02.Boneset
執事に手を引かれて来た道を、国王の後ろに続いて歩く。先程とは違い右手が風を掴むからか、見てきたはずの景色がどこか霞がかって感じた。そんなことはお構いなしに、国王は自分のペースで歩く。少女の歩幅は僅かに小さく、自然と小走りになる。ふわふわした足元から、時折現実の顔が見え隠れするような気がした。不安になって声を上げようとするが、その翳った塊は喉につかえて出てきてくれない。
――いつでも、そうだったじゃないか。
これが夢であるなら、自由でいられるはずなのに。
気がつくと国王が小さく見えていて、少女は小走りに駆け寄った。追いついた彼女を笑顔で迎え、国王は手を差し伸べる。少女が初めてその手を取ると、微かに潮の匂いのする風が頬を撫でた。顔を上げると、遠くに金糸を施した色紙のような空が広がっていて、静かな海にその色を溶かしている。耳を擽るさざ波が、彼女の燻った思考を覚ました。
「僕のお気に入りの場所なんだよ」
そう言って微笑む国王の顔を、少女は初めて近くで見る。仮面の向こうでは優しい目を細めていて、空の色に照らされた睫毛が、セントポーリアの花弁を思わせた。手を伸ばせば触れられそうなその距離は、彼女の瞼の重石。それ以上の温度は、彼女にはまだ熱すぎる。自身の白い手で頬を抑えながら、また地面に視線を落とすと、国王の声はそんな彼女に、無邪気に呼び掛けた。
「海の中には、何がいると思う?」
少女は目を閉じる。仄暗い海の底は、死んだような静寂。淀んだ黒の中に命の色はなく、時たま滑らかな砂利から逃げ出す気泡だけが、光を反射している。少女さえも初めからいなかったかのように、その海はただ深かった。
砂を掻く音で、薄っすらと目を開けた。国王は華美な装束が汚れることも厭わず、木の枝で地面に思い描いた海を作り上げている。見たこともない生き物たちが次々生み出されていくのを見ながら、彼女はまた目を伏せた。
「この海の中にも、僕達と似た人々がきっと住んでいる」
国を治める者がいて、従うものがいて、友情があり、恋があり、憎しみがあり、生がある。少女の海にはなかったものが、国王の海には当たり前のように存在していた。少女は再び目を閉じる。砂と波のすれ違う音と、国王の鼻歌とに合わせて、少女の海は揺れ動いた。
「彼らと仲良く出来たら、楽しいだろうね」
動き出すはずのない地面の海を、種から育てた花を相手にするように見下ろし、国王はそう言って頷く。少女はその姿を一瞥すると、もう一度彼女の海に降り立った。しかし、賑わっていたはずの者達は、その刹那息を呑み、静まり、遠巻きに彼女を見る。折り重なる囁きと細かく蠢く唇が不協和音を鳴らし、肋骨の内側をくしゃくしゃに揺する。彼女は急いで目を開けた。国王の海は、もう、波にさらわれていく。
「ごめんなさい」
自分が踏み躙ったわけでもないのに、少女は良心の呵責を覚え頭を下げた。国王は困ったように笑うと、体についた砂を払う。風はぴたりと止んでいたが、少女は肌を刺す寒さに身を震わせた。
「昔、この海で溺れかけたことがある」
そう言うと、国王は砂浜に腰を下ろし、少女を隣へと誘(いざな)う。
「絶対に、海底に住んでる奴らが僕の足を引っ張って殺そうとしたんだと思った。城の人達にも必死で訴えた。だけど、誰も信じてくれないんだ」
自分の手でボタンが掛けられなかった頃に純粋に信じていたものは、否定されて不信に変わり、いずれ封印される。それは少女も知っている摂理だ。しかし、国王は大真面目に続けた。
「誰も信じてくれないなら、そのことを知っているのは僕と海底の奴らだけ。そう思ったら、怒っていたはずの気持ちが、奴らへの好意に変わっていた。実は彼らは僕と仲良くしたくて、僕を海底へ導こうとしていたんじゃないかって考えるようになった」
そしてもう一度海に潜って死にかけて、城の人にはこっぴどく叱られたよ、と、国王は笑った。
不思議なもので、相手への好意は、その人がなすことへの解釈に大きく影響を与える。一度持った苦手意識は、そのせいで中々拭い切れないのだろう。国王は他愛ない話しかしないが、少女はそれが心地良く、同時に叱られている気分にもなった。この国が一体どんなところなのか、国王は何を思っているのか。少女の心には、それらの疑問を湧き上がらせる余裕が漸く出来たらしいが、今はそんなことどうでもよかった。切ない記憶には蓋をして、彼女はその手に砂を掴んだ。この国にずっと留まってはいけないということにいつしか気が付いてはいたけれど、この空間は、自分が欲しいものにずっと近いような気がして、確かな感触を、自らに刻んでおきたかった。少女は立ち上がると、砂を揺さぶる波に足を踏み入れる。ひやりと足首を掴む水の手は、きっと海底に住む魚人族たちのもの。少女は彼らに、誠実に応えなければならない。
少女の海には囁き声が響き渡る。見知らぬ少女を受け入れるのか、拒むのか、彼らは迷っているのだ。少女の姿、色、香り、声。彼らはそこから彼女を探そうとしている。その気持ちに歩み寄りたかった。けれど汚れたビー玉は、細かい傷に染み付いた色を簡単には落とさない。彼らから隠れることが、今の少女の精一杯だった。少女はゆっくり目を開けた。紫を蓄えた海は、彼女の姿を映し出している。しかし、その鏡に、国王の姿はなかった。
少女は消えかけた足跡を追いかける。地面の感触が骨に響くのが、彼女が生きていることの証明になった。煤けた装束を翻し悪戯に笑う国王がそこに現れるのを、少女は無意識に望んでいたのかもしれない。彼女は足跡の消えた雑踏の中に、足早に飛び込んでいった。
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