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2007年 5月26日(土)
2007年 5月26日(土)
蘭の誕生日が終わった。
彼氏の誕生日だから一日一緒に過ごせるものだと思っていたのは、どうやら私だけのようだ。
5月25日の夜にウチへ来た蘭は私に夕飯を作らせて食べた後に、ウチの冷蔵庫に缶ビールも缶酎ハイも入っていなかったことへ文句をつけた。お酒を飲まなくなった私が、蘭の分として買っておく事を忘れていたのが悪い。自分の事を棚に上げて理不尽な事ばかりを口にするのは、蘭の常。そんなのにはもう慣れてしまっていて、でも蘭が全てで彼に口答えができない私は、また「ごめんね?」の一言を零すだけ。
そんな私に苛立ちを隠さない蘭が、携帯電話を取り出して誰かに電話をかける。その電話はすぐにつながった様で、誰かと喋り始めた蘭。彼は携帯電話片手に、私の住む狭いワンルームの部屋を出てゆき、しばらくしてまた玄関から顔を覗かせた。
「竜胆と飲みに行ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけてね?」
「ん」
ソファに放り投げられていた自分の財布をポケットに突っ込んだ蘭は、日付が変わり5月26日になっても帰ってくる事は無かった。
蘭は狭いこの部屋に入り浸ってはいるけれど、彼には弟と2人暮らしをしている広い部屋もある。きっと弟と住む自分の家に帰ったのだろうと、私は思い込む事にした。
蘭の携帯電話から女の猫撫で声が漏れてたのも、狭いこの部屋では私にももちろん届く。蘭が私に嘘ばかり言うのも、常だ。
5月26日の0時過ぎ、最近ずっと悩まされている体調不良から来る眠気に素直に従い、蘭の匂いが微に残った自分のベッドで1人で眠った。
お昼近くまで寝こけた私は蘭に電話したけれども、蘭が電話に出てくれる事は無かった。
普段、蘭の携帯電話に残す着信履歴が一件だけだと、どうでも良い事で連絡してくるなと文句を言われるので、その文句を回避するために、あと5回立て続けに蘭の番号に電話した。これで文句は言われないで済むだろう。
蘭の敷くルールに従い蘭の携帯電話に着信履歴を残したので、それを見た蘭から連絡が来るだろうと期待してしていたのだけど、私が昨日の残り物でお昼ご飯を済ませても蘭から電話がかかってくる事は無かった。 私が部屋の掃除を済ませても、スーパーへの買い出しを済ませても、空がまた赤くなって白くなり紺色に移ろっても、蘭からの連絡は無かった。
もう一度、蘭の携帯電話へと電話をしてみる。今日も蘭の分も夕飯を作るべきか確認をしたくて電話をかける。そう、心の中で理由づけして押し込んだ通話ボタン。呼び出し音に続いて電話に出たのは、蘭じゃ無かった。
「もしもーし?」
はっきりと聞こえたのは女の声。それから背後でガヤガヤしている喧騒の音。
「おい、勝手に出るなよ」
それから、蘭の声。私は、反射的に電源ボタンを連打してた。
すぐに紫色に光り出したディスプレイに表示される 蘭 の文字。蘭が私の携帯に勝手に登録した蘭だけの色を放って、これも蘭が勝手にダウンロードして登録したラブソングを大塚愛が歌い出す。
こんな曲を聴いていたくなくて、電源ボタンを長押しすると静かになった携帯電話。それをパタンと折りたたみ、いつも蘭が寄り掛ってるソファのクッション目掛けて投げつけたのが、5月26日の午後七時の十五分前。
蘭の誕生日が終わるまでまだ時間がある。その間に、不安と期待に飲まれた私は何度もトイレで嘔吐した。胃の中に出す物なんてなんにもなくなって、込み上げてくる酸っぱさの残る口を濯いで、深呼吸を繰り返しながら飲んだ水すら吐いて苦しさに呻いた。
5月27日がやってきても蘭がこの部屋の鍵を開ける事は無く、蘭は弟と住む広い部屋に帰ったのだと、私は思い込むことにした。
蘭の誕生日に渡したくて用意したプレゼントと、伝えたかった事。それは蘭へと渡る事無く翌週の燃えるゴミの日に私の手元からも離れていった。
6月に入ってからふらりとこの部屋にやってきた蘭に、そういえば誕生日のプレゼントは?と尋ねられた私が燃えるごみに出した事を告げると彼はまたその右手を振り上げた。
蘭がふらりとやってきたその日、私のお腹の中で胎嚢が確認された。ゴマ粒みたいなそれが写った一枚の黒い写真も、蘭に見せる事はしなかった。その日、私は出会ってから初めて蘭に逆らった。私は、目の前にいる嘘ばかりつくこの男より、腹の中のゴマ粒みたいなそれを選んだんだ。