悪戯心の代償



ほんの出来心だったのだ。
そもそも今回の発端は久しぶりに部活の休みが重なり、たまたまお互い用事も無くて、あと二週間もすればテスト期間に入ってしまうから図書館で勉強しようかという提案もすんなり頷かれたおかげで始まった二人での勉強会。利用者は私たちだけだったのか、周りには人の子一人さえ居ることなく、つまりは二人きり。

「…この式を…ここ?」
「あぁ、そうだ。引っかけで出されることが多いから気をつけろよ」
「…引っかけ嫌いだぁ…」

一応毎日コツコツ勉強はしているものの、文系の私にとってやはり苦手科目の数学だけは大の天敵。そして理系の修也くんはそんな私とは裏腹に数学がべらぼうに出来てしまうため、こうして私は彼に教えを乞うことになっていたのだ。逆は?と言いたいところなのだけど、修也くんは基本全教科優秀な成績を叩き出しているので残念、私の文系力は唸らない。悲しいね。

「できた」
「…あぁ、正解だな」
「ありがとう修也くん…おかげで何とかテストに間に合いそう」
「そこまで苦手な訳でも無いだろ」
「そうは言うけどね、やっぱり難しいものは難しいんだよ」

…それに決して口には出さないが一応私も修也くんの彼女として、苦手教科であったとしてもみっともない点数を出したくは無いのだ。せめて真ん中より上くらいの成績は維持しておきたい。修也くんの彼女は頭が悪い、みたいなことで修也くんの評判を落としたくないしね。

「口に出てるぞ」
「聞かなかったことにして」
「無理だな」

ほ、本当にこういう時は意地悪だなこの人…。こっちを見る顔が既に人を揶揄うような面白そうな顔してるし…。
思わず拗ねたようにそっぽを向けば、修也くんは小さく笑って私の頭を撫でた。…こんなことで絆されてしまう私も私だ。

(…それに、しても)

今のやり取りで修也くんとの距離が随分と近いなとふと思ってしまい、心が思わずそわりと疼く。隣並んだ席で肩が触れ合うほど近くに座っているからか、ここからだと修也くんがとても近いような気がした。
…いや、本当によく見ればいつもより修也くんとの距離が近いね。決していつも私たちの距離が離れている訳じゃないけれど、最近は休みの日も大抵は部活で二人きりでゆっくり過ごしている暇は無かったし、お互いバカップルのように学校という人前で大っぴらにイチャイチャしたがるような性格もしていないのだ。
ふと、私が修也くんを見つめ過ぎていたせいで視線を感じたらしい彼の目が私を捉える。まさか目が合うとは思っていなかった私はあからさまに動揺して、手に持っていたペンを落としてしまった。慌てて立ち上がる。

「何をしてるんだ…」
「えと、ちょっと、考え事してて」
「何だそれ」

椅子の後ろに落ちたらしいペンを取るために蹲み込んだ私の頭上から、可笑しそうな声が降ってくる。仕方ない、とでも言いたげな含み笑いのその声音はあまりにも甘く、そして優しかった。
…あ、駄目だ。これは、ちょっとスイッチが入ってしまう。いや、スイッチとは何のスイッチかと言われても小っ恥ずかしいことに私が修也くんに甘えたくなるスイッチだとしか言えないのだが、よりによってこんな時に。しかもここは二人きりとはいえ学校の図書館なのに。

「…」

…でも、今は二人きり、なんだよね。しかも随分久しぶりの。前に休みが被ったのは一ヶ月前だったし、そのときから結構日にちが空いてしまっている。
なら、少しくらい甘えたくなったって誰にも怒られないのでは?だって今は二人なんだよ?ここには誰もいないんだよ?
…最初にも言った通り、これは私のほんの出来心だった。だからうるさく高鳴る心臓の音が修也くんにまで聞こえてしまうのでは無いか、という要らない心配をするほどに緊張しながらも私は彼の背後からそっと顔を寄せる。
集中しているせいで私のそんな行動に気がついていないらしい、難しそうな顔で数字と記号だらけの問題に取り組む修也くんの横顔を見つめながら私は彼の名前を静かに呼んだ。

「…しゅうやくん」
「あぁ…どうし」

修也くんの左頬の上で鳴ったのは、意識しても聞こえないくらいの小さなリップ音。軽く押しつけるようにして口づけて、私は恐る恐る修也くんを窺う。その途端、思考停止したように固まってしまった修也くんが取り落とした、シャープペンシルの芯の先が机の上でポキリと折れて跳ねるのを目にしながら、私はどもるように口を開いた。

「…ちょ、ちょっと、お手洗いに行ってくるね」

修也くんが何も言わないことを良いことに、私は燃えるように熱くなっているであろう顔を両手で覆いながら図書館を後にする。思わず早足になってしまった。駄目だ、ちょっと熱を冷やそう。こんな邪な気持ちで勉強だなんて、わざわざ付き合ってくれた修也くんに申し訳…申し訳…な…。

「なんで追いかけてくるの!?」

背後から私の足音に合わせて別の猛然とした駆け足の音が聞こえてきたなと思い振り向けば、そこにはやけに据わった目で私を追いかけてくる修也くん。いったいどうして。
とりあえず私は内心パニックになりつつもスピードを上げた。ここで捕まるわけにはいかない。あれは何かしらの報復を考えている顔。…それに、その目がまるで獲物を前にした狩人のように本気だったから。
幸いなことに短距離走のタイムは未だ私の方が僅かに修也くんよりも早い。それに加えて、今求められているのは逃げ切れる持久力。これは…勝てる!
案の定チラリと後ろを振り向けば、修也くんの姿は既に無かった。ほらね、今の私なら修也くんを振り切るなんてそんなのお茶の子さいさい…。

「捕まえたぞ」
「なんで」

背後に姿が無いのを安心しながら前を向いたら、何ということでしょう。後ろにいたはずの修也くんが何故かいる。慌てて方向転換をしようと試みたものの、その進行方向に突き立てられた腕にそれは阻まれることになってしまった。背後からも音がしたので逃げ場はきっと無い。そんな顔を真っ青にした私に、修也くんがやけに低い声で耳元で囁いた。

「…逃すと思ったか」
「ひえ」

今の気持ちはまるで狼に追い詰められた兎。修也くんに迫力負けして思わず壁伝いにへたり込めば、それに合わせて修也くんも一緒に蹲み込んでくる。もちろん、彼の両手は壁のように私の退路を絶ったまま。思わず身を縮こませながら、追い詰められてしまった現状に思わず泣きたい気持ちを堪えて恐る恐る口を開く。

「な、なんでこの場所が…」
「考えれば大体分かる。円堂と逃走ルートが同じだ」
「双子の神秘!!」

守、嬉しいけど別にこんなところでそんな奇跡が出なくても良いじゃないか。おかげで私の逃げ場は完全に絶たれてしまっている。というか、修也くんに追いかけられるなんて一体何したの。
ここで修也くんと目を合わせれば一環の終わりだと俯いたまま、何とかここから逃げ出す術は無いものかと必死で策を巡らせていれば、そんな私の様子を見て修也くんが呆れたようなため息を吐いた。それを聞いて私はびくりと肩を震わせながら恐る恐る尋ねる。

「…怒ってる?」
「…怒ってるように見えるのか」
「うん」
「…二人きりで我慢してたのがお前だけだと思うな」
「え」

その言葉に思わず顔を上げてしまう。…そして、上げてしまったことを一瞬で後悔した。目を上げた先、やけに熱の篭った瞳と至近距離でかち合わせて、ただでさえ熱い体温がぶわりとさらに上がるような感覚に陥った。
思わず固まって身動きさえ忘れてしまったかのような私をしばらく見つめていた修也くんは、少し可笑しそうな笑いを噛み殺しながら不意に私の右頬に唇を寄せた。そのまま何度も目元に口づけられて思わず声にならない悲鳴を上げた私に、修也くんはますます蕩けた瞳を向けてくる。

「言っておくが、先に手を出したのはお前の方だからな」
「ま、待って、たいむ、たいむ」
「誰が待つか」
「ま」

「待って」という私の最後の抵抗の声は結局言葉になることなく、虚しく空気に溶けて消えた。
その理由を話すのは正直言って私の羞恥心という羞恥心が耐えきれないから是非とも遠慮したい。…まぁ、とりあえず二十分後の私がヘロヘロになっていて、やけに満足げな表情をした修也くんが見られたとだけは言っておくことにする。