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 私が僅かばかりの立ちくらみを起こしてしまってからすぐに、蘭は『知り合いのパーティー』をあとにした。ずっと蘭のペースで彼の用事に連れ回されて疲弊しきった私だけを帰してくれれば良いのに、蘭までもがお店を出て来てしまったのだ。
「ねぇ、私一人で帰れるから、蘭は……」
「だーめ」
「でも」
「行こ」
 わたしの腰にまわる蘭の掌が、ぽんっと軽く私の腰骨のあたりを叩く。横目で蘭の鼻筋が通った綺麗や横顔を眺めて見ても、蘭の意図は汲み取れない。
 彼が私を一人で帰そうとしない理由を思い巡らせて、そういえばと気づいたのは蘭の服を私の肩が預かっていた事。いつの間にか私の体温に馴染んでしまっていたけれど、このジャケットは紛れもなく蘭の私服である。
「あぁ……ほら、上着なら返すから」
 肩へ羽織らされたままの彼のジャケットへと伸ばした私の手を、蘭が静かにそっと掴んだ。
「だーめ。まだナマエの背中、こないだ警棒で打った痕だらけだろー」
 蘭に言われた通り、確かに私の背中には彼が打ちつけた傷がある。傷自体は塞がったけれど、傷跡がまだ色濃く変色していた。もう痛みもなく、動くと皮膚が張ってひりつく様な違和感を感じる程度のものである。
「それでこれ?」
「まぁね」
「……あの、ありがと」
「ん。ふふ♡でもまー、それだけじゃーないし〜」
 なにかを含んだような言い方をする蘭は、やはり企みを含んだ笑い方をしてみせた。嫌な予感しかしない蘭のその表情には覚えがある。思わず生唾を飲み込み、首を竦めてしまう私を見下ろす蘭の口角が上を向く。
「二人っきりになれるところ行こ」
 不意に蘭から囁かれた言葉と、その声に耳を疑う。それはまるで恋人に囁きかけるような、柔らかく甘い声で、ゆるりと耳元に纏わりついた。ソウイウ時に蘭の機嫌が良い時に与えられる、ただ腰に響く様な低く掠れた声とも違う質のもの。
 柔らかな中でも私の判断力を最も簡単に奪う毒を含んでいる声に、まだ私は縛られている。


 交差点で信号を渡って、道幅の狭い坂道を進む蘭の隣を行く。
 地元へと帰るわけでもなく、まだ私を連れ歩く蘭の行先に、なんとなく予想がついてしまった。それは私をとてもやるせない気持ちにさせるところである。
 二人っきりになれるところ。と、蘭が言っていたのはこういう事かと理解したのは、この先にはソウイウところが軒を並べている事を私も以前理解したからだ。
 蘭の囁きを間に受けたとしても、いつもの如く彼の部屋へ連行されるものだとばかり思っていた。蘭と私がそんなところに行くなんて、考えてみた事なんてなかったんだもの。ちょっと、どうしたら良いかわからないそんな戸惑いから、蘭の隣を進む私の足取りはもちろん重くなる。
「歩くの疲れたー?」
 急に蘭がそんな事を言い出す。私の足取りが重たくなった事に気づいたのかもしれない。
「蘭……その……まだ、帰らないの?」
「んー……今、竜胆ンとこにさ、女居るから」
 蘭から返ってきた言葉は、尋ねてしまった事を後悔させる。
 繋いでいた手を握り直した蘭が、軒を連ねるうちの一箇所の入り口を潜った。
 蘭の半歩後ろをついて歩き、部屋を選んだ蘭に続く。エレベーターホールで蘭が足を止めて、私も彼の隣で立ち止まる。
 なんとなくこの沈黙が気まずい。
 エレベーターがやってきた事をランプが示し、目の前の扉が開いた。
 扉の大きさの割にエレベーターの奥行きがなくて狭い事に驚いてしまった時に私の隣にいた彼は、蘭が私達の前に現れて私へ警棒を振り下ろしたあの日から連絡が取れなくなってしまった。
 このようなところへ、私が以前に足を踏み入れた経験がある事は、蘭には知られない方が良いだろう。ぼんやりとだがそう感じて、蘭に手を引かれて乗り込んだ狭い空間で、また喉が苦しくなった。
 息ができなくなりそうな私の手を、蘭の手がそっとそっと握り直す。
「ナマエ、もしかして緊張してんの?」
 蘭の問いかけに僅かに頷いた。
 何か言葉を探してしまって、ボロが出でしまう可能性が否めない私は、ただひたすら蘭に合わせる。きっとこれが今の私にできる最善の策であると信じて。
「こーいうとこ、はじめて?」
今度は大きく頷き、蘭の言葉を肯定する。
 蘭は何も言わない。だが、彼が私へと向ける視線が少しだけ柔らかくなった気がする。
 エレベーターが上昇を止め、カタリと僅かに揺れて扉が開いた。いつになく、ゆっくりとした足取りで歩き出した蘭の隣を、蘭と並んで歩いてゆく。
 狭い場所から出たのに、私の息苦しさは緩和されない。不安だけを募らせる私を連れて蘭が進んで行き、立ち止まる。蘭が止まるから私も止まる。
 部屋の扉をゆっくりと開いた彼に、軽く背中を押されて先に入る様に促され、私はまた一歩を踏み出す。
 扉の向こうへと進んだ私に続いて、蘭もドアを潜り、ゆっくりと扉が閉められた。そして、どうしてか私は蘭の腕の中。美容院の匂いなんてわからなくなる位に、蘭の重たい香水の香りがダイレクトに私を閉じ込める。
 蘭に強く抱きしめられた。こんなの心臓に悪すぎる。どうしたらいいかわからない私は、悔しいけれど、ただただ硬直するばかりで、それを緊張感として蘭は受け取ったみたい。
 私の耳元で柔らかに蘭が笑う。
「そんな固くなんなって。そんな警戒されたら蘭ちゃんショックだワー」
 言葉とは裏腹に全くショックだなんて思っていなさそうな蘭の呑気な声が鼓膜を震わすから、息苦しさは、晴れない。


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