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別に、海賊が嫌になった訳では無い。

陽気な仲間と飲む酒はどんな名酒にも勝る美味さであるし、背中を預けられるのはこの船の連中だけだ。第一、ここ以外に居場所なんぞ無いし、作ろうとも思わない。きっと一番強くて、どこよりも優しいおれの仲間。
赤髪海賊団に入ってからの苦節13年ほどを思い返しながら、おれは腰に下げた剣の柄を指で撫でた。握りなれたその剣は、いっそ切なくなるほど身体に馴染む。

脚を外に出して船の縁に腰掛け、頭上にそびえるレッド・フォース号のシンボル、赤い船首を見上げた。牙を向いたその竜は、よく見ると存外かわいい顔をしている。こいつとも、本当に長い付き合いだ。


「…金波銀波も飛沫に変えて、おーれたちゃ行くよ海ぃの限り……」

竜へ頭を預け、幾度となく唄った舟歌を口ずさんだ。ぷらぷらと遊ばせる足の下には、白い波飛沫が跳ねている。それを目で追っていると、後ろから歩いてくる気配がした。その足音の主が誰なのか見なくても分かる程には、おれはこの一味と共に長い時を過ごしている。


「…偉く感傷的じゃねェか」

愉快げな低い声が、静かな甲板に響いた。波飛沫から目を離して振り返って、声の主を見る。ほら、思った通りだ。

「ベックマンさん」

顔に十字の傷をこさえた精悍な男が、目を細めておれを見ていた。挨拶がわりに緩慢に片手を挙げる。常ではないおれの放漫な動きに、ベックマンさんは少し片眉を上げた。

「落っこちるぞ」
「…まさか。落ちねェよ」
「飲まねぇのか。珍しいな」
「あァ、気分じゃ無ェんだ」
「…柄にもなく、なーに黄昏てんだ?ケイレブ」

縁に頬杖をついて此方を見上げるベックマンさんの視線を避けて、おれは俯いた。頭の切れすぎるこの人の目を、今は真っ直ぐに見れない。船の肌を打つ白波に視線を落としたまま、おれは喉の奥から声を絞り出した。

「旅に、でようと思う」
「…ほォ?」

ぽつりと呟くと、訝しげな声が返ってきた。そりゃあ、海賊やってる時点で、毎日が旅の連続みたいなもんだ。そこから更に旅立つなんざ、おかしなことを言っている自覚はある。

「心頭滅却のためさ」
「…へェ。そりゃあ難儀だな」
「別に永遠にって訳じゃない。ちょっとの間な」
「…お前の何処に、滅却するほどの煩悩があるってんだ?宝にも大して興味が無ェ、女も抱かねェ……お前、不能だって噂があるの知ってるか」
「ああ、ウン。ルウさんに言われ続けてるよ」

さて、ベックマンさんはこのようにおれを無欲だと評してくれているが、それは大きな誤りだ。…おれは煩悩まみれのままこの船に乗り続け、幹部とまで称されて、新世界に名を轟かす赤髪海賊団として生きてきた。つまり裏を返せば、十数年もの間この海きっての頭脳の持ち主にも己の欲望を隠し通せてるって訳だ。

これは中々に誇れることである。達成感に思わず苦笑しながら、おれはベックマンさんを見下ろした。

「お頭に話をしてくる」
「ああ?……おい、ケイレブ。本気なのか?」
ひょい、と甲板に降り立ちながら、おれはなんてことの無いように言った。
「別に、ここを抜けるわけじゃない」
「…前例が無い。頭がなんて言うか分からねェぞ」
「もう決めたんだ」

腕を掴んで引き止めるベックマンさんの手を、もう片方の手でゆっくり退けた。我らが頼れる副船長、おれが17歳の時にお頭に拾われて以来、ずっと共に船に乗り続けた人だ。
それなのにベックマンさんは、まるで知らない男を見るような目でおれを見ていた。申し訳なさに、少し胸が詰まる。

「…ケイレブ」

戸惑うベックマンさんに、自嘲じみた笑みを返す。

「悪ィな。…さて、お頭はまた宴かな」

微かに聞こえてくる笑い声とグラスのぶつかり合う音を頼りに、おれは甲板を後にした。





食堂の扉を開けると、あっという間に聞き慣れた喧騒に包まれた。広い部屋には長机が三つ程鎮座している。今は机の上で踊っているもの、床で寝そべるもの、誰も彼もがグラスを掲げて酒を煽り、お祭り騒ぎだった。
お頭は、喧嘩やら政治やらなんぞより何より宴が大好きだ。さて、今日はなんの名目の宴だったか、多分誰も分かっていないだろう。

「あっ、ケイレブさん!何処行ってたんですか!」
「ケイレブさあん、飲まないんですかあ!また飲み比べしましょうよう!」
「はは、馬鹿野郎、勝てねェ勝負は仕掛けるもんじゃねェよ」

絡んでくるクルー達にひらひらと手を振ってやり過ごしながら、一層賑やかな真ん中の机へ視線を動かした。
予想通りの場所に、お頭はいた。大きな樽の器を握りしめながら、隣のヤソップさんと大笑いするお頭の姿を見て、ぴくりと自分の指が痙攣するのが分かった。もう何回こうしてきたか、大袈裟に早打ちする鼓動をいさめるために、大きく深呼吸した。

ふう、息を吐いて、真っ直ぐ彼の元へ向かう。大騒ぎしていたクルーの一人が、おれの顔を見てビシリと固まった。変な顔してたかな。慌てて笑顔を作って、まだ新入りのそのクルーの頭を撫でる。髪を掻き回されたそいつは、「ひええ、すんません」と恐縮したように頭を下げた。
強く握りしめていた手のひらは、冷や汗をかいていた。

まず、ルウさんがおれに気づいた。

「おお、ケイレブ。何処いたんだ?肉は食っちまったぜ」
「ああ、うん。良いよ腹減ってねェんだ」

緩く首を振って、机越しにお頭の正面に立った。空の樽が、大量に机に転がっている。酒を煽っていたお頭が、横目におれを見てニッと笑った。
心臓が、握りしめられたかの様にぎゅっと詰まった。

「よお、ケイレブ。飲んでるか?」
「いんや、一滴も飲んでないんだ」
「なんだ、勿体ねェ!西の海の酒だぞ。お前も好きだろう」

きょとんとした顔のお頭に笑みを返して、おれは椅子に腰掛けた。三本の傷が走る見慣れた顔を、真っ直ぐに見据える。
一度、大きく深呼吸をして。ぴしっと背筋を伸ばして、おれは口を開いた。



「…お頭。暫くの間、船を降りようと思う」
「…………」

賑やかな声が響き渡っていた食堂が、水を打ったように静かになった。キーンという沈黙の音が、緊張とともに走る。クルー全員が、息を止めておれとお頭に注目していた。
お頭の顔から、笑みがきえた。膝の上で握った拳に、じわりと汗が滲む。お頭の隣のヤソップさんも、おれの横に座るルウさんも、食うのをやめておれを凝視している。

「……意味分かって言ってるのか?」
「ああ。……何も、この一味を抜けたい訳じゃない。ほんの……暫く、別行動をしたいってだけだ」
「訳を聞いてもいいか」

静かなお頭の声に、感情は読み取れない。「おいケイレブ、」と言ってヤソップさんが身を乗り出そうとするのを、残った右腕が止めた。
おれは、ひゅ、と息がつかえるのを感じた。……さて、ここからが勝負だ。




おれが、この船を降りたい訳。

それはひとえに、おれが、四皇赤髪のシャンクスに懸想しているからである。彼は、おれにとっての船長であり、恩人であり、剣術の師であり、そして当時17歳だったケイレブ少年の初恋の相手であった。
出会って13年、三十路を迎えたおれは未だに初恋の灯火をうじうじと燻らせ続け、喧嘩より何よりも、この感情を隠すことが上手くなった。それこそ、頭の切れる副船長にさえ勘づかれないほどに。

…しかし、これから先の時代はどうだろうか。赤髪海賊団は、二年前のマリンフォード頂上戦争に乗り込み、戦に終止符を打った。おれも勿論参戦し、一時代の終焉と、新たな時代の始まりをこの目で見届けた。
あれから、二年。世界は大きくうねり始めている。お頭は間違いなくその渦に身を投じるだろう。四皇という地位が、赤髪のシャンクスの首を掴んで離さない。

何より、お頭が麦わらを託したルフィが完全復活したというのが大きかった。あいつは間違いなく、時代の歯車を回す男だ。二年間うじうじ悩んでいたが、麦わらの一味再集結という報道が、おれに決心させた。
時代の寵児の傍に、薄汚れた欲望を持った者など不要だ。自船の船長に懸想するような軟弱者は、待ち受ける極限の戦いの中、きっと無様に命を落とす。
そう思ったから、おれはこの感情を消し去るため、しばし船を降りることを決めたのだ。


……という事情を、勿論お頭に言えるはずもなく。
あれだけ飲んだ酒は何処へ消えたのか、酔いを微塵も感じさせない怜悧な瞳で、お頭はおれを射抜いていた。散々隣で見てきた、静かなときのこの人の冷たい恐ろしさ。自分に向けられる日が来るなんて、思ってもみなかった。
おれは震えを抑えながら、口を開いた。

「……ちょっと、自分の殻を割りに。…だから、その…割れ次第戻ってくる」
「…おい、歯切れ悪ィぞ。ケイレブ」
「らしくねェなあ」

痺れを切らしたヤソップさんとルウさんが立て続けに苛立った声を出した。…しょうがねえじゃねえか。一番肝心なとこを、死んでも隠さなきゃならないんだから。
ふう、とお頭が息を吐いた。鮮やかな赤髪を、所在無さげな右腕が後ろへ撫で付ける。

「……お前が仲間になって、もう10年以上か。今年で30だったか?」
「…ああ」
「もう、そんなになるのか」

お頭が凪いだ声でそう言ったのに頷いて、おれは腰に帯刀した剣の柄を撫でた。お頭がくれた剣だ。剣術も、体術も、海で生きる術は全部この人が教えてくれた。
そんな人に惚れてしまった自分が情けなくて情けなくて、不意に目頭が熱くなった。泣くなんて餓鬼みたいなこと出来るはずも無く、おれはゆっくり瞬きをして涙を押しやった。

…お頭は、柔らかく微笑んでいた。驚いて、おれは目を見張る。
……ああ、あんたって人は。


「いつまでも子供だと思ってたが、お前も男だ。………必ず、戻って来いよ」

「……あーあ…良いのかよ?」
「…ま、仲間の言うことだ。信じるしかあるめェ!」

呆れたようなヤソップさんも、食事を再開したルウさんも、既に笑顔だ。はぐらかしたままのおれの返答に、納得しているはずは無いだろうに。
おれは立ち上がって、がばりと頭を下げた。

「……面目ねェ…!!」
「…顔を上げろ。まあ、折角の男の船出だ。酒でも飲め」

何も聞かないでいてくれる、優しいお頭の声に、おれは頭を下げたまま首を振った。これ以上、この人のぬくもりに甘えてはいけない。

「…男が一度、船を降りると言ったんだ。落とし前つけるまで、この船でお頭に甘える訳にはいかねェ。すぐに発つ」
「えっ、もう?」
「ああ」

すっかり覇気の抜けたお頭が、素っ頓狂な声を出した。おれは頭を上げて、きっぱりと頷いた。今酒を飲んだら、きっとずるずると引き伸ばしてしまう。お頭は眉を下げて、寂しげな表情になった。

「酒の一杯くらい良いじゃないか」
「……お頭、ケイレブはそういう男だろう」

いつの間にか食堂へ来ていたベックマンさんが、お頭の肩をぽんと叩いた。お頭は、そうだけどよ、と口を尖らせる。端正な顔に似合わぬあどけない表情を見て一々高鳴ってしまう、自分の心臓を斬りたくなった。

「ケイレブ、小舟をひとつ出しといた」
「……ありがとう。ベックマンさん」
「ちいせぇ船だが、お前なら問題無いだろう」
「ああ」

こんな軟弱者のおれであるが、赤髪海賊団の幹部の位置付けだ。大抵の海に怖いものは無い。ベックマンさんの後に着いて、食堂を出た。息を呑んで固まっていたクルーたちも、戸惑いながらもぞろぞろと連なってきた。
お頭は渋々といった様子で着いてきながら、歩くおれの肩に右手を回してきた。頭一つ分はゆうに大きいお頭に引き寄せられて、おれの身体は黒いコートの中にすっぽり収まった。

「…暫く見れねェからな。顔拝ませてくれ」
「……なんだ、そりゃ」

真面目な顔でじっと覗き込まれて、おれは耳がじんと熱くなった。…それは、こっちの台詞だ。
月明かりに照らされた鮮やかな赤い髪、痛々しい三本の傷跡、雄々しい瞳。全部が好きすぎてたまらなくなるから、断ち切りたい。あんたと、心からの乾杯がしたい。

「あーあ、お頭はケイレブを愛でんの好きだからなァ」
「中毒症状でるんじゃねえか?」

ルウさんが笑いながら言うのに合わせて、ヤソップさんも肩をすくめた。

「違いねェ」

ベックマンさんが、薄く微笑んで同調した。立ち止まったお頭は周りの声が耳に入らないようで、さらりとおれの髪を撫でた。酒に酔っていなくても、よくこうして頭を撫でられた。おれがこの海賊団に入った時はまだ17の餓鬼で、その時の子供扱いが抜けていないのだろう。見上げた先にある瞳は、自意識過剰かもしれないが、少し寂しそうに見えた。
下に見える海には、ベックマンさんが用意してくれた小舟が一艘浮かんでいた。おれはお頭の手をそっと掴んで、身体から離す。これ以上触れられたら、船を出せなくなりそうだ。
縄ばしごがかけられた船の縁まで行ってから、黙り込んで此方を見るクルー達を振り返った。

「…我儘を、受け入れてくれてありがとう。…おれは、もっと強くなって、必ずこの船に戻る」
「…ああ。必ず戻れ」

深く頭を下げて、おれはそう言った。お頭が柔らかく笑う気配がする。

「達者でな、ケイレブ。電伝虫は持ったのか」
「ああ。…前にもらった、お頭のビブルカードもちゃんと持ってる」

荷物の入った麻袋を持ち上げベックマンさんに頷いて、おれは船の縁に飛び乗った。

「…お頭、ありがとう」

真っ直ぐお頭を見て礼を言って、おれは縄ばしごを降りた。


小舟に乗り込むと、頭上から様々な声が降ってきた。見上げると、レッド・フォース号の縁にクルーたちが押し寄せて、思い思いの声援を叫んでおれに手を降っていた。なんと、泣いている者もいる。
大きく振り返しながら、一番前にいたお頭を見た。…お頭は、笑っていなかった。ただ感情の読めない静かな表情で、おれを見ている。ぐ、と胸が詰まった。

恋心の消し方も、お頭への感情を忘れる方法も分からないけれど、おれはもう船を降りてしまったんだ。後戻りは出来ない。
段々小さくなるお頭を、おれはじっと目に焼き付けた。


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