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2006年2月10日 新宿HOLIDAY

カラオケのおしぼりを袋から取り出した蘭様は、私の口を乱暴に拭った。
白いガサガサの繊維が唇を引っ掻き、正直なところ痛い。
「…ん…ぅ……」
皮膚を削られるんじゃないかってくらいゴシゴシと私の口を拭いた彼は、そのおしぼりをテーブルの上にぽいっと放り投げて、椅子に腰を下ろす。
私は、床に膝を付いていた体を起こして立ち上がり、膝下まで下ろした白いニーハイソックスを太腿まで引っ張り上げる。カラオケの床になんて膝をついたら、相方とお揃いで合わせた真っ白なニーハイの膝の所が、真っ黒になっちゃうところだった。代わりにまっ黒くなった膝小僧をニーハイソックスの下に隠して、私は蘭様の隣に座った。
すると、コーラの入ったグラスが隣から渡される。
水滴がびっしりとグラスの外側についたグラスを受け取ると、グラスの底からパタパタと水滴が落ちてきて、パニエを重ね履きして膨らむスカートに染みを作る。
ぐいっと飲み込んだコーラは気が抜けていて、溶けた氷でだいぶ甘さも薄まって美味しくない。口の中で弾ける僅かな炭酸の残る液体を、喉の奥に流し込む私の隣で、蘭様は煙草に火をつける。ほんのりと舞うオイルの香りが私は好きだ。
「身軽そうだけど、天竺もう入りしたの?」
ライブの日の13時すぎにしては荷物が少なく、手ぶらに見える蘭様に尋ねると、彼は白い煙を吐き出しながら私を見た。
「した。で、すげー時間空いてっからナマエにメールした」
「そ、なんだ。歌舞伎町に私が居なかったらどうすんの?」
テーブルの上に置かれた伝票に記された時間から推測するに、蘭様が私にメールしてきたのはカラオケに入室した時刻とほぼイコール。
まず最初に私にメールしてくれた事実は大きな自信と優越感となり私を甘やかすけれども、蘭様から届いたカラオケ店の名前と部屋番号が書かれたメールに、私が行くって即レスしなければ他の子にメールしてる事位安易に想像ついた。
「ナマエなら居るからへーき」
なにそれ、どんな信頼感よ。
当たり前の事のように口にする蘭様の声に耳を傾けながら、グラスをテーブルの上の水溜りの傍に置く。
ふふって微笑んだ蘭様が口付けてくるから気が抜けて薄まったコーラから彼の煙草の苦さに口の中の味が変わってゆく。
蘭様とこんな関係になったのは、天竺が初めてワンマンライブをしたあの日。ライブの後にファンの子も入れた打上げに相方と2人で参加した。ロリィタ着てる天竺のファンなんて、私と相方だけで浮きまくってる空間に自然と飲みのペースが早まっちゃって、酔っ払った私を男子トイレに連れ込んだのが蘭様。どうやって男子トイレの個室に蘭様に連れ込まれたかなんて、酔ってて正直覚えてない。気付いたら、こうなってたんだもの、仕方ないじゃない。
蘭様の唇が私のそれから離れてゆき、蘭様の唇は煙草のフィルターに奪われた。
「まだ居れる?」
そっと袖を摘んで尋ねると、その蘭様の腕が私の左肩から首の後ろを通って右肩へと回される。
巻かれた私の痛んだ髪をくるくると指に巻きつけて弄るのは蘭様の癖。
「んー…もうちょっとで戻る」
「もう?」
首を傾げて蘭様の方へ向けば、煙草を灰皿に置いたその手でデンモクを掴んでそれを膝の上に置く。
「ん。」
デンモクへと視線を落としたまま頷いた蘭様。タッチパネルを操作する彼が灰皿の上に置いた煙草に手を伸ばして、拝借した。
「煙草やめんじゃなかった?」
「女の子は煙草吸わない方が可愛いって、竜ちゃんが言うから出待ちで吸わないだけだもん」
「言ってやろ」
「うそ。やだ」
「嘘。本気にすんなよ。アイツらにバレたら困るんだろ?」
含み笑いを浮かべる蘭様がデンモクから飛ばした曲は、私が今でも大好きで大好きで仕方のない、今はもう無いバンドの私が一番大好きなラブソング。
バンギャの習性で反射的に煙草を灰皿へと放って動く動く私の手は懐かしきフリを辿る。
もうライブでは聞けなくなってしまって久しいそれは、蘭様の声がご本家を上書きして、私の脳内を支配する。でも、蘭様の声は最後まで載ってこなくて、曲の2番のサビからは、固いクッションの長椅子に押し倒された私の鼻にかかったような甘ったれた声しか聞こえない。
後奏のフレーズがフェイドアウトして、私の上体を抱き起こしてくれた蘭様は、ズレて傾いたボンネットを被せなおす。
乱れた前髪を手櫛で直してくれた蘭様は、初めて関係を持ったあの時のように私の顔を間近に覗き込んで微笑んだ。
「大丈夫。竜胆にはナイショにしてやるよ♡」
それは、天竺の初ワンマンだった打上げのあの時に「オマエ、竜胆の方じゃん。間違えちゃったなぁ…、まぁ、竜胆にはナイショ♡できるよね?」と囁いた蘭様の微笑みと同じ表情。


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