共犯者、またはこの支配からの卒業
 思春期が過ぎ去る瞬間に気づける人間は珍しい。たいていの人間はまた、自分が大人になった瞬間にも気づかない。成人式をその瞬間だと認める『大人』が一体どれだけいるだろう?その瞬間じゃないと誰もが思いたいはずだ。いつ、あの暗くじめじめした、汗の匂いがする情緒不安定さを捨て去って大人になったのか?それはどの瞬間だったか?そもそも果たしてその思春期的煩悶を捨て去るくらいで大人になれるのか。それが無くなっただけで、もしかしたらいまだ『大人』にはなっていないのかも?そういう疑問を抱いた時点で、それは一生続くモラトリアムだ。思春期と大人の狭間で永遠にフラフラし続ける。ここを逃せばもうモラトリアムは無い、猶予に浸るのはそれはそれで楽で愉しい。胸の内に秘めるなら特段悪いことでもない。ある程度の年齢までいったら『もういい年齢なんだからもうちょっとこうシャキっとしなさいよ』くらい言われるかもしれないけど。
 まあ、そんなふうに頭の中が年中モラトリアムだとしても、自分で部屋が借りられて、なんとか食いはぐれず、タバコも隠れて吸わなくてよくなればなんとなく『大人』だねって認められるし自分でも『大人』だなって思っちゃうのも確かだ。あれから2年が経って、俺はなんとか食いはぐれず、自分で狭いながらもなワンルームの我が家を借りて、日々平穏に生きている。自分でもまあそういう意味で『大人』かな、なんて思っちゃう。そういう意味じゃなければ、どの瞬間からとか、わからないのも仕方がない。どんな過程を経ようと、ひとたび思春期を抜け出したら駆け抜けるのに必死だ。わからなくても仕方がない。わかるようじゃ嘘かもしれない。
 狭いながらも我が家の唯一自然光が差し込む窓を開け(ただし、30センチ先は隣のビル壁)、タバコに火をつけた。一応借家だし、壁紙黄ばんでも困るし、気休め程度にねって、しかし火をつけた瞬間から室内へだくだくと流れ込んでく副流煙に閉口しながらフィルターをくわえる。
 だったら、と思う。
 あの夜の俺はなんだったんだろう。
 あの夜、18歳の冬の夜、ようやく逃げ出す決意をした俺は、なんだったんだろうか?
 今のそういう意味で『大人』でしょって俺とはきっと違う。かと言って、その前の夜までの、星空を見上げて自分という存在を無に近づけようとしていた俺とはもっと違う。怒りを殺してすべてをなあなあにしていた俺とは違う。でも、あの夜の俺は衛の言うままに怒りを発散させたわけでもない。あの夜の俺は、思春期かモラトリアムか大人か、どこに存在していたのか。もっとも重要なのは、あの夜の俺が存在しなければ、今の俺だって存在しないということだ。

「いいな、タバコ。俺も吸いたい」

 なんて若干センチメンタルハルくんになっていたら、この狭いながらもな我が家の暗がりのほうから能天気な声が上がった。台無し。もうね、見なくてもわかる、声が笑ってるというか、雰囲気がヘラヘラしている。それは18歳の頃から一ミリも変わってない。逆に安心するわ。

「メンソールしか吸えないんだろ」
「うん、だから一口でいいや」
「オラ、取りにおいで!」
「やだ、来て、めんどい」

 埒があかないしそれこそめんどいので、『タバコを吸うときは窓際で』っていう気休め程度のポリシーを名残惜しくもなくポイ捨てして俺は立ち上がる。薄暗い部屋。そりゃこの大都会で俺が借りられるようなやっすい部屋だし、そもそも唯一自然光が差し込む窓が隣のビル壁と寸止めの距離で接しているのだからそりゃもう薄暗い。その最も暗がりの部分に置いたパイプベッドに、我が物顔で大の字になっているデカい図体。もうホントに、嫌という程刷り込まれた笑顔で、タバコを求めて俺に手を伸ばしてくる。もちろん寝転んだまま。2年ぶりの再会だと言うのに来るなりベッドを占拠してこの態度。さすがである。さすがとしか言いようがない。

「なんか全然ひさしぶりって感じしないんだけど」
「言うても2年じゃないですか、19越えたら体感寿命超加速するって言うし、そりゃあっという間でしょ」
「えっなにそれこわ、いや確かにだけど、え、こわ」

 何故か爆笑しながら怯え、俺から奪ったタバコをくわえる衛。そういう意味不明なとこも変わってない。変わったのは生意気にも髪を伸ばしパーマかけてるところくらい。すっげえチンピラっぽいけど、すっげえ似合ってるけどすっげえチンピラっぽいけど。後は笑い方も、タバコを摘む手指も、目の下のホクロも変わってない。ホントに久しぶりって感じがしない。つい昨日まで会ってた感覚だ。2年ぶりなのに。

「ハルくん全然『助けてくれ』って来ないから、来ちゃった」

 てへ、ってバカその凶悪なテヘペロをやめろ。衛はタバコを吸い込んで、一言「甘いね」と漏らした。その表情は確かに、ちょっと懐かしさとか、そんなものを感じてる表情にも見えた。
 あの夜、最低限の荷物をタマなしの義兄を起こさぬよう運び出してとりあえず何食わぬ顔で病院へ帰還、タマなしの義兄の件を追及されるかと思えばそんなこともなく、退院とともに俺はあの街から逃げ出した。退院までの間に姉ちゃんは何度か来たけど、俺の火傷の件にも義兄のタマなしの件にも何ひとつ具体的には触れなかった。それで決定的になったと思う。俺たちはたった二人の姉弟であるというだけの関係になった。それ以外にどんな感情も持ちようがない関係になった。姉ちゃんのほうがどうかは知らないけど、旦那を寝取られたとか旦那をタマなしにされたとか恨んでもおかしくない条件は揃っているので、だとしたらやっぱり俺は姉ちゃんもほっぽって逃げるしかないのだ。もっとも、逃げ出したときも追いかけるどころか居場所を追及されるようなことも今に至るまで一切ないから、きっと姉ちゃんが俺に抱いてる感情も同じような感じで落ち着いているのだと思う。あの人は俺の姉、ただそれだけ。あの人は私の弟、ただそれだけ。一度だけ電話で話した。姉弟なんだから、2年に一度くらい安否確認くらいしたっておかしくはない。どっちから電話したかもなりゆきも忘れたけど、「元気?」「元気」というようなこと以外は話さなかった。もちろん俺の火傷についても義兄のタマなしについても話さない。ただ、まだ彼らが別れずに一緒に暮らしているというのは話しぶりから伝わってきた。
 図体のデカい衛で占拠されたベッドの端に腰掛けると、やっぱりメンソールじゃなくてイヤだったのか無理矢理吸いさしを咥えさせようとしてくる。あぶねえ、あぶね、灰が落ちんだろが、今にも落ちる!って灰を予備の灰皿で間一髪受けてセーフ。

「で?『いざとなったらオッサンのチンコでも咥える』とか言ってたけど何本咥えたの?」
「二、三本かな。仮性と巨根」

 ソッコーでボケてやると大喜びで大ウケしてるけど衛くん、僕ぁ君のデリカシーの無さにブチ切れそうだよ。確かにそんなこと言ったけど。まあ衛のデリカシーの無さも今更と言えば今更なんだけど、やっぱりホラ2年のブランクがあるから、ね、免疫が消えかけてて、ね。

「チューが3000円だったっけ?」
「さすがにオッサン相手だともうちょい取るね、いや、まずはぼったくり価格からふっかけてみたほうがいいのかな?貰えたら儲けもん」
「いや〜ハルくんエゲツない商売してまんな!」
「これ見せたら、皆ビビってちゃんと払ってくれるだろ」

 背中を指す、捨て身の自虐ギャグのつもりで。なのに衛は今度はバカ笑いせず、ただ笑いの名残りだけが残った顔で俺を見、寝転んだまま俺の背中に手を伸ばして触れた。スウェット越しに感じる手のひらの形。普段、やっぱり無意識に背中を庇っているのか、誰かに背中を触らせることなんか無いからなんだかとんでもないことを許しているようなへんな気分になる。そして俺はきっと次に言われることもなんとなくわかっている。

「ハルくん、脱いで」

 同じことを言われた日を思い出す。あの時はもっとキレ気味だったけど。あの時はまだこんなエゲツない火傷痕は背負って無くて、ただ無数のミミズ腫れでエンボス加工されたようになっていただけだったけど。素敵な秋色の空気に照らされた、埃っぽい廃教室で、初めてその秘密を衛に露呈した。初めて助けてほしいと思った。救ってほしいと思った。衛に、これ以上俺の心を殺させないでくれと願った。初めて。果てしなく遠く、懐かしい日に感じられ、やっぱり俺は『大人』になったんだって、そう思う。

「脱いで」

 急かすように背を撫でられて、背を向けたまま、一気にスウェットの上を脱いだ。自分でもまともに見たことがないその傷痕を、衛にだけは余すことなく晒け出す。たぶん、このために今日衛は来たのだと思った。このために。俺の背中の結果を受け止めるために。思いの外冷たい手のひらが今度は直接背中に触れて、肩のあたりに鳥肌がたつのを感じた。
 あの夜。
 衛が『いいモノ』だと言ってふん縛った義兄を転がしていた夜。
 衛は「やれ」と言った、俺に「お前がやれ」と、俺のために我慢してやるから「お前がやれ」と、確かに言った。結果的に俺は思いつきにしてたぶん一番マシな選択肢『逃げる』を選び、今日に至る。
 でもたまに考える。嘘だ。毎日考えてた、あの日から。衛に会わないあいだも毎日。
 衛は俺に何をしてほしかったんだろう。俺のために何を我慢したのか。俺がどこまでやることを想定し期待してたんだろう。俺がどんな答えも思い付かず最高にヘタレていたら、我慢をやめた衛はどこまでやるつもりだったのか。俺は衛が望んだことの1パーセントもできているのか。俺は衛に何か、与えられたのか。俺は、衛に確かに救われたけど。

「もういいよ」

 俺のイマイチぼこぼこした背中を撫でながら言った衛の声は隠しようもないほどの涙声で、思わず振り返るとご多分に漏れず衛は涙を流している。ジスイズ鬼の目にも涙。明日は猛暑日となるだろう、冬だけど。泣いている衛なんて激レアなんだけど、案外珍しいという心地もしない。いや絶対珍しいはずなんだけど。いつもみたく不自然に笑ってない、ごくごく自然に力を抜ききった表情で、半分閉じた瞼のふちからダラダラ涙を流している。そのあいだも手は俺のイマイチぼこぼこした背中を撫で続けている。

「なに、なんで泣いてんのお前、怖いんだけど」
「うっさい、知らん」
「知らんて」
「言ったじゃん。俺はお前といると自分が人間だって思い出すの」

 …それもよくわかんないんですけどね。なんで俺なの。なんで俺なの。まあそんなの、言葉で説明できるものでもないか。初めて会ったとき、衛が俺の折れた鼻を覆うガーゼに触れたとき、あのときから俺たちのあいだには何かがある。それはお互いにそれぞれ違うものかも知れないけど。確かに何かがある。俺が、そばにいなくたって、何年も会わなくたって、衛がどこかで生きているという確信だけで救われて、生きていけるように。

「ハルくん俺、ちょっとキモいこと言うけど」
「なんなりと」
「マジでキモいんだけど」
「ハードル上げるねえ」
「ちょっと抱きしめさして」

 依然涙をダラダラ流しながら手を広げる衛に、抱きしめさしてって頼みながら自分から来ないのはさすが衛サマだなって笑いながらその腕に寄り添った。すぐさま両腕に抱きしめられて、俺は衛の鎖骨あたりに顔を埋めるしか無くなる。髪の毛から背中の痕までぜんぶ、力強く。俺の髪の毛をぐしゃぐしゃしながら、衛は盛大に鼻をすする。ウェーブのかかった髪の毛がこそばゆい。

「…俺はホモだから勃っちゃったらゴメン」
「オイ萎えること言うな?」
「萎えなきゃ困るっつってんだろが」
「うははは!確かに」
「…衛ってわりと兎メンタルでしょ」
「なにそれ」
「さびしいと死んじゃう系」
「あっは!可愛い、言えてる、俺かわいい」

 いや可愛くはねえわ、こんな図体してよく言えたもんだわ。衛の手が背中を撫で、右の肩甲骨辺りで止まる。そこには火傷痕は無く、突然普通の感覚がある皮膚を触られて思わずビクつきそうになる。逃げると思ったのか、衛はより強く俺を抱きしめ、その生き残った皮膚を切り取るように指先でなぞりながら囁いた。

「ここにさ、何か、落書き入れようか」
「落書き?タトゥーってこと?なんで?」
「保険」

 なんのための、誰のための保険だよ、と思ったが思い付かない。思い当たることが多すぎるからだ。二度とあの頃の俺に戻らないようにとか、この背中は義兄のものじゃないとか、もっと他にも思いつくけど。あるいはそのすべてのための保険。あるいは、ただ単に衛がそう望むから。それだけでもいい。俺だってそういう保険ならほしい。俺たちは恋人じゃないけど、四六時中一緒にいるわけじゃないけど、未来を約束しもしないけど、セックスだってしないし、一緒に生きる努力もしないけど。俺たちは友達で、あの夜を生き延びた、二人で。俺は衛に救われ、思春期の晩年を生き延びた。同じ時を生き延びたから絆や誓いは必要ない。そんなものはなくたって揺るぎはしない。でも、保険ならあってもいい。俺たちはお互いにそういうことができるって、もし今後、衛が救われたいと願ったらそのためになんだってするって、わざわざ誓わなくたって当然なんだけど、保険ならあってもいい。あってもいい。

「いいよ。銭湯なんか絶対いかねーし」
「じゃあタトゥーマシンを取り寄せて俺が彫る〜」
「は?え?なに言ってんのこの人めっちゃ怖いんだけど、は?人の背中のこと自由帳くらいに思ってやがる」
「うははは!冗談、冗談ですったいハルちゃん!」

 もはや何弁だよ。心底愉快そうに笑う衛はすっかりいつもどおりで、ただ涙のあとだけが浮いている。このとき漠然と予感した。きっと俺らジジイになって死ぬときもこんな感じだ。その予感が当たるかは、こればっかりはわかんないけど。それも含めての『保険』でしょ、たぶん。

「衛、」
「なに」
「…ありがとな」
「やめろ恥ずかしい照れるだろこの状況で!」
「この状況にしたのはテメエだろが!」

 ツボ過ぎた衛がほとんど笑い死にの域に達する、俺を抱きしめたまま。こういう人がいたら幸せになれるのかもしれない、そこそこに。どこでだって、生きていけるに違いない。きっと。

 そうして俺の背中に衛の趣味の黒いバラが咲いて、俺の思春期の晩年とそこから少しはみ出した部分はようやく終わりを告げた。
 俺が衛の緑の頭の弟くんとファーストコンタクトを果たすのは、もう少し後の話で別の話だ。



グレーゾーン【終わり】
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