「あ、」
暗がりの深海を進むポーラータング号の廊下で、シャチがぽつりと声を漏らした。まばらにいた幾人かのクルーと同じく、ローはシャチの方をふりかえった。
そしてその手に掴まれていたものを見て、一気に心臓の底に鉛が溜まったような心地になる。
大きな黒い羽根。
潜水艦であるポーラータングに、鳥の羽根が落ちることはまず無い。ふわふわと空気になびくそれがどこから…誰から落ちたかなんて一目瞭然だった。
「……寄越せ」
「キャプテン…」
掠め取るようにシャチの手からそれを抜き、ローは己のデニムのポケットに決して折れないようにしまい込んだ。
取っておいたところで、どうにかなる訳でもない。ただ、捨てるなんてことも出来るはずがなかった。
自室に戻り、机の上に置いたビンに羽根を差し入れる。
手の平を超えるサイズの羽根はビンには収まりきらず、ふわふわとその毛を揺らしている。中には既に数本の黒い羽根が入っていた。
椅子に腰かけ、電灯に照らされるその黒々とした落とし物≠見つめる。
チェンバーズ・リバーがローの元に残していったのは、この数本の羽根だけだった。
シャボンディを逃げるように出航してから幾日目。ポーラータング号の空気は依然重く、沈んでいた。
黙っていても目を引く華やかさのある男だったから、いなくなった消失感が大きい。それに一番年下のクルーを、皆弟のようにかわいがっていたから。
羽根の持ち主である、黒々とした一角天馬の姿がローの脳裏に鮮明に思い起こされる。
なめらかな毛、豊かなたてがみ、柔らかな翼。
心から信頼されていることが伝わってくるグレーの瞳。
続けざまに、消える寸前こちらを見て安心しきったようにほころんだ表情がフラッシュバックして、ローは静かに目を閉じた。
…助けてやれなかった。
誰に言うでもなく、声にするでもなくそう噛みしめる。
詮の無いことだとは分かっているが、あと少し気づくのが早ければROOM≠ヘ届いていたはずだ。あの寂しがりな部下を一人きりにしてしまうことも無かった。あの地下牢から連れ出した時、“命を預ける”と言われたのに。
「ロー」
突然聞きなれた声に呼ばれたような気がして、はっと顔を上げた。しかし、急ぎ振り返った先には自室の扉が静かに佇んでいるだけ。
「……は、幻聴とは。おれもヤキが回ったな」
医者がこのザマでは、散々世話になった医学書の山に顔向けができない。酷く落胆している自分を自覚しながら背もたれに身体を倒し、帽子を顔に乗せて目を閉じた。
少し掠れた音をした、だが透明に澄んだ耳馴染みの良い声。別にしみじみと自覚していた訳でも無かったが、どうやら自分はリバーの声を好んでいたらしかった。
何故そんなことに気づいたかと言えば、離れてからこっちあの声が恋しくて仕方ないからだ。
拗ねる声も、笑う声も、全部。
次の朝、ハートの海賊団はクルーを1人欠いたまま、いくつか保管していたエターナルポースを頼りにとある春島に停泊した。
青空に覆われた陽気な気候とは裏腹に沈んだ空気のクルー達が甲板に集まる。その雰囲気を取り繕うように、シャチが明るい声を出した。
「ほら、探索の第一歩は聞き込みだろ!イッカクが集めてたリバーの手配書使ってさ、とりあえず色んな島の奴らに聞いて回ってみるってのはどうよ!」
賛成、賛成、と拳を上げたクルー達は、各々リバーの手配書を懐にしまい込んで島へと繰り出した。
「ほら、キャプテンも!」
「……」
ベポに差し出された一枚の手配書を、重たい手で受け取る。世界政府がつけた金額などリバーには見合わない。
だが、この紙切れだけが、ローの手元にある彼の顔が写ったものだということも事実だった。
顔をしかめて見つめた先、長い黒髪をかきあげたリバーが写真の中からこちらを見返している。ローと目を合わす時はいつだってくるくると変わっていた表情が嘘のように冷えきった、尖ったナイフのような顔。
「…つまらねェよな、リバー」
何処にいる?何を考えてる?怪我はしてないか、1人で凍えてやしないか。そもそも───本当に、生きているか?
心臓が冷水に浸かったような感覚に襲われる。無事に生きていると結論付けはしたが、それでも、分からないものは分からない。
あの雪の降りしきる日、大きな箱の中。最期のあの人の笑顔がフラッシュバックする。また、大切な人間の命を失うことになってしまったら。
「キャプテン、とりあえず街行こ!船も直さなきゃだし!」
手配書を見つめたまま動かないローの背中を、ベポがぐいぐいと押した。栄えた港町の喧騒は膜を張ったようにくぐもって聞こえた。怒ったり笑ったりしながら隣にくっついていたリバーがいない。それだけで妙に景色が色あせて見える。
…そんな風に思う自分に、ロー自身が一番驚いていた。
「よお姉さん、この手配書の奴この島に飛ばされてきてたりしない?」
「はぁ?飛ばされるって何さ……あらやだイケメン。この子あれでしょ?新聞騒がしてた子でしょ?こんな大物この島にはいないよ」
屋台で酒を売っていた女主人に、シャチが手配書を突きつけている。そう簡単に見つかれば苦労しない、と現実を思いつつ後ろを通り過ぎようとした。
「あっそ、邪魔したな。じゃあ…」
「あーちょっと待ってよ、その手配書売ってくれないかい?」
「は?売る?」
「結構高く売れんのよ。ほら、ちょっと前のキャベンなんとかの手配書みたいにさ。【ただし無傷で捕らえよ】なんて物珍しい警告までついてるし…あんたがタダでくれるってんなら良いけど」
シャチが何か答える前に、その手から手配書を掠めとっていた。ローがじ、と見下ろせば女主人が怯えたように後ずさる。自分でも酷い顔をしている自覚はあった。
「…とっとと行くぞ」
「りょ、了解ですキャプテン!」
「っな、何よ。せっかくなんだから売れるもんは売っちまえば良いのに!」
吐き捨てられたように言われた言葉に目を閉じる。シャチが肩をいからせたのを手で制した。怒りに身を任せるのは簡単だが、無駄なことだ。
「あーあ!おれらからすりゃあただの手配書なのに、値段までつくとは。あいつも難儀な顔を持っちまいましたねえ」
「……全くだな」
「おれが変わってやれたらな~!女の子ナンパしまくるのに…しかしあいつ、あれで本当に女の子に興味無いですよねえ、もったいねー」
シャチがぶつぶつとボヤくのを聞きながら、リバーのことを思い浮かべた。こうしてクルーとリバーの話をするのは、離れ離れになってから久しぶりのことだった。
「飲み屋で女に誘われても一瞥もせんと払い除けますもんね~、信じらんねェ。いや、でもあれで女好きだったらまたえらい事になりそうだな……」
街を歩けば声をかけられるから、リバーはいつもフードを深く被っていた。たまにさらけ出す時もあったが、それは大抵シャチやペンギンが女を口説くための釣り餌になるためだった。
ぶつくさ言いながらも、リバーは楽しそうだった。結局フラれる2人を遠目に見て、よくローの隣で笑っていた姿が脳裏に蘇る。
「…ま、でもリバーが興味あんのは、結局キャプテンだけですよ。そりゃおれらも良い兄弟分ですけど、キャプテンは別格」
未だこぼし続けるシャチがふと真剣味を帯びた声色になったので、足を止めた。
「急になんだ」
「あいつの頭ん中がどんだけキャプテン一色か、多分おれらの方が知ってるって話です。口を開けばロー、ローって……つまり、その、だから──あいつは絶対帰ってきます。あいつの居場所は、キャプテンの傍だから」
息を吐き、目を閉じる。クルー達が自分のことを心底心配しているのは分かっていた。
「……そうだな」
ぱ、とシャチが笑みを浮かべたのを横目に、町の大通りを抜ける。少し外れた道から先は広大な海と青空が広がっていて、その眩しさに目を細める。
新しい島を見る度顔を輝かせるあいつにも、見せてやりたかった。
顔を見て、頭を撫でてやって、そしたらあいつが嬉しそうに笑うから、それから……被りを振って幻想を打ち消した。
「行くぞ」
「了解ですキャプテン!」
一歩、踏み出す。前に進むことで再会の時が早まるような確信があった。
寂しがり屋のあの部下とまた会えるまで。ローは進み続ける。
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もみじ様/リバーのいない日を過ごすロー