重い瞼を押し上げた。
空が青い。なんでだろう。この島はいつだって雪が降っていて、生まれてこの方灰色に淀んだ空しか見たことがないはずなのに。
「リバー、リバー!目ェ覚めたか!?」
聞き覚えの無い男の声が頭上から降ってきて、脳が覚醒した。嗅ぎなれない土の香りがする。よく見れば幾人かの男、と、シロクマ…が横たわるおれを囲む形で座っている。
肝が冷える心地がした。まさか、この状況に気づかねえ程眠りこけてたってのか?いそいで懐をまさぐったが、いつも携帯していたナイフが無い。勢いよく立ち上がり周囲を見渡した。途端に鮮やかな緑と空の青に目が眩み、そしてすぐに気が付く。…弟がいない。
「お、おいそんな急に起きたら…」
「弟はどこだ」
「えっ、弟?」
「ここはどこだ。てめェらは人攫いか?」
「待てリバー落ち着、」
近寄ろうとしてくるキャスケットの男を睨めば、まごついたように動きを止めた。男、男、男…寄ってたかって、ああ本当に、クソ喰らえだ。苛立ちから頭を搔いて、髪がやけに指通りが良い事には気づかないふりをした。
「弟に手ェ出しやがったら、おれァ今ここで舌噛んで死んでやっからな!あいつをダシにすりゃ簡単に足開くとでも誰かに聞いたか?…クソ!クリスの無事を確認するまでご奉仕してやる気はねぇぞ…ああ畜生!おれは、おれは——」
髪を振り乱し、血を吐くような心地で叫ぶ。もう嫌だ、さっきまで弟といたのに、なんでこんな奴らに攫われた?もうずっと、こんな事ばっかりだ。おれとあいつが一体何をしたっていうんだ?
「……チェンバーズ・リバー」
必死の牽制を遮ったのは、腹の底まで響くような、酷く胸を打つ声だった。身体が勝手に息を飲み、目深に帽子を被った男の方へ視線を向ける。人攫いの割には、やけに目を引く男だと思った。
「…な、んだよ、なんでおれの名前…」
「お前、今いくつだ」
有無を言わさない薄灰の瞳に見据えられて、引きつった口が自然に「15」と答えていた。ざわ、とその場が騒がしくなる。「5年も前だ」だの、「出会ってもいねえ」だの。
そのざわめきも、男が片手をあげればすぐに収まった。どうやらこいつがトップらしい。
「お前の国は、今どうなってる」
「は、はあ?そんなん、お前らも見ただろ。いつだって変わんねー貧乏で辛気臭ェ島だ——だからこんな、こんな青空なんか…」
目に差したのは確かに太陽の光だ。年に数回拝めるか拝めないかの…だけど、それほど久しい感覚がしないのは一体なぜだ?
それに、男たちに全くおれと敵対した雰囲気が無いのもおかしい。いや、男だけかと思ったが奥に涙目になった女も1人いた。ますます変だ。
揃いのツナギを着た全員が心底心配そうな表情で、まるでおれを案じているような空気。下を見れば緑の植物が生い茂り、おれが寝ていた場所には丁寧に布団替わりの布まで敷かれていた。
「なんなんだよここ…」
「リ、リバー…」
妙なシロクマが、今にも泣きだしそうにおれの名を呼んだ。なぜ、そんな声で。ズキズキと頭が痛んだ。ふらつくおれに伸ばされた目元まで帽子を被った男の腕を慌てて振り払う。
「嫌だやめろ、触るな!だ、誰だお前ら…クリスはどこだ!」
「キャプテン、こいつは…」
キャスケットの男が気づかわし気に振り返る。
「…ああ。やはり記憶喪失の症状が出ている」
静かな声とともに刀が抜かれる。帽子を被ったその男は、トラファルガー・ローと名乗った。
今、男の手の中にはあれから散々暴れまくったおれの膝から下の両足が抱えられている。そう、脚を斬られたのに痛みもなく、ただ身動きが取れない中、おれの身体は何処かの室内に瞬間移動していた。
何が何やら分からないまま、薬の匂いのする部屋のベッドの上に放り投げられる。壁の本棚には所狭しと背表紙が並んでいて、ますます人攫いらしくないと思った。
窓の外に見えるのは、恐らく海。シロクマが言うにはこいつらの船の中らしい。
ベッドに蹲り両腕で震える身体を抱えた。
目の前に立つ男が恐ろしかった。あの長い刀で、脚が。膝から下は不思議なほど垂直の断面で斬られている。ぬらりと輝いた刃先が目に焼き付いて離れない。
男が一歩こちらに近づいたのに、思わずびくつく。すると持ち上げられた腕が動きを止めて、ひゅ、と息を詰める音が響いた。
「…悪かった。手荒だった」
「よ、寄るな」
「──お前に…そう言われる日がくるとはな」
隈をこさえた瞳が細められる。宙ぶらりんになった大きな手が、行き場を失い降ろされた。酷く強張ったその様子に言葉が詰まる。
一体なんなんだ、この男は。なんでそんな案ずるような真似。それでおれはなんで、こんなにも苦しい?
おれの脚は男によって、丁寧に机の上へと並べられた。なんの痛みも無いままに斬られた自分の四肢を眺めるのは、妙な気分だ。
「ひ、人攫い…じゃねェよな」
問えば、帽子の影になった切れ長の瞳がこちらを見た。端正な男だと、こんな状況なのに素直に思う。
「おれは海賊だ」
「…はっ、嘘だろ?海賊?」
まさか。こんな男が?妙な力は持ってるが態度は横暴でもない、粗雑でもない、この船内だって清潔そのものだ。おれが知る海賊とは似ても似つかない。
「はは、ありえねェ!海賊ならなんであの場で殴ってこなかった?」
「…お前本当に、今までどんな……いや、いい。残念ながら事実だ。いいか、落ち着いて聞け」
デスクに凭れた長身が、眉間に皺を寄せて腕を組む。ただそれだけで絵になる男だった、
「ここは、お前の認識時点から5年後の世界だ。チェンバーズ・リバーはおれ達ハートの海賊団の一員で、この船で共に過ごしている」
「……はァ?」
「この夏島に着いたのは今朝だ。探索途中、クルーの一人が踏んづけた妙なキノコが吹き出した煙から…お前が、おれを守った」
大きなため息を吐き、椅子に腰掛けて脚を組んだ男がじっとおれを見つめた。この男は一体なんの話をしてる?キノコ?おれがこいつを守った?
探るように見返したが、変わらない無表情は嘘をついているようには見えない。
男の長い腕がおもむろに机の上の本を掴み、ベッドの上にそれを広げた。図鑑のようだった。椅子を引きずりベッドに近寄ってきた男と距離が縮まる。見知らぬ相手には到底許せない距離感だ。
いつもなら絶対に飛びのいているのに、身体が全くいうことを聞かない。
気が付けば、むしろ前かがみになって帽子の下を覗き込んでいた。ぱっと顔を上げた男と目が合う。
濃い灰色の瞳に自分の顔が映った。
こんなにも目と鼻の先に、知らない男がいる。それなのにもう、身体の震えは収まっていた。
暫く見つめあった男が少し…多分だけど困ったように、ぱちぱちと瞬きをする。…なぜ、ちっとも怖くないんだろう。
「…続きを話すぞ」
冷たい声質なのにあたたかく聞こえるのが不思議だった。頷きを返せば、刺青の彫られた長い指が広げられた本の一角を指す。
「そのキノコだが…色、形状、すべてこの図鑑にあるこいつと一致する。正しく調理すれば薬になるが、刺激を与えてしまえば記憶障害を引き起こす。ニガヨモギを煎じて飲めば数時間で症状は回復することが多い」
聞き心地の良い声が淡々と話すのを、咀嚼する。
記憶喪失。おれは今、こいつらと海賊をやっている、と。さっきまで室内にいたシロクマたちは、男の指示で退室していた。
「分かった。なら、その薬を飲めばいいってわけな。ここにあんのか?」
「…ああ。もう煎じてある」
「寄越せ」
「…意外だな。信じんのか?お前は今…」
「だって、あんたの説明通りじゃなきゃおかしいことが多すぎる。おれはあの島から出たこともねェのに変だろ。それに…こんなに成長してんのも、変だ」
全く見覚えの無い服に、そしてつけた覚えの無い筋肉。殆ど骨と皮だった身体は見違えるように成長していた。時間が飛んだとでも言わないと、これは説明できない。
「話が早くて助かる。…何年巻き戻ろうが、お前はお前だな」
ぽつりと零し、もうおれが暴れないと分かったからか、男は机にあった脚を取りベッドの隣にひざまづいた。
大きな男の手が太腿に近づいてきて、思わず身体が跳ねた。恐ろしくなくなってもこれだけはどうしようもなかった。だって、海賊はいつだって——。
「…脚を戻す。…触っていいか?」
「あ、いや、自分でやる」
「分かった」
自分で脚を支えれば、男がその片割れをぴたりとつなぎ合わせて、斬られたはずのそれが何事もなかったかのようにくっついた。
戻った足を半ば呆然と動かしていれば、男は実に自然におれから距離を取った。
…まるで、おれが怯んだ理由を知っているかのように。
「ちょ…っと待て。おれ、あんたにどこまで話してるんだ?」
信じられない心地でそう尋ねた。この大人の男に、未来の自分が何もかも話すとは到底思えない。
たとえ仲間だとしても、ありえない。こんな、心の奥の奥にしまい続けているこの濁りきった記憶の数々を誰かに言うなんて。
「本当に聞きたいか?」
机にもたれながら、男は静かにそう問いかけてきた。ばちりと目が合った途端、2人して深い海の底に落ちたような心地になった。それほど静かな空気を男が纏っていて、多分そこに立ち入ってはいけないのだと本能的に分かった。
この領域は、本来ここにいるはずのおれと、こいつだけのものなのだと。
「い、いや…やっぱいい。ああ、そうだ、クリスは?おれの弟は——」
かぶりを振ってまた質問を重ねて、そして気付く。
「……そうだ…そもそもあいつがいたら、おれんとこに真っ先に来て……今だって隣にいなきゃおかしい。だから、あいつはここにいなくて……てことはあの島を出たのは…」
とてつもなく恐ろしい現実が突きつけられる。
なんでこの船に弟がいない。なんであの島を一緒に出ない。
だって、一番外の世界を見たがってたのはあいつのはずなのに。
「…頭が回りすぎるのも、考えもんだな」
吐き出すように言って、男は今度こそこちらに踏み込んできた。手には緑の液体が入った瓶がある。俯く視界に長い脚を包むデニムと革靴が映った。
ギシ、と控えめな音を立てて、男が隣に座る。自分よりも大柄な男がこんなにも近くにいるのに気持ちにさざ波が立たないのは、生まれて初めてのことだった。
弟のことを考えると呼吸が荒くなった。嫌だ、考えたくない。上下する肩を横から伸びてきた腕が包み込む。冷たい風貌の男からは、心地が良くて優しい香りがした。
「息を吐け。お前は何も考えなくていい」
耳元で囁かれて、本当に身体から力が抜けた。こんなにも穏やかな大人の声を聞いたのは初めてだった。逞しい胸元に抱えられて酷く安心する自分を、どこか遠くから眺めているような気分になる。
「薬のんで、寝ろ」
「……本当にそれだけ?おれの何が目的なの…」
「別に、お前は健康でいればそれで良い」
「嘘だ」
「嘘じゃねえ。良いから飲め」
ぐい、と瓶口を差し出されて渋々口に含む。
とんでもなく苦かったが、咳き込むおれを覗き込んでくる男の方が苦々しい顔をしていたのでなんとか飲み込めた。
殻になった瓶があっという間に取り上げられる。そして驚くほど自然に上半身を倒されて、気づけばすっぽりと掛布団までかけられていた。
自分はベッドに腰かけたまま、男がじっとこちらを見下ろしてくる。
「…知らねー奴のベッドで眠れるわけなくねェ?」
「嫌でも寝てもらう」
「あんた……まじで手ェ出さないんだな」
格好の的である自覚はあるのに、布団の中に手が差し込まれることは無い。信じられない思いで言えば、はん、と鼻で笑われた。
「自惚れんな。15の餓鬼襲う程飢えてねェよ」
「そっ…か……変わってんな、あんた」
そう言ってから自分で違和感に気がついた。男が男を襲うって、いやそもそも人が人を襲うのって、多分だけど普通じゃない。ぞっとするような虚しさがのしかかる。
「違うか……あんたが普通で、おれが変なんだな…」
「…いや、お前は変じゃねェ」
被せるように言われて男を見る。男の声は、冷たいような温かいような不思議な色をしていた。
「…周りが普通じゃねえだけだ。お前は悪くねェ」
笑みを消した男が上から真っ直ぐに覗き込んできた。やけに力強く言い聞かせてくるもんだから、今度はおれが笑ってしまった。
「…っはは、なァやっぱすげーモテるわけ?あんたかっこいいもん」
「へェ?お前もそう思うんだな」
胸元まで開いたシャツ越しに見える肌は筋肉質で、イカついタトゥーが恐ろしいほど似合ってて。二連のピアスも何もかもこの男の端麗さを際立たせていた。お前も、ってことは、もしかしてらここにいたおれも言ってた?──そりゃそうだよな。
「…思う。今まで生きてきた中で、一番」
素直に言えば、男が目を細めて口角をあげた。
あ、笑った。今度こそ遠慮なしに近づいてきた長い指が、髪を梳くように撫でる。身体が勝手に安心を覚え、眠気が襲ってくる。
「……ここで寝たら…あんたどっかにいっちゃうの…?」
「どこも行かねェよ。勝手にいなくなったのはお前だ…馬鹿」
うつらと閉じていく意識の中。労わるように頬に添えられた手のひらの感触が無性に心地いいと思った。
大好きな香りが鼻をついて、意識が浮上する。目を開ければ見覚えのある天井が視界に広がっていた。何回か瞬きをしたが見える景色は変わらない。なんだこれ、都合のいい夢?
「…なんで、ローの部屋…」
「起きたか」
デスクに腰かけ何やら難しい顔をしていたローがはじかれたように顔を上げ、足早に枕元に近づいてきた。
「ロー?あれ、おれ…」
「リバー、今お前は何歳だ」
「え、何急に…二十歳だよ、知ってんだろ?」
冷えた手が脈やら熱やらを確認していく。おれ、何してたんだっけ?
やけに暑い島の森の中、ローの隣を歩いてたら誰かが叫んで…そこからの記憶が無い。
「倒れでもしたか?」
「……それだけなら良かったがな。ったく、またおれを庇うような真似しやがって。二度とすんな」
「あー、悪ィ……」
色々察知。あと、その命令は守れねえ。眉間に皺を寄せたローが、ベッドに腰掛けて頬に手を添えてきた。思わず目を閉じてすり寄れば、小さく笑う気配がした。
「…戻ってきたようで何よりだ」
「ん?」
「お前にあんな態度取られんのは新鮮だった」
「え、何?なんの話?」
「別に。後であいつらに聞け」
微笑んだローが帽子を脱ぎ、頭の隣に手をついた。天井を背に影をつくる大好きな顔が傾けられて、胸が高鳴る。うそ、まじ?あんたからなんて珍しい。最高だ。
耐えきれず肩に手を回して頭を起こせば、低く笑ったローが目を閉じた。薄い唇に柔らかく口付ける。
キスする時、顎髭がこすれるのが好きだ。今トラファルガー・ローとキスしてんだって実感できるから。抱きついて引き寄せて、ローをベッドに招き入れた。布団越しに長身の重みが身体に乗しかかる。おれの上から降りようとするその腰を、片脚でホールドして止めた。
「おい……」
「今ちょー幸せだから、そのままそこいて」
「馬鹿、重いだろ」
「重くねェ。嬉しい」
「…ああ、アホが戻ってきやがったな」
半笑いでため息をついたローは、おれの顔の隣りに肘をついて目を覗き込んできた。鼻先が触れ合って、自分の血管がどくどくと暴れ出すのが分かる。
ああ、好きだ、超好き。たまんねー。
「…本当に、今幸せなのか」
ぽそりと言われて、ぱちぱちと瞬きを返した。
「なに今更?当たり前だろ」
「そうか。……なら、どうせならもっと早くあの島に──」
「…どうした?」
「いや、考えるだけ無駄だな」
一瞬眉を顰めたローは、すぐになんでもないような顔になった。大きな手に前髪を撫であげられて、開けた視界に笑みを浮かべたローが映る。
「そうやってお前が笑ってんなら…出会うタイミングは、あん時で良かった」
殆ど独り言のように呟かれた言葉に目を見張る。一体何があってそんなこと思ったのかまるで分かんねーけど、でも。出会えて良かったって、あんたも思ってくれてるってことで良い?
鼻が急速にツンとした。
ああ、弟以外の何もかもを疑っていた昔のおれに聞かせてやりたい。優しい大人に出会える日がくるぜって。多分信じねーだろうけどさ。
おれが泣きそうなのに気がついたローがまた笑う。
誤魔化すように抱きついて、それから「ありがとう」とローの耳元で囁いた。
◾︎
シロクマ様/記憶喪失になってしまうリバー