18
すれ違い/素直じゃない/とばっちrind
小さい頃におばあちゃんが買ってくれた眠り姫の絵本が好きだった。
だけど、今ならわかる。
呪いにかかっているにも関わらず、自ら針へと手を伸ばして百年もの眠りにつくお姫様なんておバカが過ぎるし、この世に呪いを解いてくれる王子様なんてものは存在しないのだ。
存在するのは『ガッコ終わったら俺ン家集合』とメールを寄越したくせに、放課後早々にマンションのエントランスのオートロックのパネルの前で、慣れ親しんだ部屋番号を押しても全く無反応な自己中野郎である。
「もう、呼んどいてスルーなら最初から呼ぶなってー」
こんな事ならクラスメイトからの誘いを断らずに、私もみんなとカラオケ行けばよかった。
今更だけど合流する事を考えながらスクールバッグの中から折り畳みの携帯電話を取り出して、ぱこんっと開く。こないだの蘭の誕生日にオソロで買わされたストラップが、キラリと輝き揺れている。全く私の好みではないデザインのそれは、シンプルなくせに自己主張が強すぎて、スワロでデコりまくった私の携帯電話には不釣り合いで、溜め息が漏れた。
「取ったらめっちゃキレられそ」
それは独り言のつもりだった。しかし、世の中には独り言に乗っかってくる人間も少なからず存在する。
「兄貴とオソロだもんなー。キレられる程度で済めばラッキーじゃね?」
私のすぐ脇に立ち、横からオートロックのパネルへ向かって手を伸ばしてきた自己中野郎の弟が、キーケースからぶら下がるカギをパネルの鍵穴へと差し込んだ。
銀色の鍵を右に45度傾けて、目の前の自動ドアが開かれる。
黄色い袋を片手にぶら下げた竜胆くんが、自動ドアを通り抜けてこちらを振り向いた。彼の眼鏡のレンズが西日を反射して眩くて眉を顰めたのだけど、竜胆くんは眩しく無いのか不思議そうな表情をしてこちらを見てくる。
その間に、竜胆くんと私の間で閉まりかけた自動ドアを、彼がこちらへ一歩踏み出して再び開かせた。
「来ねぇの?兄貴ならまだ寝てるよ」
「もう夕方だよ?」
「さっき俺が買い物出る時、寝てたしまだ寝てるよ」
「流石に起きて出かけたんじゃない?」
「まさか。とりあえず来いよ。早く荷物置きてーし、アイス溶けっから」
竜胆くんがぶら下げている黄色い袋は重たそうにも見えるし、私のせいで彼のアイスが溶けるのは申し訳ないので、素直に竜胆くんの誘いに乗った。蘭がここに居ようと居なかろうと、蘭の呼び出しには応じた事実を彼の弟に証明してもらえる証跡を残すのは、あの自己中野郎に振り回されて生きている私にとってはとても重要な事である。
気に入らないストラップがぶら下がる携帯電話は、一旦スクールバッグへと戻して、エレベーターホールへと向かう竜胆くんの後に続く。
無言のまま、だけど私が乗り降りする間はエレベーターの扉を開いてくれる竜胆くんと、彼らが住む部屋のある階へと降り立ち、通路を進む。
目当ての部屋のドアの前まで来ると、また無言でドアを開錠して引き開いた竜胆くんが、ドアを押さえたままでこちらを見る。竜胆くんから無言の圧力を感じつつ、ドアを潜ってローファーを脱ぐ。廊下に上がってから、靴の向きを変えて揃えて置き直すと、竜胆くんが扉をゆっくりと閉めた。
玄関からすぐの蘭の部屋のドアの前に立ち、ノックをしてみるものの反応はない。やっぱ居ないのではないかという疑いの気持ちを胸に、そっとドアを開くが部屋の中はやはり静かだ。
しかし、人の気配があった。
蘭の拘りのベッドの上が、こんもりと盛り上がっているのだ。
「ほら」
私の背後からその様子を覗いた竜胆くんがそう一言だけ言って、彼は黄色い袋をぶら下げて廊下を進んで行く。
確かに蘭はよく寝るが、流石に寝過ぎではないか?
とにかく『ガッコ終わったら俺ン家集合』という蘭からのメールの内容を果たすべく、彼の部屋へと足を踏み入れる。
「蘭ー?」
彼の名を呼んでみても、なにも起こらない。
ベッドの上のこんもりとした盛り上がりは微動だにすらしなかった。
竜胆くんの言う通り寝ているように見える蘭の居るベッドへと近づく。近づけば、その、こんもりからちょこんと御尊顔が出ているのが見えてくる。美人は寝顔すらも美人である事を証明しているその寝姿を見下ろしながら、スクールバッグを足元へとそっと置いた。
艶のある長い髪をシーツの上に滑らせて、すやすやと眠る綺麗な人は、まるで子供の頃に好きだった絵本の眠り姫のようだ。口を開けばあの悪い魔女より酷い言葉ばかりを向けてくる蘭でも、眠ってさえ居れば無害な美人である。
これは目の保養だと、彼の眠るベッドにさらに一歩近づいた私が悪かった。突然目の前の景色ががらりと変わる。
美人の青白い瞼から伸びる房の整ったまつ毛も、毛穴なんて見えない、まるで陶器のような皮膚も、目と鼻の先よりも距離が短い、すぐそこにあった。さらさらとシーツの上を流れていた艶のある長い髪が、今度は私の上から降り注ぐ。
ぱちりと瞬きをした瞬間に、むにっと、唇に柔らかなものが触れた。それは一瞬の出来事のようで、数分の間だったかもわからない。
「まーた、いつまでその阿保ヅラ晒してンだー?」
美しく眠っていたはずの蘭が、鼻を鳴らしてまた人を小馬鹿にしたような言い方をした。
「蘭が、眠り姫みたいだったから」
「はぁあ?なーに馬鹿な事言ってんだよ」
「ヒトの事呼び出しておいて、なんで!寝てンのよ⁉︎」
「オマエがおっせーし」
「だって、私、学校‼︎」
「はーい。ナマエはガッコ行ってエライですねー」
心にも思って居なさそうな事を、抑揚皆無な蘭の声が紡いだ。サラリと金色の毛先が私の頬を滑り、蘭が私の上から退く。
「冷凍庫にオマエの好きなアイスあるから食ってていーよ。出かける準備できたら、着いてきて。行きたいトコある」
自己中野郎は今日も私の都合なんてお構いなしにクローゼットを開けて着替えを始めた。
「ほら、幸せに暮らしてめでたしめでたしにしてくれる王子様なんか待ってねーで、自分で幸せのアイス取りに行け〜」
「なによ、幸せのアイスって」
「こないだ、自分で言ってたじゃん。ドンキでアイス買ってーって駄々こねたのテメェだろ」
そんな名前のアイスも、駄々をこねた記憶も全く無いが、ドンキでアイス買ってと蘭に強請った気がしなくもない。しかし、王子なんか待ってないで自分で取りに行けという理論は蘭のくせにイイ線いってる気がするわけで、同調したい。
跳ね返りの強い彼のベッドから勢いよく起き上がり、蜘蛛の足が踊る腕を掴んで引っ張った。蜘蛛の足みたいな色した長い髪がサラリと揺れて、蘭の横顔がこちらを向く。背伸びをして、背の高い彼の腕を強引に引いて、やっと届いた綺麗な唇の端へむにっと口を押し付けた。それは、ほんの一瞬の出来事で、すぐに黒が映える白い腕を離した私が踵を返して蘭の部屋を出たから、毛穴の見えない白い頬が色付いた事を私は知らない。
◆
キッチンの冷凍庫から、蘭に強請って買ってもらった記憶があるパッケージを見つけた。
すごく美味しくて、もぐもぐしながら「幸せー♡」って連呼してた。絶対してた。
そんな幸せのアイスを手にふっかふかのソファへ向かうと、竜胆くんがやってきた。
「あれ?兄ちゃんは?」
「着替えてる」
「ってか、それ兄貴の!」
私の手にあるアイスを見た竜胆くんが血相を変えてこちらへ近付いた。何事かと驚いてしまう私の肩を、竜胆くんが掴んだ。
「え。なに?」
「それ、今すぐ冷凍庫しまった方がいいよ。ほら、冷凍庫にダッツあったろ?ナマエちゃんはそっちにしとけって」
真顔で私のアイスを奪いに来る竜胆くんから、幸せのアイスを守るように庇って竜胆くんに背中を向けた。
自ら手にした私の幸せを、そう簡単に奪われるわけにはいかない。
「マジでさ。それ食ったら、今すぐドンキで買ってこい!って兄貴に怒鳴られるんだって。な?兄ちゃんに見られる前に、今ならまだ間に合っ……」
竜胆くんが喋っている最中に、向こうで蘭の部屋のドアが開く音がした。途端に言葉を切って黙る彼は、すぐに私の肩を離した。ぱっと私から離れてゆく竜胆くんの背中を見つめるものの、彼はこちらを振り向く事なく、スタスタとただ前に足を進めた。
数秒後、リビングのドアが開いて、蘭が顔を覗かせる。こちらへと歩いてくる蘭と入れ違いに「俺、ちょっと出てくるワ」と言った竜胆くんが玄関へと向かった。
ふっかふかのソファに座って食べるアイスは、とても美味しくて瞬時に幸せになるから、やっぱり「幸せー♡」って声がたくさん漏れてしまうのだけど、私の隣に座るとびきりの美人の表情にまで幸福感が滲み出てくるから、このアイスはやっぱり『幸せのアイス』ってネーミングにしても良いと思うの。