…?」
「薫ッ!?」

ゆるりゆるりと壊れていったのは、私の心。
手放してしまったのは、大切だった記憶。
…だって届かなかった。何度手を伸ばして助けを求めても、声を枯らして叫んでも、誰も私の手を握ってはくれなかったの。
だから私は楽になる道を選んだ。仲間になれと言う奴らの言うことを聞けば、この痛みからも苦しみからも私は解放される。罪悪感さえも感じることなく笑っていられる。

「た、すけて…」

あぁ、あの時の私はいったい、誰に助けを求めていたのだったか。何度も何度も泣き叫んで口にしたあの名前は、つい先ほどまで欠片ほども思い出さなかったくせに、まるで親しみ慣れた名前であったかのようにするりと声になってこぼれ落ちる。


「たすけて、まもる」
「!!」


…まもる、あぁ、そうだまもるだった。今はもう覚えていないけれど、私にとっては宝物のように大切だったはずの、どこかの誰かの名前。私のヒーロー。いつだって私を助けてくれる太陽みたいな人。
それを思い出した途端に、何だか少しだけ頭の痛みが楽になったような気がした。大切なものを、取り戻したような安堵を覚えた。
…ふと、そんな痛みと苦しみに霞む意識の淵で、誰かに抱き締められていることに気がつく。温かい。温かくて、優しくて、それはまるで泣きたくなるような。
この温もりの持ち主を、私はきっと随分前から知っていたはずなの。

「…まもるは、どこ」

あぁ、今すぐまもるに会いたい。きっと私を心配しているだろうから。追いつくって言ったのに、嘘ついた。随分待たせてしまっているのだろう。だから謝って、許してもらって、そうして今度こそまもるの力になるんだ。

「ごめんな、薫ッ…!!」
「…?なんで、なくの…?」

もうほとんど真っ暗な視界の中、唯一鮮明な聴覚がオレンジバンダナの男の子の声を拾い上げた。泣いている。どうして泣いているのだろう。私は君たちの、敵のはずなのに。
力のほとんど入らない腕を持ちあげて、恐る恐る抱き締め返せば、その抱擁はさらに痛いほどに強まった。…けれどその痛みが何故か、愛おしいと思えてしまうのだ。
安心する。このままなら、何もかも怖いものなんて無いまま眠れそうな気がした。

「帰ろう、帰ろうな、薫」
「…かえる」

…うん、そうだね、帰ろう。帰り道はまだ分からないし、自分で歩ける足もとっくに今は使い物にならなくても。それでも私は、帰りたいと願うよ。
真っ白に塗り潰された記憶の中でも、私にだって帰りたい場所を見つけることは、たしかに出来たのだから。