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待ち伏せ
キャリーケースを引いて出かけて行く息子の背中をこの目で見送るのは、そういえば今日が初めてだ。駅まで一緒に行こうとしたところ、それは息子に柔らかく拒否されてしまった。
「冷蔵庫の中の卵が今日までだったから、ナマエの分も焼いといた。仕事行く前にしっかり食って行けよ」
出かける前の息子がそう言いに来たから、慌てて身支度を進めていた手を止めて覗きに行ったダイニングテーブルには、きつね色に綺麗に焼けたパンケーキが積み重なっていた。もちろんこれに手をつけないわけにはいかないので、息子を駅まで見送る事は諦めざるを得ない。
きっと母親に駅まで同行されたくない彼は確信犯だろう。
親が子離れするよりもさきに、親離れしていくのはきっといつの時代も同じで、よくよく思い返せば私にもその様な時があった様に思うのだけど、自分の立場が子から親へと変わるとなかなか思い切れないところがあるものだ。
自立してゆく息子の変化に、私が追いついていけない。
息子の背中を見送る事を寂しいと感じてしまう私は、きっと子離れなんてできてない。やっぱり、私だけが置いてけぼりだ。
そんな寂しさが胸を占めていても、社会人たるもの自らの仕事を全うすべきで、勤務時間より少し前に出勤しタイムカードを押した。
息子には息子の今日があり、私には私の今日がある。
しかし、私の今日は、いつも通りのルーティンでは終われないようだ。
シフト通りにタイムカードを切って職場を後にしたところで、私が職場を出る瞬間を待っていたかの様に、スマホの着信音が鳴り響く。鞄からスマホを取り出して画面を見れば、私の仕事のシフトを把握している彼の名がそこに表示されていた。
周囲を見回すと、やはりそこに佇む姿を見つけて、そちらへ歩み寄る。ずっと私を見ていた蘭が、こちらに向かって歩き出した。
お互いがお互いへと歩みを進めて合流した蘭は、もう見慣れてしまった、彼が仕事へ行く姿をしていた。しかし、彼はまた仕事の途中か、仕事へ向かうところかの判断は下せない。
灰谷蘭という文字を表示して着信を知らせるスマホを握ったまま彼と至近距離で向かい合ってはじめて、蘭は私のスマホを鳴らす事をやめた。
「この後の予定は?」
蘭が尋ねてくる。特に予定なんてない。
もしも私に予定があったら、彼はどうするのだろうか?なんて、可愛らしい悪戯心が芽生えてしまった。
「実は予定が……」
「それがサロンの予約じゃねーンなら、キャンセルして俺と来て」
「どうして?」
「今日は時間に余裕があってね……オマエの約束の相手によっちゃーぁ、ウチの血気盛んな若いヤツでも呼ぼうかなって。ところで、今夜は朝まで一緒にいられる?」
「……え、と…これからクリーニング屋さん、取りに行くんだけど」
「それなら……明日着る服を今からショッピングに行くから、その予定は明日に回しても良いと思わねー?」
手段を選ばなさそうな彼の物言いにこれ以上何か言い訳を連ねる事なんてできないというのは、体面の良い言い訳でしかなく、結局彼の誘いに頷いてしまうのは、私が蘭に二度目の恋をしているからだ。
◆
私の職場の近くからタクシーに乗りやって来たのは表参道で、昔はよく蘭と一緒に歩いた道であり、息子が蘭と出会ってしまった場所でもあり、今となっては曰く付きの場所である。
蘭のエスコートで日の暮れ始めた街路樹の下を歩いて行く。さわさわと風に揺れて葉が擦れる音がする中を進み、蘭が向かったのは所謂高級ブランドの路面店で、彼の選択に戸惑うがついて行かざるを得ない。
こういう所に来るには恥ずかしすぎる様な身なりの私に、丁寧に接客をし始めたのは同世代位に見える女性スタッフだった。彼女は、蘭の事をよく知っていて、それをひけらかすかの様に何かにつけて「蘭さんは」と彼の名を口にした。
また、彼女は蘭の女の好みにも精通している様で、蘭が好みな女の装いをコーディネートしてゆく。それは、確かに蘭が連れていた様な女の姿で、若い頃にその様な女を何度も目にした事のある私としては、些か居心地が悪い。
しかし、この店の対応は蘭がこの店を長年贔屓にしているからのものである事も感じ取れるわけで、蘭のエスコートでここへやって来た私は、作り笑いを顔に貼り付けるしかない。
例の女性スタッフが見繕うコーディネートが、私達よりももっと若い女性向けに見えるのだって、きっと私の考えすぎだ。そんな、小さな嫌がらせみたいな事を、この世界的に有名な老舗ブランドの、ベテランに見えるスタッフがするわけないと信じたい。
複雑な気持ちを隠す為、こちらも一貫して営業スマイルを浮かべて静かに接客を受け流していた私を、不意に蘭が呼んだ。すると蘭の連れである私に対してあれこれ説明しながら提案していた女性スタッフの意識も蘭に向く。
「今日はコレを着せてみたいんだけど、あとは、任せるワ」
すかさず蘭が例の女性スタッフへそう言って、おそらくこの店の商品であろうものを彼女の方へと差し出した。
蘭からそれを受け取った彼女は、迅速かつ丁寧に仕事をこなし始める。先程までの接客よりもより穏やかな物言いで、てきぱきと私を試着室まで案内して着替えを促したのだ。確かに彼女は仕事ができるのだろう。蘭が選択したワンピースを着た私を綺麗に整えて、彼の前へと差し出し、この服に合わせるならばとパンプスとサンダルも持ち出して来て合わせ始める。
「それと、これ。タグ外して。このまま行く」
蘭が選択して指示すれば、彼女はその通りにテキパキと動く。蘭のカードを受け取って決済をしている間に、私の着ていた服を売り物の様に綺麗に畳んで、私の服よりも価値がありそうな、ブランドのロゴが入った紙袋へ入れた。私が脱いだばかりのスニーカーも、服と同じ様に揃えて梱包され、紙袋へと収まる。その二つの紙袋を手にした彼女は、恭しく店の外まで私が脱いだ服と靴を持ち出して蘭を送り出す。
彼女が今売り上げた商品を、全て身につけさせられているのは私なのに、ここまでの間に私の意見など必要なかった。
「ちょっと、蘭……私、こんなの払えない」
またタクシーを停めて乗り込んだ蘭に続き、シートに腰を下ろして彼の肩に掌を置いた。
「こんなの?」
「このお洋服とか、靴も」
「あぁ、オマエに請求しねーよ。気にすんな」
「でも……」
「俺が脱がす服為の服贈ってンの」
「私、そういうつもりじゃ……」
「へぇ。金目当てじゃねーならさ。恋人はいらないし、結婚もしたくねぇのに、オマエ……他に、どんなつもりで俺ンとこ来てんの?」
蘭の肩に触れた手をやんわりと振り払われる。回答を探して口籠もる私の肩を蘭が強引に抱き寄せた。
「やっぱり、体目当てー?」
私の耳元へと唇を寄せて悪戯っぽく尋ねてから、彼は耐えきれなくなったのかクスクスと笑い出した。
「蘭ちゃん‼︎」
笑えない冗談に声を上げた私を横目に、彼のクスクス笑いは止まらない。
◆
次にタクシーを降りて蘭に連れて来られたのは、閉館間際の水族館だった。この辺りの飲食店かホテルにでも向かっているのかとばかり思っていた私は、意外過ぎた行き先に目を瞬いたのだけど、蘭はそんなの気にも留めないでチケットを買って進んで行く。
「水族館なんて久しぶり」
「そー?」
「らんちゃんが小さい時以来だもの」
「へぇ」
小さかった息子の手を引いて行った水族館を思い出し、やっぱり都会の水族館は全然違うものだななんて、感心してしまう。キラキラと輝くカラフルな光にライトアップされた水槽の中を泳ぐ魚もとても綺麗な色をしている。
魚すらもオシャレな水槽の中に見入っていると、蘭が私の背中に触れ、その掌がゆっくりと下へと滑り腰を抱く。
そういう雰囲気に呑まれて見上げた蘭の横顔さえキラキラしているように錯覚する。
「蘭ちゃんは、よく来るの?」
「いいや。俺も久しぶり」
そう言って水槽からこちらへと視線を寄越した蘭の真意は測れない。蘭は久しぶりなワケがない気がしているのは、この水族館の中も蘭がスムーズにエスコートしてみせるから。若い子もよりどりみどりであろうに、どうして私の様な子持ちの同世代なんかの女に構うのか。
やはり蘭の言葉はどこまでが冗談なのかが計り知れない。
「そうなんだ。蘭ちゃん……ねぇ、そこでお酒も売ってるみたい」
「へぇ……飲む?」
まるで私に言われるまで知らなかったかの様な白々しい物言いで尋ねてくる蘭へ小さく頷き、二人並んでそちらへ向かう。
仄かにフルーツの香りがする甘いお酒のボトルを買ってもらい、ちびちびと飲みながら蘭の隣を歩いて行く。
「みてみて蘭ちゃん。くらげ、ほら……綺麗。可愛い」
ライトアップされたくらげの水槽の前で足を止めると、蘭も一緒に立ち止まってくれる。ふわりふわりと水槽の中で揺れる姿を目で追い、甘い酒に口をつける。
いくつものくらげが揺れている中、どれも同じに見えるが、なんとなく一番可愛く見えた個体を指差し示す。私に示されたくらげはふわりと揺らいで、私の指先から逃げていった。
「ナマエ、これ好きだよなー。昔も、ずっと水槽に張り付いてたろ」
「そうかもね……」
蘭と水族館に来るのは今日が初めてだ。彼の事だからきっとまた誰かと私を勘違いしているに違いない。そんな事にいちいちめくじらを立てていると疲弊する事は、もうイヤという程に身を持って知っているし、大人になって受け流す術を覚えた心は、あの頃ほどの引っかかりも感じなかった。
「ねぇ、らんちゃんさぁ……全然返事くれないんだよね。もう着いたら着いたって教えてくれたらいいのにー」
「俺じゃなくて、アイツの話?」
「……うん」
「ふふ♡なーんで、オマエはこんな紛らわしい名前付けっかなー」
「だって、もう会わないと思ってたし」
「……ンだよ、それは。……でー?まだ俺に乗り換える気はねーの?」
「そういう言い方やめてよ」
履き慣れないけれど、おろしたてなのに不思議と歩きづらくはないパンプスの踵を鳴らして水槽の先へと進んで行く後ろを蘭がついてくる。
「じゃあ、どういう言い方されてーの?」
「別に」
「なーに拗ねてんだよ、オマエはさー……」
昔々に蘭の口から散々よこされた様な、ちくちくとつっつく様な小言がまた始まるのかと身構える私を蘭が抱き寄せる。
至極スムーズに彼の腕の中へと収められ、瞬く間もなく見上げた蘭が背中を丸めて顔を寄せてくるから、視線を伏せた。
手の中の酒便の飲み口を唇へと触れさせると、蘭の指が私の髪に触れる。少しだけかさついた指先が、頬にかかる髪を耳にかけた。
「変わらないなー、ほんと」
柔らかな声音が緩やかに鼓膜を揺らす。これでは、水槽の中を泳ぐ姿は見られない。
蘭が溢す吐息から逃げる様に首を捻って手の中の酒瓶をくいっと煽って彼の腕の中から逃げ出す体を、蘭の長い腕が追う。
「やめてよ、こんなとこで……」
光沢のあるスーツの袖を軽く払う私の頬は熱いのに、こちらを揶揄って楽しんでいるかの様な蘭が憎らしい。