くちべた

COCO MEMO TEXT

チカチカの自制心



膝より少しだけ上できれいにそろった赤いチェックのスカートが、揺れを感じるたびにひらひらと細かく翻る。おどるリボンを宿らせ、女の子らしさをたくさん詰め込んだような制服が可愛らしくも上品に思われるのは、おそらく胸の校章の輝きに他ならない。私立聖ハイソ女学園。この辺りでは有名なお嬢様学校として知られ、通う生徒もまた、育ちの良いお嬢様ばかりという印象がすっかり定着していた。


「なんてさあ、そんなのただのイメージっていうか」
「ね。漫画やドラマじゃないんだから」


周りの視線を気にした様子もなく、嫌味っぽくけれど楽しそうに笑う女生徒たちは、身にまとう制服から聖ハイソ女学園の生徒で間違いなかった。彼女たちの言う通りいくらお嬢様学校…さらに女子校であるとはいえ、通う生徒が皆一様にお嬢様かといえばそうではない。厳しく躾けられたであろう雰囲気を持つ生徒も中に入るが、多くの年相応に青春を謳歌しようとする少女たちは近辺の公立高校の生徒たちとなんら変わりなく、それぞれ自身のしたいようにやりたいように輝かしい毎日を送っていた。「まあそうはいっても名前、あんたは貴重な少数派だよ」そう言って隣を歩く少女へ笑いかけるマリに、少女を挟んだ向こう側からチヒロもうんうんと和かに頷く。初めから二人の脈絡のない話についていけていなかった名前と呼ばれた少女が、突然自分の話に移ったことを察して二人の間で素っ頓狂な声をあげた。名前は自身の学校で間違いなく少数派にあたる人間であった。本人にその気は全くないのだが、彼女の友人たちは自信を持って頷ける。いやらしく思われそうな丁寧な仕草も、花のようによく笑う彼女にはとても自然なことに思え、少々世間知らずなところもあるが素直で穏やかな名前をみれば、守ってやらねばならないような気さえしてくるのだから不思議だ。こういう気持ちをきっと庇護欲と呼ぶのだろう。先日見た映画に出ていたハンサムな俳優が言っていた台詞を思い出して、マリは一人微笑んだ。

だからこそ、この大切な友人がマリとチヒロは心配で仕方がなかった。微笑ましさを引っ込め、歩みを止めた名前にならってその場にとどまる。見上げた先に見える看板に書かれた「霊とか相談所」の文字を見て一層不安になる友人たちに、名前はそれじゃあと照れたように手のひらを揺らして別れを告げた。そのままつられてさよならと言いそうになるチヒロの横でマリは慌てたように待ったの声をかけた。


「ま、まって名前!本っ当に大丈夫なんだよね…?そりゃ、私らが依頼して実際に解決するところも見たしお金も良心的で、だからきっと業者としても問題ないんだろうけどさ、でも…」
「う、うん…やっぱり私も心配だよ。あの子は直接会ったわけだしまだわかる。けど一緒に来るはずだった人ってあの後ニュースになってた人でしょ…?」


名前も二人が不安になる理由はきちんと理解できていた。あるとき霊障によって起きた校内のごたごたを、彼女たちが依頼した業者が解決してくれたのを思い出す。驚いたことに解決してくれたのは年下の中学生で、絶対に嫌な思いをしたであろうに女装をしてまで依頼人の悩みに真摯に向き合ったその姿勢に感銘を受けた名前は、それから色々あって彼らのもとに通うようになったのだった。事件解決後、恐らく中学生とともに来るはずであっただろう人物がニュースになっていたのは驚いたが、実際会ってみればとてもいい人で、なにより少年が慕っているのをみてしまえばいつのまにか警戒心はなくなっていた。名前を思ってくれるのと同じくらい、名前もマリとチヒロを大切な友人だと思っている。そんな二人の不安げな表情を見してしまえば、微塵も思ったことはないけれど、友人たちをないがしろにすることなんてできなかった。


「あ、あのね、実はお父さんとお母さんにはちゃんと説明してて、ここに通う許可はもらえてるんだ。そ、それにわたしにはふ、二人がいるので…!」


そう恥ずかしそうに頬を染めて心の内を打ち明けた名前に、思わず面食らった友人たちはゆっくりと脱力した。友達として頼られることにむず痒さを感じたことよりも、名前がそう考えてくれていたことが、単純だが何より嬉しいと思ってしまったのだ。実際のところ不安な気持ちは完璧に拭えたわけではなかったけれど、両親の理解をきちんと得ていることにすこしだけ安心したのは事実だ。大人の理解があるというだけで少女たちの心の重みは軽くなる。それに、とマリは思った。多少お人好しなところもあるけれど、名前だって賢くないわけではない。悪い大人ならきちんと気づくことができるし、彼女の両親の目があるなら尚更大丈夫だろう。名前なりに考えがあって彼らに会いたいと思っているのならそれを邪魔するのは自分のすべきことではなく、それよりも彼女から話を聞いて事情を知っておく方が良いのかもしれない。人に合わせてばかりで自ら進んで何かをしようとする名前は珍しかった。それを思えば、まるで親のような気持ちが湧いてくる。マリは仕方なさげに微笑んで、同じような表情を浮かべたチヒロが手のひらを名前に向ける。そんな二人に心底嬉しそうに笑った名前は、喜びをかみしめたような声で別れを告げ、制服を翻しビルの階段をかけて行った。





ふと時計をみた霊幻は、そろそろかとパソコンへ向かっていた体を椅子の背に預けた。ぐっと伸びをすると軽い音が数回鳴り、やれやれと溜息をつく。そのタイミングでガチャリと扉の開く音がして、入ってきた人物に向かって待ってましたと言わんばかりに声をかけた。


「よう、モブ。お疲れさん」


モブと呼ばれた少年は師へ返事を返しつつも、キョロキョロと何かを探すように部屋を見渡している。「名前ならまだだぞ」と立ち上がりながら教えてやると、一瞬驚いた表情のモブは少し間を空けて「そうですか」と呟いた。上着を手にして出かける準備をする霊幻を横目で見つつ、今日の依頼について何となく考える。部活をしてから向かったこともあり、外はまだ明るいとはいえだんだんと夕暮れに近づいてきている。遅くなれば師が夕飯をご馳走してくれることもあるが、ここ最近は珍しくモブが呼ばれるような依頼が増えており、外食に対して不満があるわけではないけれど自然と家のご飯が恋しくなる頃合いでもあった。ちょうどそんなことを考えていたものだから、霊幻が放った突拍子もない提案にモブが目を瞬かせることとなったのは至極自然な流れと言える。迷惑ではないのだろうかと思う反面、先ほどまで自分が思い浮かべていた人物を心に思って、モブはすこしの期待に喉が鳴る音を聞いた。





たっぷりと湯気をただよわせ、肺いっぱいに広がるどこか懐かしささえ覚える匂いに霊幻は思わず舌なめずりをした。その隣に座るモブも、膝に乗る両手をぎゅっと握りしめ食卓の料理たちに目を輝かせている。テーブルを挟んだ向こう側で、制服の上からエプロンをした名前がこれ以上ないくらい緊張した面持ちで視線を泳がせていた。「ど、どうぞ…!」という彼女の震えた声が聞こえるや否や、ハキハキとした二人分のいただきますと共に食器の音が鳴り始める。何回も咀嚼を繰り返した霊幻が放った「うまい!」という真っ直ぐな言葉に、名前はやっとこわばった顔をゆるめることができた。


時間は少し遡る。依頼を終えた師弟が帰ろうと思った頃には、街はすっかり夕暮れに染まってしまっていた。お腹を空かせて相談所へ戻ってきた二人を出迎えたのは美味しそうな匂いとエプロンに身を包んだ名前で、照れたようにおかえりなさいと笑いかける花の女子高生を目の前に、下心でいっぱいになる大人と純粋なロマンを感じた少年が自然と笑顔になったのは、世の摂理と言えるだろう。

依頼に出かける前、霊幻はモブに「今日の晩飯、名前に作ってもらうか」と言い、言うが早いがその場ですぐメールを送った。師のあまりに迅速な行動力に素直に尊敬の色を浮かべたモブであったが、そういえば少し前に名前が両親から料理を教わり始めたのだという話をしていたことを思い出す。お嫁に出すには必要不可欠だからと両親に言われ、少し気が早いのではないかと困ったようにしつつも素直に習ったものについて教えてくれる彼女を、師匠は腕組みをしながら真剣に見ていた気がする。師匠は僕の気持ちを察したのだろうか。それともただ単に自分が食べたかっただけなのだろうか。両方ある気がしたけれど、まあどちらでもいいかとモブは思った。彼女の料理を食べてみたいという気持ちは師匠と同じだ。自分の作るものなんかで本当に良いのかと困惑する名前に、料理は経験を重ねてこそだと、相談所の簡易的なキッチンで出来るものでいいからなどと適当な理由をつけ、それじゃあぜひ、と返事を受け取ることに成功した霊幻の笑みに、モブはこれから自分がこなすであろう依頼へのモチベーションがぐんと上がるのを感じたのだった。

そして、冒頭へ戻る。エプロンを後ろ手に外す名前をみていた霊幻は止まることのない箸を動かしたまま、ぼんやりと彼女を観察する。丁寧にたたんで自身のそばに置いた名前が霊幻の視線に気づいて、「あっえっと、エプロンはきちんと洗ってお返ししますので…!」と見当違いなことを話し出す。それに小さく吹き出した霊幻が、脱力するように息を吐いた。


「本当、お前みてると箱入り娘って感じがするわ」


力の抜けた姿勢のままそう呟くと、名前はさあっと顔を青くして「わ、わたし、世間知らずに見えますか…」とまるでこの世の終わりと言わんばかりに落ち込んだ。きっと人が違えばまるで天然を気取った台詞に聞こえてしまうであろうその言葉も、彼女が言うと全くもって深刻そうに聞こえるのだから微笑ましく思ってしまう。目の前に置かれた美味しそうなおかずたちを不安そうに見ている名前はおそらく、そう思われた原因が自身の作った料理にあると思ったのだろう。普通の家庭で出される料理を想像して間違い探しに一生懸命になっている。その様子をみながら、こういうところが箱入りっぽく見えるんだよなあと霊幻は口には出さないままおかずを咀嚼した。最近はじめたばりだと言うわりには、丁寧に切られた野菜たちやきちんと味のしみたおかずが、ジャンクフードに慣れてしまった胃に優しく広がるのを感じてひとり感心してしまう。彼女の性格がそのままうつったような料理たちは、何も言わずに黙々と食べる隣の弟子だって満足させるには十分すぎるだろうと思った。


「そんな心配するなって、こんなうまい飯食べたのは久しぶりだよ。俺が言いたいのはお前が本当に大切に育てられてんだなってことだ」
「師匠、行儀悪いです」


言葉の最後で決めるように霊幻が箸で名前を指せば、それを目ざとくみとめたモブが苦言を呈した。こいつ…今の今まで飯に集中してたくせにちゃっかり話は聞いてるんだよな、とモブの口元についた米粒を見つつ霊幻は引きつった笑みを浮かべる。美味しいと言われてほっと肩を撫で下ろす名前は、霊幻の後半の言葉に照れくさそうに居住まいを正した。もごもごと「そ、そう思いますか?」と口にするさまはなんともいじらしい。今度はニヤけだす顔をそのまま晒す隣の師におもわず弟子は眉間に皺を寄せた。三十も近くなった大の大人からしてみれば(自分で言うのも何か悲しいものがあるが)年相応に照れたり笑ったりする子どもは総じて可愛く見えるものだ。しかも女子高生なんていうものは大概は声をかけるのも犯罪と言われかねない針山のような存在と言っても過言ではなく、大人を小馬鹿にしきゃあきゃあと色めく毎日を過ごしている、そんな偏見にまみれたイメージを持っているのだから…まあ、許せモブ。こんな絵に描いたような女子校の少女を可愛がるには十分すぎる理由だろうと、師はじっとこちらを見続ける弟子に心の中で言い訳をした。

そんな素直で微笑ましささえ覚える少女は、自身の親を褒められてひどく気を良くしたようだった。えへへと笑顔になりながらおかわりもありますよ、と目の前の師弟に尋ねる。体格がそれほどいいとは言えないモブも、彼が中学生男児で育ち盛り、さらに部活終わりだということを差し引いても今日は良く食べる。ほしいです、と控えめに差し出されたモブの茶碗をいっそう嬉しそうに受け取る名前に、霊幻は先ほどとはまた別の意味で微笑ましく思った。

名前と知り合ってからしばらく経つが、霊幻はこの育ちの良さそうな女子高生がモブに恋をしていることに気がつくのにそう時間はかからなかった。霊幻からすれば持ち前の察しの良さですぐにピンときたものだが、奥手で自分の想いを悟らせないように必死な名前に恋愛初心者の鈍感な弟子が気付くはずもなく、一向になんの変化もないまま今に至る。正直甘酸っぱい空気をこの相談所に蔓延されるとさすがに参るものがあると思ったが、己が知らないだけでどこかに眠っていたらしい親心というものに火がついた霊幻はこの二人を見守ることにしていた。何より、弟子のどこを好きになったのか問い詰めた際どうして気づかれたのか慌てふためき、しかし真っ赤になりながら観念した名前が懸命に話す様を見れば、街中のいちゃつくカップルをみて沸き立つ殺意のようなささくれ立った気持ちもすっかり浄化されてしまうというものなのだから、仕方がない。

モブの食べる分をよそいに席を立った名前を見送って、霊幻は弟子の視線が彼女を追っているのを知りつつ声をかける。


「モブ、名前に晩飯頼んでみて正解だったな」


そう言われて一瞬視線を斜めに落とし、彼はこくりと素直にうなずく。その様子に霊幻は目を細くして口角を上げた。きっと、モブの頭のなかでは名前の姿が思い出されているに違いないと確信がもてるからだ。霊幻の経験から生み出されるその察しの良さは、流石というべきかあながち間違っていない。モブは普段からあまり感情を表に出すことはないが、それでも目の前に並ぶ料理が名前によって作られたものだと思えば自然と胸が膨らむ心地になり、顔がほころんだ。見えない花がモブの周りを飛んでいるのを霊幻は生暖かく眺めて、本人たちが理解していないだけでこんなにもわかりやすいんだがなあと溜め息をつく。

いつも幸せを着たような笑顔で自分に話しかける名前を、モブは陽だまりに溶け込むような面ざしで見つめていた。やわらかい彼女の雰囲気は知らずとモブの心を落ち着かせたし、部活中に負った怪我をみて顔を青くさせる名前がひどく心配して慌てれば、モブは胸の奥がうずいてふわふわと浮かんでしまう気さえする。もっと彼女の笑った顔が見たいと、そう思ったのはいつだったか。気づけば名前のことを考える時間は増えて、いまでは自身の名前を呼んでくれるその声さえ胸をくすぐるのだから、これを恋と呼ばずしてなんと呼ぶのかわからない。ただ、モブより少し年上の名前にこの想いを告げることよりも、こうして彼女のご飯を食べて話をして、ときに心配してもらうような日常に、まだ身を委ねていたいとモブは思う。師匠が知れば顔をしかめて叱咤しそうな考えだとは思ったが、幸福と呼ぶにはじゅうぶんすぎるこの日々を手放そうとも思えなかった。

しかし、モブのご飯を片手に戻った名前へ放った師の一言によって、モブの考えは一瞬で弾け飛んだ。


「なあ名前。明日の晩飯、うちで作ってくんねえ?」


きょとん顔で「えっ霊幻さんのお家ですか?」と瞬く名前の声なんて、今のモブには聞こえていない。お茶碗を受け取った姿勢のまま固まるモブに、霊幻はこっそりとほくそ笑む。現状に満足しているモブの心情など手に取るようにわかっていた。二人を見守ろうと思ってはいるが、黙って何もしないでいる性ではない。どう考えても進展しそうにないこの関係をつつくくらいバチもあたらないだろうと、霊幻は親心半分面白半分でちゃちゃをいれた。もちろん己の家で作ってもらおうなど本気で考えてはいない。冷静に考えれば女子高生を遅い時間に家に上げることなどありえないのだが、あまりにも唐突なこの提案はほぼ確実に隣で固まる弟子を焦らせるに違いなかった。制服のポケットからスマホを取り出して何やら確認しようとする名前の目の前で突然立ち上がったモブをみて、霊幻は己の作戦が功を成したことを確信する。


「名前さん」
「へ…っ?!」
「お、おいモブ?」


だがしかし。名前の手首をがしりと掴んだモブに、名前は顔を一瞬にして赤く染め上げ霊幻は思わずにやけ面を引っ込めた。思っていた数倍の行動力で名前を引っ張り出したモブは、そのまま相談所のドアを開ける。え、え、と困惑した名前の顔を最後に相談所は静かになった。止める暇もなく出ていった彼らに霊幻は頭の後ろを乱雑にかいて、やれやれと苦笑した。まさかモブが外に連れ出すような真似をするとは思わなかったが、まあ結果オーライというやつだろう。まだ温かく優しい香りをさせる食事に再び手を伸ばす霊幻は、じきに戻ってくるであろう二人の子供たちを思って一人笑った。





「も、モブくん待って…!」


息も絶え絶えに言われた言葉に、モブは動かしていた足を止める。握られた手首はそのまま肩で懸命に呼吸を繰り返す名前をみて、徐々に冷静になってきた。いったいどうしてしまったのだろう。突然師匠が変なことを言い出すからだ。本当に急なことだったから、何故か彼女が師匠のものになってしまうのではないかと一瞬本気で思ってしまった。きっと名前さんも驚いたに違いない。楽しくみんなでご飯を食べていたところだったのに、その雰囲気を自分が壊してしまった。呆れられたかもと、すっかり勢いをなくしたモブは恐る恐る名前を伺う。しかしそこにあったのは、モブに手首を掴まれたまま緊張とも羞恥ともとれる表情でいっぱいいっぱいになっている、真っ赤な少女の顔であった。ぎょっとしたと同時に無くした勢いも謎の焦りも、全てどこかへ吹き飛んでしまって、かわりに自身の身体がかっと熱くなるのをモブは感じた。

自分より少し年上の女の人の、余裕をなくして必死に落ち着こうとする様子は、どうしようもなく胸が炙られるような焦燥を覚える。モブは自分がいったいなにをすべきか、何がしたくて、けれどできなくてこんな気持ちになっているのか、回らない頭で必死に考えた。僕は彼女を、名前さんを師匠に取られてしまうと思ったんだ。今日彼女がご飯を作ってくれたのは師匠の頼みがあったからだし、名前さんはもしかしたら師匠の為に頑張ったのかもしれないと。今回たまたま自分がいただけで、さっきだって師匠が頼めばまた、彼女は師匠の家で……そこまで考えて、モブは己の内なる感情を見てしまった気がして青くなる。冷静になれ。こんな気持ちは、初めてだ。だからこそ表に出すわけにはいかない。この力を人に…彼女に向けるなんて、あってはならないことだ。瞳を閉じて、深くゆっくり呼吸をした。理性で感情を抑え込む。モブは、既に自分が「幸福と呼べる日々」に身を委ねているだけでは満足できないのだということに、気づいてしまっていた。

師匠に尻を叩かれ、やっと自身の甘ったれた立場に気づかされたのだ。いくら名前が女子校の生徒でも、モブが動き出さなければこの関係に進展はない。何処ぞの馬の骨ともわからない人間が現れる可能性だってありえないわけじゃない。僕が、自分の気持ちに向き合わないといけないんだ。ぐっと膝に力を入れて、モブは自分と同じ高さでぶつかる名前の目を真っ直ぐみつめた。


相談所の下の階段裏は時間帯も相まって暗く影をつくり、人が近くを通っても声を出さなければ分からないような空間になっていた。


静かにこちらを見つめるモブに、名前は思わず喉唾を飲み込む。先ほどまでの焦った様子が消え去って、モブの雰囲気に変化が生じたことで名前の緊張はピークを迎えようとしていた。ずっと鳴り止まない心臓の音が伝わってしまうのではないかと気が気でなかった。少ししか年の離れていない少年とこんな暗がりでじっと息をひそめるような空気に、何故だかよくないことをしているみたいに思えて、知らず両親を思って冷や汗がでる。お父さん、お母さん、ごめんなさい。もしかしたらわたしは、大切な人を怒らせてしまったのかもしれません…。明後日の方向に涙を流しそうになった名前の意識は、掴まれていた腕を突然モブが引いたことで強制的に戻された。

あっと思った時には既に名前の背は壁にくっついていた。一瞬モブが自分の方に名前を引いたのだが、引かれたことで傾いた身体を反対側に押しやったのだ。スカートから覗く膝裏が壁の冷たい温度を感じて、自分の身体の熱を悟る。壁に押し付けられたことでより一層高まった緊張にどうにかなりそうだった。けれど、しっかりと名前の両手を包み込んだモブの小さな息遣いを感じて、どきりと跳ねた心臓をそのままに名前はじっと息を殺した。「名前さん」ついさっきまで、一緒にご飯を食べていたのに。そのときの距離感とは比べ物にならない近さに、彼の声が聞こえる。口を開くたび震える空気だって、肌で感じてしまえるとさえ思う。「僕をみて」目の前の真剣な目に、抑えきれない想いが一緒になって吸い込まれていく。街も車も風も、全て何処かへ行ってしまって、何も聞こえない。彼の声だけが、頭に響く。


「あなたの作るご飯を食べたいと思うのも、その味を知りたいと思うのも、全部僕だ。師匠のものになんて、なってほしくない」


声を出したいのに、なんて言えばいいのか全くわからなくて口が不自然に開閉をくりかえす。恐ろしいほど真剣な表情で、声で、こんな風に言われてしまえば、今まで必死にそんなわけないと期待しないように押し込んでいた気持ちが、溢れてとまらなくなってしまう。霊幻さんが言った言葉に彼がやきもちを妬いてくれたのかもしれないなんて考えると、ひどく胸が軋んだ。それでも自分と彼が同じ気持ちでいるなんて可能性を信じることができなくて、それじゃあ今のこの状況をなんて説明するのかと言われれば、勝手に都合のいい方へ考えてしまうのだからもどかしい。ありえないのに、でもだけどが堂々巡りをして息ができなくなってしまう。女の子って、どうしてこんなにも言葉を欲しがるんだろう。きっとわたしが勇気を出して答えを求めたら、自分の気持ちも伝えることになってしまうけれど、はっきりするんだ。今とても、モブくんの気持ちが知りたい。彼の言葉の意味を理解したい。ぎゅうぎゅう詰めになった胸の内を明かしたら、彼はどんな顔をするのだろう。意を決したわたしが口を開いて、今度こそ声に出そうと喉を震わせたとき、ふと気づく。近いと思っていた距離が、もっと、縮まっている気がして、呼吸が、止まる。「だけどあんたは、こんな言い方じゃ理解しないだろうから」こんなにも近くにいるのに、声が聞こえるのに、モブくんの目がどこにあるのか、わからないなんて。


息がうまくできない。触れた唇の感触を理解するよりも早く、離れた唇がまた重なった。驚くほどやさしいのに、押し付けて離さないその力の込め方に、胸の奥がぎゅうと締め付けられて苦しくなる。たまらず掴まれていた両手に力を込めると、動きを止めたモブくんが離れ際にわたしの名前を呼んだ。なんて人だろう。言葉なんてものをはるか遠くに追い越して、ありえないを吹き飛ばして、直接解らされてしまった。心臓が嬉しさに悲鳴を上げて、熱くなった視界がぼやけはじめる。彼の驚くべき行動も息のかかりそうな距離も、未だに繋がれたままの両手も全てがこの事実を物語っていて、許容を超えた感情が目から溢れて止まらなくなってしまった。

驚いて目を見開くモブが何か言うよりも早くゆっくりと体を寄せた名前の額が、モブの左肩にのせられた。こんな至近距離で好きな人に泣き顔を見られることにはさすがに抵抗があった。相手からの接触でどぎまぎするモブの耳に、名前の震えた声が嗚咽交じりに届けられる。


「モブくん、わたし、やっとわかったよ。わ、わたし…きみを好きでいて、いいんだよね…」


そうぐずぐずと言葉を紡ぐ名前に、モブは身体中が愛しさでいっぱいになるのがわかった。この気持ちが溢れ出てどこかへいってしまわないよう、名前の頭を左手でゆるやかに抑え込む。「そうじゃないと、困ります」あまりにも優しい声色でつぶやかれたその声は、二人がいつまでもいられるよう、ビルの隙間から覗く星空へ静かに溶けていった。


そして、真っ赤に腫れた目元を携えて顔を俯かせる名前とどことなく晴れやかな表情のモブが手をつないで相談所へと帰ってきたことで、こいつもやるときゃやるんだなと、霊幻は感心半分妬み半分に片手を上げて出迎えることとなったのだった。




ALICE+