2
目が覚めたら、身体の至る所がヒリヒリと痛かった。重たい瞼を持ち上げて辺りをみると、あの部屋のベッドに寝かされていた。上体を起こそうと手をベッドについて腕をつっぱり、着替えさせられている事に気づく。
そんな変化にギョッとして慌てて体を起こそうと動いた分だけヒリヒリと痛む身体中がミシミシと軋んで痛みもさらに押し寄せてきた。
「…っゔ……ぐ……」
呻いた喉すら焼け付くように痛い。起きようとしてシーツに突っ張った腕ですらカタカタと小刻みに震え出し、自分の体重すら支えられずにシーツに再び突っ伏した私はそのベッドが揺れる程の衝撃と痛みに悶え、シーツの上で丸くなった。
「ナマエー起きたか〜?」
近くで人の声がする。無遠慮に我が物顔で私の名を呼ぶ間伸びしたその声は、私を誘拐してきたと言い、突然私を蹴り倒して警棒で打ち付けてきたあの男のものだ。饒舌に意味不明かつ辻褄の合わない事を話す男の声を覚えてしまった自分に嫌気が差す。どうして私がこんな目に遭わないとならないのか? 今更考えてみたって遅すぎる現実に打ちひしがれている私の頭の上に何かが乗った。この大きさと重みも知っている。あの男の掌だ。
「……どうした?」
すぐそこで響いた男の声は、相変わらず穏やかで緩やかな優しい口調。それに何か応える義理なんて私には無い。暫く無視を決め込んでいる私の頭上を、彼の大きな掌がそっと優しく撫で付け続けてくるものだから、私を守ると言って暴力をふるうこの男に、一つだけ望みを口にした。
「のみもの……」
「喉乾いた? まってて」
すると、ふわりとしたものに包まれて体が宙に浮く。驚いて辺りを見回すと、私を誘拐してきた男が軽々と私をベッドの上から抱き上げて、ふわりとした毛布に包まれたままの私をソファの上に座らせた。そして半分位中身が減っているペットボトルをこちらへと差し出される。
ペットボトルの中身に気付いて、ペットボトルへと伸ばそうとした手をまた下ろす。ここに来てようやく警戒すると言う事を取得した私は、このペットボトルに何か良からぬ物が入っているかもしれないという想像力が働いたのだ。そんな私に気付いたのか、彼は小さく笑むとペットボトルをテーブルの上に置いた。
「賢い女は嫌いじゃないけと、手が掛かるコの世話をする方が好きなんだよね」
首を傾げながらいまいち的を得ない事を口にする彼を見上げてみる。するとその男はふふっと口元を柔らかく綻ばせてこちらへと掌を差し出した。
「暖かい紅茶を淹れよう。葉っぱは何がいい? おいで……心配なら俺の手元、ちゃんと見てて」
どうしたものかと迷ってしまったが、彼を試す為に普段家で飲んでいる銘柄と種類を口にした。すると、男は私の手を軽く掴んで緩く握り、私をソファから立ち上がらせる。そして手を繋いだままゆっくりとキッチンへと向かっていく。体を動かすとさらに身体中が痛んで小さく息を呑んだ私へと、彼が視線を向けてきた。
「オマエ、肋骨折れてっから静かにな」
穏やかな口調で穏やかではない事を口にするその男は、キッチンに立つと真新しいミネラルウォーターのペットボトルを取り出して蓋をひねる。蓋が開封されたプラスチックの音が辺りに響いた。そのペットボトルからレトロでかわいいデザインのケトルへと水を注ぎお湯を沸かす傍らで、先程私が口にした銘柄と種類の茶葉を取り出して見せて言う。
「美味しいって、オマエが地元のおかーさんに電話で話してたやつ」
「どうして……」
彼が言うのは確かに本当の事で、どうしてそれをこの人が知っているのか解らない。その理由を尋ねた答えは耳を疑うものだった。
「んー。愛してるから」
「……っ…わたし、彼氏いるんで……」
「あの、オマエの周り最近うろついつるヤツの事? それなら大丈夫だよ」
ふふふっと口角を上げて微笑んだ男は、私の脇腹を指差して言った。
「その骨がくっつくころにはナマエも俺のこと愛してるよ」
「……そんな事、ない」
首を左右に振り男の言葉を否定したのだけど、男はそんな事には屈する訳はないようだ。
「なるよ。……もし、そうならなかったら」
自信満々になると言い張った後に、口元には笑みを浮かべたまま彼は何かを言い淀む。
「ならなかったら?」
恐る恐る尋ねた私の方へと男の腕が伸びてきて、喉を掴んだ。驚いて彼の手を見て目を見張る私を、背の高い彼は腰を軽く折って覗き込んできた。
お湯が沸きそうなのか、ケトルがカタカタと振動し始めて静かな部屋に僅かな金属音が響き渡る。
「殺しちゃうかも♡」
掴んだ私の喉をグイッと握りしめて満面の笑みで彼が言い放つと、お湯が沸いたようでケトルの笛が大きく鳴り響いたところで、彼は私の喉からぱっと手を離す。
「っ……っふ…っ……ごほっ……っ」
「お湯沸いたね」
咳き込む私の脇で、男は何事もなかったかのように火を止めてティーポットとカップを温めるためにケトルから湯を注ぐ。
満面の笑みを浮かべて物騒な事を宣う男は、それはそれは丁寧な手つきで手間をかけて紅茶を淹れてくれた。
お陰様で彼の淹れてくれたお茶は、私が家で自分で淹れて飲んでいたものとは比べ物にならないほど格段に美味しかった。淹れ方でこんなに違うなんて、今まで適当に手抜きばかりしてきた自分が悔しくなる程の腕前を見せてくれた彼は、ソファに座る私の隣に腰を下ろして長い足を組む。そしてそれが当然の様に長い腕を私の肩へと回してくるのだ。
いくら相手が綺麗な顔した男だろうと、私と彼は初対面で、名前すら知らない言動のおかしなこの男は、他人との距離感もおかしいようだ。
しかも男は先程私が気を失うまで暴力をふるい、その上、私の肋骨は折れていると言うではないか。正直なところ体中のあちこちが痛くて、肋骨を骨折しているなんて自覚はまるで無く、彼にそう言われてもピンとこなかった。
無言でマグカップに口をつける私を男が横から見てくる視線をひしひしと感じながら、私は真正面を眺めながら目に見えるものを確認していた。
「食欲あれば冷蔵庫にあるもの食べて良い。夕飯は買ってくる。夜の8時前には戻れると思うから良い子にしてろー」
そう言って彼は私の肩から手を離して、立ち上がる。まるで親が留守番をさせる子供にでも言うようなその内容を口にした男は、私をここに残して本当に玄関から出て行ってしまった。
ガチャリと閉まる玄関の鍵の音。
玄関の鍵といえば、内側からも開けられるではないか。思い至ってソファから立ち上がり玄関へと向かう。
目的地まで来て、目的のものを探して、絶句する。
「うそ」
玄関のドアはドアノブ近くに一つそれから低い位置にもう一つ鍵のあるツーロックのドアなのだけど、そのドアには普通あるもの一つ足りないのだ。
ドアノブ近くの鍵を内側から開けるためのツマミはあるのだが、低い位置にある鍵を内側から開けるためのツマミがない。というか、外されてる。抜かれてる。おそらくここにツマミのパーツ部分を差して固定するのだろうと想像できる穴が一つあるだけの丸だった。ドアノブ近くの鍵を開けてドアを開けようと試みたが、もう一つの鍵は施錠されたままのためドアを開く事はできない。私を誘拐してきて愛してると曰うあの男に、ここに閉じ込められているのではないか? と、疑ってはいたものの、やはり玄関のドアは開けられないという現実を目の当たりにし呆然としてしまった。ただただ見つめていたって開くはずのないドアを眺め、そういえばこの部屋に人間が通れるような窓を見つけられていない事を思い出す。室内にある窓は、私が通れるサイズではないしやっと手が届くような高さにあり、そこからの脱出は不可能だ。窓を開ける事は出来ないかと挑戦してみたのだけれどもこの窓は開かないようで、助けを呼ぶ事もおそらく不可能だ。
他に望みは無いものか。と、目に見えたドアを開けてみた。一つはトイレに繋がるドアで窓はあるがこれも人間が通れる大きさでは無い。だが、部屋の窓と違って開閉はできた。開閉が出来ても通れなければここからは出られない。もう一つのドアは、ユニットバスに繋がっていた。窓はあるがトイレの窓と同じ大きさで仕様のようだった。結局、外へと繋がる私が通れる道はこの部屋には存在しないと言う事が解っただけだった。ユニットバスの窓を開けて外を伺ってみたのだけど窓の外には高い壁が見えるだけだった。
あの玄関からしか外に出られないという事は解った。でも、なんとかして外と連絡を取る事ができるなら! と、部屋にあったパソコンを起動した。ドキドキと早まる鼓動を抑えながらログインの画面を見て、目を見張った。
パスワードを要求されるだろうとばかり思っていたのに、このパソコンはロックされていない。そのためパスワードも要求されずに起動する事に成功したのだ。部屋の鍵は厳重なくせに、パソコンにロックを掛けないなんて、罠としか思えないのだけど今更引き返す事なんて出来なかった。
起動したパソコンの画面と向き合い、目についたプラウザのアイコンからネットに繋ごうとしてパスワードを要求されてしまった。インストールされていた他のプラウザを使用しても結果は同じで、私にはこのパソコンから外と繋がる事が出来ないと知る。仕方なくプラウザを閉じてパソコンをシャットダウンしようとしたところで、デスクトップにアイコンが均等に整列している中で、ひとつだけ違う位置にあるフォルダに目が行った。ひとつだけ他と違い嫌でも目についてしまうそれには、ナマエというフォルダ名がついていて。あの男が仕掛けて行った罠だと想像はつくのに、怖いもの見たさで開いてしまった。そこにあったのは動画のファイルで、再生してみるとそこには私の住んでいる私の部屋。お世辞にも綺麗とは言い難い、生活感溢れる私の部屋で私が動いている。テレビを眺めながらメイクして身支度を整えて部屋を出て行った。そして誰もいない部屋がずっと映っている。
「これ、盗撮……?」
さああっと血の気が引いてゆく感覚。自分の部屋にカメラが仕掛けられていたなんて知らない。まさか! ハッとして、辺りを見回した。今この現状も、あの男がレンズ越しに見ているのではないか。仕込まれたカメラを私の目が捉える事は出来ないが、撮っていない方が不自然に感じてしまう。
見られてる。そう思ってしまうと、もうこれ以上何も出来なくなってしまって、パソコンをシャットダウンしベッドに横になる。頭のてっぺんまで布団を被ってどこに仕込まれているかわからないレンズから身を隠し続けた。