くちべた

COCO MEMO TEXT

眠ったままの博愛



※付き合ってる設定




放課後の教室、自分と彼女以外クラスメイトは既におらず、窓から差し込む夕日の色が日中の校内を消し去っていた。独特の空気に変わるこの空間で、モブをその場に留まらせたのは彼女のあまりにも唐突なつぶやきと、背中を引く小さな力だった。


「き、き…キスしてください…っ」


誰もいない2人きりの教室に落とされたその声は、モブの思考を奪うには十分すぎた。


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控えめにつかんでいた手のぎゅっと力を込めた感覚が制服越しに伝わってきて、モブは忘れかけていた呼吸を思い出した。止まっていた時間と思考を動かしたそのささやかな主張に心臓が大げさな反応をするものだから、モブは視線を意味もなくさまよわせ肩口に彼女を伺う。心臓の鼓動が一定の間隔で鳴るたびに身体はじわじわと熱を帯びていって、うっすらと手のひらに汗が浮かんだ。視界のはしっこにうつる彼女はいまだにモブの制服の裾をつかんでいる。うつむく彼女の前髪からのぞく、不安げな眉とほんのり赤い頬がどうじにあるその光景に、何故だか喉が熱くなった。
モブはでかけた声を唾に変えて、慎重に飲みこんでから目を瞑る。彼女の視線は床に落とされたまま、自分の心臓の音を聞いた。とにかく彼女に、何か返事をしないと…。ゆっくりとまぶたを上げて、ぎこちなく振り返る。振り返ると同時に裾からほどけた手のひらを、落ちる前につかんだ。

その手のひらから汗ばんだ彼女の、名前の気持ちがわかってしまった気がして、心臓がよけいな音をたてる。


「名前ちゃん…だ、だめだよ」


こちらをみつめていた名前の瞳がゆれる。なんとなく彼女のその反応は予想できていたけれど、目の当たりにしてしまえば今度は瞳からこぼれる涙を想像できてしまい、ぶわっと浮きでた汗が外気に触れて冷えるのを感じ取る。揺らぐ決意も鳴り止まない鼓動も、ぜんぶ彼女が原因だと思えばどうしようもなく締めつけられる。どうしてこんなに苦しくて、大切にしたくなるのだろう。


「ど、どうして?」


モブは自分のようにあまり自己表現を得意としない彼女の、不器用で優しい笑顔が好きだった。けれど、たまに見る悲哀を含んだ表情はどうしてか己の決意や感情を簡単に脆くするものだから、その度に彼女の笑顔を見たいと思った。
今目の前にいる名前の瞳は揺れたまま、涙はこぼれていない。思わずほっとする自分がいるけれど、好意を寄せている相手、しかもモブと名前の関係は恋人同士なのだから、その相手からキスを拒まれて彼女の声は震えていた。モブは握る名前の手から震えが伝わって、先ほどとは違う緊張が名前を襲っているのではないかと考えた。その原因が自分にあると理解しているモブは口を開きかけて、彼女に視線を戻して固まる。
名前はモブに掴まれた手の愛おしさと、溢れ出る不安と最悪の答えを身にまとってすでに許容を超えそうになっていた。いつもは優しく慈愛がこもった瞳は感情に流されるまま涙の膜で隠れてしまっているし、なにより唇をむすんで震える様は自分の想いをうまく表にできない葛藤とたたかっているようで、モブの自制心や決意を大きくぐらつかせた。

もうこのまま何も言わず、彼女の希望を、叶えてしまいたい。

普段から一生徒として当たり前に過ごすモブにとって、学校は当然公共の場である。街で見かけるカップルの公共の場でみせる大胆な行いを、モブは無関心ではいるものの良いものだとも思ってはいなかった。そしてここは、学校は、公共の場であった。襲いくるモラルと己の思考回路が運動会の綱引きのごとく戦い始めたところで、突然掴んでいた手が離れて、彼女が後ろを向いてしゃがみこんでしまった。
驚いて一瞬反応が遅れてしまったが、あわてて声をかけようとモブは名前に近づく。手を伸ばして口を開いたところで小さくズズ、と音が聞こえて、さあっと顔が青くなるのが自分でもわかった。


「あッえっ!?そ、その、ごっ」
「も、っもぶくん、ご、ごめんなさい」


ほぼ反射と言っていいレベルで謝りかけたモブを名前が嗚咽混じりに遮った。「えっ」と声に出してどぎまぎしているモブの耳に、泣くなんて、どうしよう、と小さな声が聞こえてきて、日常察しのいいとはいえないモブでもわかった。彼女は自分が泣くことでこちらを動揺させてしまうことを理解していて、ならばはじめからそうしてしまえば自分の希望は通しやすいはずなのに、何故かそれをしなかった。それどころかモブの否定の言葉にも涙を浮かばせることこそすれ、決して零したりはしなかった。
なぜなら、意味が無いからだ。相手に無理やりしてもらうその行為になんの意味も、ないから。


「名前ちゃん」


そこまでわかってしまったモブの心中は、己の予想と反して凪のように穏やかだった。そこにあるのはこんな自分を想って向けられる、まっすぐな彼女の優しさに対する、暖かくてむず痒い、たくさんの愛おしさ。

しゃがんでいた名前の名前を呼んで肩を自分の方へ引く。突然肩をひかれてバランスを崩した名前が目を丸くさせながら倒れてきて、そのままモブの腕の中に収まった。何が起きたか理解しようと身じろぐ名前の頬に伝う涙のあとを、モブは自分の指先でていねいにぬぐう。

優しくて、だけど戸惑いをふくんだ彼女の声が僕の名前をちいさくこぼす。その声に導かれるようにまぶたを閉じて、蒸気する頬に唇を寄せた。あたたかくて柔らかい感触にどうしようもない幸福を感じて、ああ、こんなことならもっと早く…閉じた視界をゆっくりと開きながら顔を離す。


「今はこれで、我慢して」


ほぼ衝動といっていい自分の行動に顔が熱くなっていくのがわかったけれど、惚けた目の前の顔を見るとその熱が愛おしさとなって膨らんでいく。僕の触れた頬に手を添えた名前ちゃんが眉を寄せて目尻に涙をためて、なのに本当に幸せそうに笑うものだから、僕はもう、まただよ。君のせいで決意がゆれる。困った顔で嬉しそうにする彼女のつぶやきを拾って、僕は指先で自分の頬をかいた。

ずるいよもう、なんて。こっちがいいたいのに。




診断メーカーお題
「キスをねだってみたがだめだと言われたのでふてくされて背を向けていると、後ろから肩を叩かれた。少し間を置いてから振り返ると、今はこれで我慢してと頬にキスをされた。もう、本当にずるい。」





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