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上京
息子の高校進学の為に上京する事になった私達親子を、共に彼を育ててくれた私の両親は寂しがりながらも見送った。
引越し業者のトラックを送り出した翌朝、最寄りの駅までの道のりを車で送ってくれた父は、いつもに増して無言だった。代わりに母が留まる事なく息子とずっと言葉を交わしていた。
在来線を乗り継いでターミナル駅へと向かう間、いつもより静かに感じられた息子も、東京へと向かう新幹線へ乗る頃には気持ちが落ち着いたのかなんだか上機嫌。スマホを弄りながら私の肩に寄りかかってくる彼は希望に満ちている。
それとは対照的に、東京へ向かう私の胸中は不安ばかり。
無職のまま子連れで上京する私には契約した新居の家賃も生活費ものしかかる。息子の学費は蘭が寄越してきた養育費の口座から出すとしても、私達親子の生活費を稼がねばならない。
私の貯金なんて、今回の引っ越し費用と新居を契約する費用を支払えば残り僅かとなる。蘭が押し付けてきた慰謝料と彼が言う口座には手をつけたくない。それに手をつけてしまうのは、あの時、蘭に私を選んでもらえなかった事を認める様で怖かった。
息子に左の肩を貸しながら、スマホの上で親指を動かして求人サイトを流し見ていく中で、私にも応募できるものにどんどんエントリーしていくものの、このご時世でこの年齢の子持ちシングルの私を雇おうなんて企業が存在する気がしない。だからといって、竜胆くんの関わる仕事に就くのはまっぴらごめんで、さらに蘭の世話になるなんてこの期に及んでも尚、考えたくもない。
「ねー、夕飯ここ行こうよ」
不意に左肩から話しかけられる。そして目の前に差し出された息子のiPhone。画面には美味しそうなお料理の画像が広がっている。
「しばらく外食する余裕ないよ」
「親父の奢りだからそこは気にすんなって」
私の心情なんて知らない息子がサラリと言ってのけたその台詞を、私はもちろん認めるわけにはいかない。
「お父さんは呼ばないで」
「だってもう約束しちゃったもん」
「今日引っ越すって、蘭ちゃん知ってるの?」
「え?ナマエ、親父に言ってねーの?」
蘭にそっくりな薄紫色の垂れ目をぱちぱちと瞬く息子に嫌な予感しかない。
「もう、お父さんになんでも話さないでよ。これからも灰谷とミョウジは、別々に生きるの」
息子も名乗る私の姓を強調して伝える私の肩から、息子は頭を起こした。
「んー。でも、約束しちゃったから今日くらいは大目に見てよ。向こう着いたらベッド買ってもらう約束してんだー。ナマエも一緒に行ってついでに買ってもらおうよ」
「私は行かないよ」
「えー。竜胆が車出してくれるのに?」
「竜胆くんも呼んだの?」
「親父連れて来るってりんどーが言ってたよ」
頭を抱えたくなる私の気持ちなんて息子には解らないのだろう。彼は上機嫌にそう言って、また私の肩にもたれてきた。
息子の言った通り、竜胆くんが蘭を連れて新居へやって来たのはちょうど引越し業者が荷物を搬入している最中。彼らは我が物顔で、私達の新居へと足を踏み入れた。
「らんの部屋どっちー?」
「こっちこっち!」
竜胆くんは早速息子の部屋を訪問し、竜胆くんと共にやって来た蘭はリビングを覗いた後に、私の部屋へとずかずかと上がり込む。
「オマエの部屋こっち?」
遠慮の欠片も無く我が物顔で行動する蘭の背を追ってゆくと、積み重なった段ボールの間を縫った蘭が、ベランダへ向かって部屋の中を進んだ。
「カーテン、荷物からすぐ出る?」
「これからサイズ測って準備する」
「ふぅん。じゃあ、オマエは不用意に窓際に近づくな」
「うん?」
カラカラカラっと音を立てて、蘭がサッシを開きベランダを覗き込む。
「ナマエ、らんのサンダル借りてきて」
「うん」
蘭に言われるがままご所望のものを手渡すと、息子のサンダルを履いて蘭はベランダに出てゆく。
「窓際に近づくなって行ったろ」
言いながらまたカラカラカラっと音を立ててサッシを閉めてゆく蘭は、ベランダから身を乗り出して上下左右を確認している。
彼が何をしでかすか気が気でない私は、蘭が近づくなと言う窓際から離れる事なんかできない。こちらに背を向けた蘭が、何をしているのか気になってその場に居たのだけど、蘭の体の向こうから細い煙が上ってゆくのが見えて、黙って見てなど居られなくなった。
「ちょっと、そこで煙草吸わないで」
引っ越してきて早々にこんな迷惑行為をするなんて信じられない。しかもこのご時世に紙煙草だなんて、ご近所さんに嫌がられるに決まっているじゃない。
窓の向こうにも聞こえる様に声を張りサッシに手をかけると、蘭がこちらを振り向き咥え煙草のままサッシを押さえ、私がこのガラス戸を開く事を阻んだ。
「近づくなっつっただろー?」
「煙草やめてよ。周りに迷惑じゃない」
「それで良いだよ。こーんな柄の悪い男が出入りする部屋には誰も近づかねーから」
「良くないって!」
「ナマエちゃーん?」
窓ガラス一枚を隔てて蘭と言い合う私を、廊下から竜胆くんが呼んだ。そちらへ振り向くと、竜胆くんは遠慮がちに部屋の扉をそっと開く。
「なんか、引越しの業者が確認と精算したいみたい」
「うん。ありがとう」
見た目も子供の息子ではなく、見た目が大人の竜胆くんに担当者が声をかけたのだろう。呼びに来てくれた竜胆くんに礼を伝えると、彼はこの部屋の中を見回す。
「ここはナマエちゃんの部屋?」
「そう」
「は?兄貴。アレ、ナニしてんの?」
「来て早々煙草吸ってんの。ほんと信じらんない!竜胆くんからも怒ってよね?」
ぽんっと軽く竜胆くんのスーツの背中を叩いて部屋を出る。私を探していたらしい担当者と共に、引越しの荷物が全て搬入された事を確認し、精算とサインを済ませた。
再び自分の部屋に戻ると、竜胆くんまでベランダに出ているではないか。嫌な予感がして窓際に駆け寄ると、蘭と竜胆くんが二人肩を並べて煙草を吸っているのが目に入る。
「ちょっと二人ともそこを喫煙所にしないで!」
「ちゃんと灰皿あるよー!」
窓ガラスの向こうでこちらに振り向いた竜胆くんがそう言いながら、携帯灰皿を持つ手を差し出して見せてくる。灰皿があったとしても、集合住宅のベランダで煙草なんて許される事ではない。
「そういう問題じゃないでしょ!周りに迷惑なの。わかる?」
ベランダに居る二人に届く様にガラス越しに声を張る私を嫌にニヤついた顔をして見た蘭が、竜胆くんの耳元に顔を寄せて何か伝えてから、竜胆くんが持つ灰皿に煙草の吸い殻を入れた。カラカラカラっと音を立てて蘭がサッシを開くと、ベランダから煙草の臭いが部屋の中へと吹き込んだ。
「部屋も煙草臭くなっちゃうじゃん」
「どんまい」
「ほんと、最悪」
私の小言を無視する蘭の手が私に伸びてきて、部屋のドアが開かれた。ドアを開いたのは息子で、彼が眉を顰めたのはこの部屋の臭いの為か蘭と私との距離の為か。ほんの一瞬の空気を気まずく感じてしまう私には、息子に対して後ろめたさがある。
「あー。……親父、行ける?」
「この部屋のカーテンの長さも測ったら」
「おっけー。そっち、持って」
ポケットからメジャーを取り出して目盛を引き伸ばした息子が、目盛の先端を蘭へと差し出す。息子から素直にそれを受け取った蘭が窓際へと寄り、二人で窓の長さを測り始めた。
ガラスを一枚隔てた向こう側で煙草を吸う竜胆くんが、蘭と息子に向かって「もっとこっち」等と細かい指示を出して採寸してゆく光景に、私は目を見張ってしまった。そこには、灰谷の子としての息子の家族の形があったのだ。
ベランダから指示を出す竜胆くんの監督の元で測った長さから、息子がカーテンの長さを計算してメモしてゆく。息子が操作するiPhoneの画面を覗き込みながら、蘭は言った。
「オマエのその計算、マジであってんの?」
「あってるから、信じろって」
メジャーの目盛をしまった蘭が、それを息子に手渡してからこちらに足を進める。
「必要なもん買いに行くぞ。大きさ測るモンあれば、らんと竜胆に測らせて」
「私は、行かないよ。これからガスの開栓の立ち会いとかもしなきゃだし」
「は?」
「だから、ガスの開栓……」
「オマエ一人でここで立ち会うの?」
「そうだよ?」
何をそんなに驚く事があるのだろう。驚くついでに眉間に皺まで寄せた蘭に、私が驚いてしまった。
「らん、全部このカードで払っていーから竜胆連れてオマエの欲しいモンとナマエの部屋のカーテン買って来いよ」
財布から抜き出したクレジットカードを息子に差し出す蘭の手元から、息子はカードを受け取り、それから蘭にくってかかる。
「は?ナニどさくさに紛れてナマエと二人っきりになろーとしてンの?」
「こーんなセキュリティのねー場所でナマエ一人でガス屋の立ち会いなんか、危ねーだろ。馬鹿か?オマエ」
「親父と一緒のが危ねーだろが。ナマエ、ガス屋いつ来んのー?何時ー?それ終わってから一緒行こ?」
「二人とも、私はひとりで大丈夫だから竜胆くんと行ってきなよ」
蘭のカードを手にして私の腕に纏わりついてくる息子の肩を蘭が掴んだ。あぁ、また息子の拳が蘭にヒットしてしまったらひとたまりもない。なんて、身構えてしまった私と息子の目の前に、蘭によって急に差し出された小さな四角い箱。それは、私にとっては見覚えのある代物で、息子は初めて目にするであろう箱である。
去年のクリスマスの翌日に、私が蘭に突き返したあの立方体だった。
「らんにやる。オマエの女もサイズ一緒だったよな?これやるから、さっさと竜胆と一緒に行ってこーい?」
「は?え?あ?」
ぱちぱちと目を瞬いて慌てる息子の手にその箱を握らせた蘭の台詞は、私にとっては全く聞き捨てならないもの。
「なに、ちょっと、どういう事?」
思わず口を吐いて出た声は、自分でもびっくりしてしまう程に焦っていた。
勢いよく私の腕をぱっと離した息子が、するりと私と蘭の間をすり抜けて、慌ただしくベランダへと向かう。
「竜胆ー!なー、早く行こーぜ!」
片手に蘭のカード、もう片方の手にはあの小さな箱をしっかりと握った息子が竜胆くんにそう告げて、駆け足で部屋を出て行くではないか。これは一大事。
きっと私が尋ねたところで真実は何も教えてくれない息子ではなく、自分の事は嘘ばかりつくくせに他人の告げ口は得意な男の袖に手を伸ばす。彼の肘に触れても払われることはなく、その薄紫色した穏やかな視線は私へと柔らかに降り注ぐ。
「ちょっと蘭ちゃん、どういう事?」
「ん?」
「さっきの、あのリングでしょ?なんであの子に……」
「そ。俺はもういらねーんだワ」
カラカラカラっとまたサッシが開く音がして、やっとベランダから戻ってきた竜胆くんは、ここで何が起こっていたかをガラス越しに見ていたらしい。
「兄ちゃん留守番?じゃあ、らん連れて行ってくるかぁ。後でね、ナマエちゃん。晩飯時に迎えに来るよ」
しっかりと部屋の窓の戸締りをしてくれた竜胆くんも、部屋を出て行ってしまった。残された蘭はといえば、彼の肘に触れる私をそのままに、この部屋に搬入された段ボールの箱の数を一つづつ数えている。
「さーて、どこに隠し持ってんのか探すとするか……」
「ちょっと、蘭ちゃん……なに、するつもり?」
なんだか嫌な予感しかしない蘭の口ぶりに、冷や汗が沸いた。
「俺がオマエにやったペアリング、失くしたとは言わせねーぞ。大切なモンなんだろ?絶対この中から探し出すからなー?」
彼の肘に触れていた私の手の甲を一撫でした後に、近くにあった段ボール箱から封をしたテープを外しにかかる蘭。その姿を目の前に、言い出したら聞かない彼を止める術を、私は持ってなどいない。
彼の探し物が私の荷物の中から見つかってしまい、再びあのリングを蘭の手によって左手に嵌められてしまうまで、あと少し。