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灰谷くんが二度目の逮捕を経て鑑別所に入ってからずっと。灰谷くん達の弁護士として彼らと接するママの旦那さんは、彼らが逮捕されるきっかけとなった抗争について何か知る事があればそれを逐一私に話した。
灰谷くんが私に「喧嘩」と言っていたそれは、喧嘩なんて言葉で括るにはあまりにも悲惨すぎて、これを喧嘩という一言で片付けた灰谷くんを、私は恨んだ。
イザナくんが亡くなったという悲しい事実を一人で受け入れるのは辛くて、灰谷くんに会いたいのに会う事は叶わない日々。手紙のやり取りならできると教えてもらったので、実際にペンを握ってみたんだけど、思う事を何ひとつ文字に表す事なんてできなくて涙が溢れた。
自分の気持ちを形にするのはとても難しくて、それを声に乗せるのだって苦手だし、文字に起こすのはさらに難しい。文字にしてしまえばそれが目に見える形となり物理的に存在してしまうし、私が自分の気持ちを表す事が苦手なのを解って耳を傾けて待ってくれる灰谷くんはここにいない。
初めて彼が逮捕されたと聞いた時は、とにかく驚いてしまった気持ちが強くて、いじめっこの灰谷くんが学校に来なくなった事で私はすごくすごく安心した。
今度の逮捕は、灰谷くんがいなくて不安で不安で仕方がなかった。
◆
灰谷くんが帰ってくると聞いたのは、店のママの口からだった。
その日のママはとてもご機嫌で、いつものように店にやってきたママの旦那さんもとてもご機嫌で、二人が灰谷くんと竜胆くんが帰ってくる事をとても喜んでいるのが手に取るように解った。
「蘭ちゃんが帰って来るんじゃ、おじさんがナマエちゃんの事を送って行く事も今日が最後になるのかな?」
灰谷くんが再び逮捕されてから、私のバイトが終わる時間にママの旦那さんがお店に居れば、「蘭ちゃんの代わりに送るよ」と言って帰り道に付き添ってくれていた。
申し訳ないからと何度もお断りしたのだけど、ママの頼みは断れないという彼が「ナマエちゃんの帰り道を見守らないと、僕が家に帰れなくなってしまうからね」と困った顔して言うものだから、私はママと旦那さんのお二人のご好意に甘えていた。
「明日の午前中に、蘭ちゃん達を迎えに行って来るからね」
「灰谷くん達が帰ってきたら……」
「ナマエちゃんはなんの心配もいらないよ。それに、蘭ちゃん達だって何も変わってなんかなさそうだ。おじさんと同じであの子達も、反省しているフリは得意なんだ。小学校から一緒のキミなら、きっと心当たりがあるだろう?」
やはりいつもより上機嫌で、いつも饒舌に灰谷くん達の話をするママの旦那さんは今日はいつも以上に雄弁だ。確かに学校で先生に叱られても反省したフリだけをして見せる灰谷くんには心当たりがある。
逮捕されるという事も、彼が今居る鑑別所というところも、私には馴染みなんてなくてどういうものなのかイマイチわからないのだけど、蘭が蘭のまま帰ってきてくれるのは、なんだか嬉しい。
始まったばかりの大学生活の話、新しくできた友人の話など、我儘だけど、彼に聞いて欲しいと思ってしまう事はたくさんある。私の話なんて面白くもなんともないし、灰谷くんにはきっと興味すらもないのだろうけれど、また背の高い彼が私の言葉を聞こうとして背中を丸めてくれたらいいな。なんて、とても私に都合の良い事を夢見ていたんだ。
灰谷くん達が帰ってくる日は、午後は夕方までみっちりと講義を取っている日だった。午前中に迎えに行くと聞いていたので警戒したお昼休みも午後の講義中も灰谷くんからの着信は無かった。
同じ授業を受ける事が多くて仲良くなった友人と、今日も共にお昼休みを過ごしていたら「ケータイ見過ぎ!」と注意される程に携帯電話を確認していた。
「ナマエがケータイばっか見てんの珍しいね」
学生でごった返すお昼休みの食堂で、友人と集ってお昼ごはんを食べ進める最中にも触ってしまう携帯電話を、隣に座る友人が覗き込んできた。
「……そうかな?」
電波が無いなんて事はないのに、メッセージを問い合わせてしまう携帯電話は新着メッセージも受信しない。
「今日なんかあるのー?」
「今日ね。帰ってくるって、聞いた……から」
「帰ってくるって、あの、今会えないっゆーカレシ?」
「カレシとか、じゃ……なくて……」
「なにそれ初耳。ナマエの恋バナ、超興味ある」
「私も聞きたいソレ」
騒がしい食堂の中で、私の隣に座る友人がまた紛らわしい事を口にするものだから、その話題に食いつく人が出現した。入学早々に仲良くなった友人に合コンなるモノに誘われ、「そういうのはちょっと……」と断った時に根掘り葉掘り尋ねられてしまった末に、好きな人がいるとちょろっと話してしまった。私の話を変に誤解しているかもしれない友人が、勝手に私の話を誇張して話し始める。
「ナマエの中学の同級生なんだって。ほら、合格発表の時に居たモデルみたいな男連れ。見なかった?背ぇ高ーい、めちゃくちゃイケメン!しかもロン毛」
しかも、合格発表を灰谷くんと一緒に来ていたのを偶然見られていたらしくて、その時の事を彼女は今日も口にした。
「見た見たそれ。あれ、ナマエだったの?」
「イケメンのロン毛のカレシ私も見たい!プリとかないの?」
「で。その、イケメン。どこ行ってたの?」
あっという間に灰谷くんの話題が食堂のテーブルを囲んでしまった。もはや、どうしたらいいのか解らない私に、友人からの質問と視線が突き刺さる。遠慮なく向けられるそれは、灰谷くんのせいで不登校となり、友人関係リハビリ中の私を確実に追い詰めた。
「鑑別所に……」
私が馬鹿正直にも口にしてしまった言葉にその場の空気が凍りつく。対応を間違えてしまった事に気付いても、発してしまった音は取り返せやしない。
「うそでしょ⁉︎」
「それは流石に笑えないって〜」
本気か嘘か目を瞬く子と、乾いた笑いを浮かべて受け流す子。それから、灰谷くんの話を誇張きて話していた友人が私の袖を引いた。
「それがマジならもう言うな」
私の耳元で小さく言ってきた彼女は大きく声を張って「冗談に決まってんじゃーん!」と、和やかに放った。
そうすれば私の失言も冗談とされて場の空気も元通り。みんなそれぞれにお昼ごはんの続きを食べ始めた。
灰谷くんが鑑別所から出てきた日は彼からの連絡は無く、その日は私のバイトのシフトも入っていない為、店のママから何か聞く事も出来なかった。
そして灰谷蘭からの連絡は無いまま、バイト中にお話したママの旦那さんから灰谷くんが戻って早々に何処かへ出掛けて数日戻っていないと聞いた。灰谷くんを探しているそうで私に心当たりを尋ねられたのだけど、そんなものあるわけない。灰谷くんが帰ってきたら、会えるものなのだとばかり思っていた私は拍子抜けしてしまったのだけど、どうやら彼は私の事なんてもうすっかり忘れているようだ。その言い方も烏滸がましいかな。灰谷くんにとっての私という存在が、その程度のものであったのだろう。
彼が逮捕される前に最後に見た灰谷くんは女の子とデート中にも見えるような姿だったし、相手に固執しているのはきっと私だけ。
「灰谷くんだし、な……」
よくよく思い返してみれば、灰谷蘭というのはそういう男だと思い出す。
灰谷くんが鑑別所から出てきた日から一ヶ月が過ぎても、灰谷蘭からの音沙汰はないまま。私の携帯電話の着信履歴にも発信履歴にもメールボックスにも、灰谷蘭という文字はなくなった。
同じ大学で同じ学部の友人達に飲み会へ誘われたのは、そんな時だった。
◆
飲み会というのは名ばかりで、こういう飲み会は合コンというのだそう。それは、その飲み会に参加して随分経ってから知った事。
私が通うのは女子大だから、私が大学生になって出来た友人も当たり前に皆女の子だった。
友人に誘われて行った先の居酒屋の席には、既に私達以外の飲み会の参加者が揃っていた。友人達に続いて壁際のソファ席に座った私達の向かい側の席に座っていたのは全員男の子で、ぱちりと目を瞬いてしまったのは私だけ。友人達はみな解って来ていたらしい。それを知ったのも、随分と後のことだった。
もちろん未成年だし、灰谷くんと違ってお酒を飲む習慣の無い私は当たり前にソフトドリンクを頼んだのだけど、このテーブルを囲む私以外のみんなはそうでは無かった。隣の席に座る友人に、カラフルなカクテルの写真が印刷されたメニューを指差してジュースみたいな味である事を説明されたのだけど、それを頼む気にはなれなかった。
ばかみたいだけど、灰谷くんが彼いない場で酒を飲まないで欲しいと私に言っていた事が引っ掛かったのだ。
「お酒は苦手?」
「そうですね……」
向かい側の席に座っている人が話しかけてくれた。一人だけソフトドリンクを飲んでいるから気を遣ってくれたのだろうか。
「茄子も苦手?」
「茄子は苦手じゃないです」
「じゃあ、漬物でも頼もうか」
「はい」
気を遣って話しかけてくれた人に、気の利いた答えを返す事ができないから私たちの会話はそれで終了。私に声をかけてくれた人が店員さんを呼び止めて、茄子のお漬物を注文する。それに便乗して追加のお酒を注文する子がいて、一応この集まりも賑わってはいる。
お酒の席も人付き合いも得意ではない私の周りは、賑わっていた。その雰囲気の中に居るから、なんとなく会話に混ぜてもらえる事もあるのだけど、疲れてしまう。
飲み屋のカウンターでアルバイトをしているくせに、飲み会というものは少し苦手だ。気心知れた友人とのおしゃべりは楽しいけれど、こういう場はそうもいかない。
この席での二時間の飲み放題が終わる頃には、私は完全に疲弊していた。二次会に行くという友人達に「今日はこれで帰る」と告げた私を、駅まで送るという人が現れたのだ。それは茄子の漬物を頼んでくれたあの彼で、繁華街から駅までの道のりは明るいし人通りも多いからと遠慮したのだけど、彼は引いてくれなかった。
六本木の繁華街より幾分か平和な道のりを、駅へと向かって歩いてゆく。その最中に連絡先を尋ねられて、なんだか断りづらい空気感を感じて彼と連絡先を交換したのだけど、この交友関係の広がりが吉と出た。
一人だけソフトドリンクで過ごしていた私に気を遣ってくれて、駅まで送ってくれた彼とお友達になれたのだ。私の話を穏やか様子で親身に聞いてくれる彼が、私の男友達を経て彼氏になるまでそう時間はかからなかった。
お友達となって早々に「彼氏はいないの?」と尋ねられた時に、私を彼女だと言った灰谷くんの顔が一瞬脳裏に浮かんだのだけど、私は彼の言葉に頷いた。私が最後に見かけた灰谷くんの姿は女の子と二人で親密そうな雰囲気を醸し出しているように見えたし、鑑別所から帰って来てもう随分経つのに連絡のひとつだってくれない。
そもそも私と灰谷くんが恋人同士のようなお付き合いをしていたかと言われてみると違う気がする。
灰谷くんと違って、彼は私に嫌がらせをしないしパシリにしない。もちろん、私を打たないし、踏んづけたりもしない。ソウイウ時に、意地悪言わないし、首を締めてもこない。
絵に描いたように順調なお付き合いをしていた私と彼の前に、灰谷くんが現れた。彼と手を繋いでいた私の手を平手叩いた灰谷くんは、以前、灰谷くんに警棒で叩かれてうっすらと淡い傷が残った私の手の甲に、またあの警棒を打ち込んだのだ。
灰谷くんに警棒で叩かれるのは、久しぶりだ。
ひゅんっと空気を切る音が怖くて、目を開けてなどいられやしない。勢いをつけて空気を切り裂いた警棒が、私の右手の甲を叩いて、ガンッという大きな音を響かせた。叩かれた右手から、繋いでいた彼氏の手が離れてゆく。ぎゅっと強く握っていたのに、それは私の手を振り払うようにして、ここから逃げて行った。
「灰谷く、……ん」
「ん?」
「……ら、ん……」
「な〜に、してンの?ナマエ」
「……ぁ、……」
コツンっと地面を灰谷くんの警棒の先が叩いた。
灰谷くんの口調は緩く間延びしたそれで、彼の声音は柔らかい。口元だって緩く弧を描いて微笑んでいる。だけども、灰谷くんが腹の底から怒っている事を、私の意識は察知する。灰谷くんの怒りをひしひしとこの肌に感じて、私の瞳孔は開いてしまうし、唇だって半開きのまま閉じる事なんてできない。
硬い革靴の底が床を蹴る音がして、灰谷くんがまた一歩私に近づいた。地面に靴底がくっついてしまったかのように動けない私と灰谷くんとの距離が狭まり、伸ばされた長い腕。彼の冷ややかな手が私の頬に触れた。
「今の男、ナニ?友達?」
「……ぁ、のっ……」
「ん?大学の友達なら、ちゃんと紹介してくれなきゃ悲しーなー。蘭ちゃん、ショックで手ぇ震えちゃってンだけど〜」
震えているのは灰谷くんの手などではなく、私の体だ。
灰谷くんへ言葉なんて返せない私の唇を親指の腹でぐにっと強く押しながら撫で付けた灰谷くんの手元が、私の顔を鷲掴みする。
唇を通って頬に刺さった親指と、反対の頬の肉にめり込む残りの四本の指が、しっかりと私の頭を掴んで、灰谷くんがそのままこの身を地面に向かって投げつけた。大きな音を立ててその場に倒された私の体が地面に叩きつけられる。この六本木の街で、灰谷くんが公道で人を地面に叩きつけたってみんな見て見ぬ振りをして通り過ぎる。だって、この人は灰谷蘭だもの。
恐怖にかられて、灰谷くんの成すがままその場に転がされた私を灰谷くんが警棒で叩いた。また空気を切り裂く鋭い音が鳴り響き、続いて勢いよく警棒が皮膚にぶつかる。ごんっと骨に響く。見た目よりも、与えられる痛みよりも、派手で大きな音が響く。背中や腰を何度も灰谷くんに叩かれ、私は地面の上にただ体を丸めて泣いていた。
泣きながら震えている私の腰を打った警棒の先が、地面に突き立てられるようにしてあてがわれた。ぐっと勢いをつけて警棒を押し込んで縮めてゆく灰谷くんが私の傍で膝を折る。ぐすぐすと鼻を啜ってしまう私の、畝る髪の毛に灰谷くんが触れた。
「で。さっきの男、だれ?」
「……っ、……ふっ……ともだ、ち……」
「オマエのガッコ、女子大だったよな?」
「同じ学部のともだちの、ともだち」
「ふぅん♡で?ナマエはナニしてたの?」
「……お、うちっ……っ……かえる、と……こっ……」
泣きながら灰谷くんからの問いかけに答える私を、灰谷くんが抱き上げて立ち上がらせる。黒く汚れてしまった膝小僧を、灰谷くんの掌がぱんぱんっとはたいた。
涙と鼻水で汚れた顔を覗き込んでくる薄紫が懐かしい。
「少し、ウチ……寄ってけよ」
「……ら、ん」
「おいで」
「っ……蘭、……あの。私……」
「いーじゃん。久しぶりなんだし」
そう言って、灰谷くんの左手が私の右手を取る。掌と掌を合わせて、そっと手を握られた。彼が鑑別所へと入る前に、ここ暫くは、腕を組む事を灰谷くんから強いられる事が多かったから、灰谷くんと手を繋いで歩くのは久しぶりだ。緩く恋人繋ぎに私の手を握った灰谷くんの長い指が、彼が警棒で打ちつけた箇所に触れる。また赤い血を滲ませた傷口に灰谷くんの指が触れた。
「蘭、痛いの、それ」
「んー?」
また涙ぐんでしまう私の声は灰谷くんへと届いている様なのに、彼は僅かに首を傾げてこちらを見下ろす。どこか焦点の合わない綺麗な菫色の瞳が、穏やかに揺れている。
灰谷くんの住むマンションに着くまでずっと、指と指を絡めて灰谷くんに手を引かれて歩く。灰谷くんの隣を歩く事が出来る事が嬉しかった私はもういない。
灰谷くんの前から逃げ出したくて、でも彼は強く手を握り時折傷口を指の腹でなぞる。血を滲ませてぴりぴりとひりつく傷口が熱い。冷え性なはずの灰谷くんの手も熱い。
灰谷くんから与えられた痛みと恐怖にすすり泣く私を、彼は部屋の中へと導く。玄関に揃えて置かれたヒールのパンプスが、この家への来客を示していた。
竜胆くんのお客さんかもしれないし、灰谷くんを待っている誰かかもしれないし、私がバスの車中から灰谷くんを見かけた時に彼と共に居たあの人かもしれない。玄関で靴を脱いだ灰谷くんの視界にもそのヒールは入ったであろうが、彼はそれを気に留める様子を見せぬまま私を引っ張り灰谷くんの部屋のドアを開く。
玄関先に並んでいたパンプスより、私を部屋に引き摺り込む事を優先した灰谷くんを目の当たりにして、仄かに昇ってくるこの気持ちはどう説明すべきものか。恋とか愛とかそういうものとは違う、悦。一種の優越感かもしれない。ぐいぐいと引っ張る灰谷くんへ「や。蘭。やめて、痛いよっ……」と縋る私を無理に引き摺り込む灰谷くんは、空気を叩くように勢いよく部屋の扉を閉めた。
強く引っ張られてバランスを崩した体は、簡単に床へ向かって薙ぎ倒される。大きな音を立てて床に打ちつけた腰も肩も痛い。そこから起き上がる間もなく、灰谷くんが警棒を振り出した。
鋭く響く音に怯えてしまう体に振り下ろされる警棒は容赦なく私の体を打つ。脹脛から太腿へ、警棒が何度も皮膚を打ちバウンドして跳ねては、また振り下ろされる。鈍く骨に響く打撃はバチっと大きな音を立てて、波打つ皮膚は警棒にそって線を成し、じわじわと熱を持っていった。
「……っ、ひ…………っう、…っ……」
何度警棒で灰谷くんにぶたれても、声にならない悲鳴をあげてしまう。
緩急を付けて打ち込まれる警棒が脇腹を何度も打つ。同じ箇所を同じように打たれる事で、そこに受ける打撃の重さは増した。
灰谷くんに警棒で打たれる事なんて幾度となく経験しているのだけど、繰り返し振り下ろされる警棒から逃げる術を私は知らない。起き上がる事もままならない体を捻り、こちらへと警棒を振り下ろす灰谷くんを見上げると、灰谷くんが私を見下ろしている。その目は焦点が合わないようで、私を見下ろしてはいるが私を見てなどいない。いつも真っ直ぐに私を見る灰谷くんが、私を見ていない事に、警棒で叩かれる恐怖よりも強い恐怖を感じた。
目の焦点は合わぬとも、振り抜く警棒の狙いは定まる。
的確に打ち付けられる警棒からは逃げられぬが、身を捻って手を伸ばせば、灰谷くんの足元に手が届いた。僅かに彼の足先を指先で掠める事には成功するが、彼に触れる事など叶わない私の手を、灰谷くんが踏み付けた。ダンっと大きな音が響いて、フローリングの床が揺れる。
「……っく……」
灰谷くんに手を踏み潰される事より、急に響いた大きな音に驚いてしまった私の腹を灰谷くんが蹴った。床の上をごろりと転がされて、仰向けになった私の体の上に警棒が落ちてくる。それはそのまま彼の手を離れて、私の上に落ち、床へと転がった。硬いフローリングの床を警棒が軽く打ち、カツンっと乾いた音が響く中、灰谷くんが私の上に馬乗りとなる。
目を見開いて見上げた綺麗な菫色は、もう私を見ない。
灰谷くんの両手がこちらへと伸びてくる。大きな掌が私の喉を掴んで、しっかりとした手つきで首を覆い込んだ。じわじわとゆっくり力を込められる。
「……っ、ぅ……ぅぐ……」
親指と人差し指の付け根が喉に食い込んで、首を包み込む掌に灰谷くんの体重が乗った。彼が突っ張る両肘は、私の首へと確実に重さかけてくる。
喉に食い込んでくる指が圧する痛みに呻く私は、気道すらも灰谷くんの手に潰されて空気を求めて踠いた。いつものように締めては緩めてと緩急をつけながら首を締めて楽しんでいる灰谷くんはそこに居ない。彼は的確に、私の呼吸を奪っている。
彼の腕の中で苦しみ踠けさえすれば与えられていた空気の通り道は、僅かさえも与えられない。
何度灰谷くんに殺される事を恐れたかわからないが、恐れる間も与えられず、私は灰谷くんに殺されるようだ。
額が割れるような頭痛が襲ってきて、渦のような耳鳴りに飲み込まれる。
彼に言いたい言葉伝えたかった事は様々あれど、それはどれも形にする事なんてできなかった。
耳の中で渦巻く不快な音がぐるぐると頭の中を駆け巡り、大好きだった薄紫を私から奪ってゆく。
どうしてか痺れているようで、上手く持ち上げられない腕は酷く重たい気がした。
ごめんなさい。私には、もう、なにも見えません。
「ナマエ」
名前を呼ばれ、軽く頬を叩かれて、我にかえる。
瞳孔を開いたままの眼球を動かすと、灰谷くんの顔が私を覗き込んでいて、私は掌に強く爪を食い込ませて自分の手をキツくキツく握り込んでいた。その手の中には、灰谷くんの服の袖。両手で繊維を握り込んで服が伸びるほどに強く、彼の袖を引っ張っている事に驚く。
「ナマエ」
もう一度灰谷くんに呼ばれて、ぱちりと瞬きをした私を視界に入れた淡い薄紫が、ほんのりと揺らめく。
「ナマエさー。なんで男と一緒にいたの?」
私の腹の上に座る灰谷くんが首を傾げたままで問う。
答えようにも舌が縺れて上手く言葉を発する事ができなくて、震わせたかった声帯は焼け付くような痛みをもたらせた。
身を捻り咳き込んでしまう私を、灰谷くんが見下ろす。
「もー、オマエをひとりにしとくの心配になるから、やめろよな〜」
笑みすら含んだような言い方をする灰谷くんの声が、急に穏やかになる。緩い言葉遣いで間延びした口調で話す灰谷くんに、こくこくと頷いてみせると声が出せない私の喉元を灰谷くんの指先が撫でた。
ゆっくりと、擽るような動きをする彼の指先は、まるで喉を鳴らす猫をあやすように動く。
「構ってやれなかったから、寂しかったー?」
しっとりとした艶を持ったような灰谷くんの声に曖昧に頷く私を目にした灰谷くんの瞳にもほのかな艶が宿る。
「なんだよ。それならそーで、さっさと連絡寄越せって。遠慮すんな〜?」
私の首を絞めていた筈のその手が喉を撫であげて、頬へと伸ばされた。頬を撫でてくる灰谷くんの手は優しい。ゆっくりとして柔らかい仕草も、灰谷くんのものだ。怖くない。
妙に安心してしまい、ほっと一息ついた私の腹の上から灰谷くんが退いた。
床に転がったままの体を捻り寝返りを打って起きあがろうとする私の二の腕を掴んだ灰谷くんが私を引き上げた。