―香港―
香港島、九龍島、新海。周辺に浮かぶ235あまりの島々を要し、その夜景は昔から100万ドルの夜景と言われている。




「香港ってこの季節でも暑いんだネ」
「ちゃんと傘差しとけよ」
「うん」

不安な要素は多々あったが、周りが思うよりもしっかり英雄だったジョセフ・ジョースターが無事飛行機を香港沖の海上に不時着させたことにより、香港の地に上陸できた承太郎一行。

「ジョースターさん大丈夫だろうか」
「どうだろうな。だが、相手がSPW財団ならばきっと私たちに力を貸してくれるはずだ」

今も尚海上自衛隊による乗客乗員の救出が行われている中。事情聴取などに時間を取られる訳にはいかないとその場を抜け出してきた彼らは現在、公衆電話ボックスに入りこの緊急事態を打開するべく旅の協力者と連絡を取り合うジョセフを街の一角に佇み待っていた。

「神凪。お前もう少しこっちに来い」
「傘差してるから大丈夫だよ? むしろ承太郎の方が私より暑そうだし日陰にいた方が……」
「俺はそんなに柔じゃあねえよ」
「わっ!」

亜熱帯に属しているため日本と違い暑い季節が長い香港は、11月を迎えても太陽が燦々と強い日差しを降り注がせる。まるで日本の真夏を彷彿とさせるような眩しい日差しに目を細めた承太郎は、光を吸収しやすい真っ黒な制服を着た自分よりも番傘を差している神凪のことを日陰へとグイグイ押しやった。手付きや言葉は少々乱暴だが、これも立派な承太郎なりの神凪に対する優しさと愛情表現の一つである。

「そこの彼女想いのデカい兄ちゃん!」

押さないでよと、条件反射なのかほんの少し踏ん張って抵抗を試みる神凪が、承太郎によって完全に全身を影に呑み込まれた頃。どうやら一部始終を見ていたらしい屋台の店主に、ジョセフを待つ四人組の中でも一際目立つ承太郎が声を掛けられる。

「アンタら観光客かい?」

話している言語は分からずとも、近しい間柄であると分かる神凪と承太郎のやり取りを見て、すっかり二人のことを恋人同士だと勘違いしている店主。彼はニコニコと人の良さそうな笑顔を浮かべながら承太郎に「美人なお嬢さんとどうだい?」と、店の奥に見える蒸籠や寸胴を指さした。

「香港に来たら点心かお粥食べなくちゃ!」

ホットコーラもあると、冷えたコーラが好きなジョセフが耳にしたら憤りそうな香港名物まで店主に勧められる承太郎。ただ正直なところ、昨夜『灰の塔』に襲撃される前にしっかり機内食を食べていた承太郎からすると、店主には悪いが空いてない腹には点心もお粥も言わずもがなホットコーラにも魅力は感じられなかった。

「神凪は何食べんだ?」

しかし、一人前の機内食では満足できていないだろう神凪は違うはずだ。もはや幼馴染みの胃袋のキャパシティまで理解している承太郎は、店主から広東語と英語表記のメニュー表を受け取り神凪の方を振り返る。

「お粥かぁ……何があるの?」
「一番人気は豚肉とピータンらしいぜ」
「ピータンってなに?」
「ピータンはアヒルの卵を木炭や灰、塩などと一緒に粘土に包み発酵させたものですよ」
「へぇ?」
「口で説明しても分かり難いですよね」

模範解答のような説明を聞いてもどこかぴんと来ていない様子の神凪に、くすっと小さく笑いを零した花京院はこれを見れば分かると徐にショーケースを覗き込んだ。そんな彼の言葉と仕草に釣られ、神凪も同じように承太郎の陰からひょこりと顔を出し屋台の方を覗き込む。

「おお……黄身まで真っ黒だヨ」
「フフッ。これがピータンです」
「……美味しいの?」
「強い刺激臭や腐敗臭、酸味だったり色々癖のある食べ物ですから人によりますかね」
「……腐敗、」
「僕は意外と好きでした」
「俺もなかなか興味そそられたぜ」
「二人ともすごいネ?」

卵と言えば白と黄の色合いを想像するが、ほらと花京院に促され神凪が見たアヒルの卵は、強いアルカリ性の条件下に長く置かれたことで成分が変化し見事に全体を黒色に染めていた。
花京院に教えてもらわなければ卵だと認識するには難しいような、何とも独特な見た目をした中国発祥の発酵食品ピータンは、初めてその存在を知った神凪にとって衝撃的な物だった。

「どうしようかなぁ……」

勿論その国の名産物がどんな物なのか、気にならない訳ではない。本来の目的地ではないがせっかく香港の地に来たのだから、メニュー表にも記載されている通り一番人気の豚肉とピータンのお粥を食べてみたいとも思う。しかし、自他共に認める子供舌の私がはたして硫黄の臭いがキツい卵を食べられるだろうか。注文してからやっぱり食べられませんでした、となってもお店の人に悪いし……と神凪はうんうんと頭を悩ませる。

「……あっ!」

食べることが好きだからこそ真剣に悩む神凪。そして、悩むこと数十秒。ようやく難しい顔からパッと明るい表情に切り替えた彼女が出した答えとは――。

「見てみて承太郎! あっちの通りにチャイナ服の専門店があるよっ!」
「チャイナ服専門店?」
「うん! 私ちょっとお店の中見てくる!」
「おい、注文はどうすんだ」
「承太郎たちだけで食べてて〜!」

それは『食べる』か『食べない』かではなく、『違う店に行く』というまさかの答えだった。
もはや今まで悩んでいたことなど綺麗さっぱり頭から消し、目に映るチャイナ服の専門店へと真っ直ぐ進んで行く神凪は、一人で行動するのは良くないと注意喚起する承太郎の声など届いていなかった。

「……ったく。自由な奴だぜ」

どこにそこまでの瞬発力を隠しているのか。気がつけばもう既に店内へ入り込んでいる神凪の後ろ姿を目にした承太郎は、我が道を行く自由な神凪にため息を吐く。

「JOJO。ひとつ聞いていいかい?」

お嬢さんにフラれてしまったと、戯けるように笑う店主に承太郎がメニュー表を返却した時。神凪が入っていったチャイナ服専門店を遠巻きに眺める花京院が「気になっていたんだ」と、承太郎へひとつ声を掛けた。

「神凪さんって、なぜいつもチャイナドレスを着ているんだ?」

日本ではチャイナドレスと呼ばれる、漢民族の民族衣装――旗袍。女性の美しいシルエットを引き出す、華やかで繊細なデザインのチャイナドレスは中国や香港では親しみのある衣装として有名だ。一方日本では知名度こそあるものの普段着として着用する者はまず居ないだろう。良いところパーティーや、それこそ旅行で中華圏に訪れた時に記念として着ることくらいしか機会はないはずだ。しかし、神凪はどうやら他者とは違っていた。彼女だけはしっかり普段着としてチャイナドレスを身に纏っていたのだ。

「ああ、それは私も少し気になっていた」

神凪のチャイナドレス姿が決して変だと、似合っていないと言う訳ではない。ただ、彼女もあと数ヶ月で二十歳を迎える年頃の女の子。もっと色んな服を着てお洒落をしていても可笑しくないだろうに、彼女は一貫してチャイナドレスで自身を着飾っていた。そのことを少なからず不思議に思っていた花京院、そしてアブドゥルは承太郎へ理由を知っているかと問うた。

「……ああ」

花京院とアヴドゥルから知りたいという純粋な眼差しを向けられた承太郎は、ふと宙に視線を漂わせる。思い返すは幼少期の頃の記憶。毎日華やかな服を着ている可愛い幼馴染みのことが気になった承太郎は、勇気を出して神凪に尋ねてみることに。その時彼女が答えてくれた理由は確か――。

「確か"落ち着くから"って言ってたな」
「落ち着く?」
「ああ。神凪自身もよく分かってねえらしいがあの格好をしてると落ち着くんだとよ」

勿論"好きだから"の気持ちもあるのだろうが、チャイナドレスを初めチャイナ服と呼ばれる類の服を着ると心が落ち着くと話した神凪。
その話を聞いた幼き頃の承太郎はどうして落ち着くのかと、もう少し詳しく理由を聞き出そうとした。しかし、それには神凪もどう答えて良いのか分からず首を傾げるだけだった。ただ、本当に落ち着くと言っている通り華美なチャイナドレスやチャイナ服で着飾る彼女は、いつ見ても穏やかで綺麗な笑顔を浮かべていた。

「……特に深い理由はねえよ」
「ふむ……適当なことは言えんが、神凪さんの中で何か感ずるものがあるのだろうな」
「ええ。まあ何にせよ神凪さんによく似合っているので、外野がとやかく言う必要はありませんね。それに、目福でもあるし」

懐かしむように目を細める承太郎の少し珍しい表情を見たアヴドゥルと花京院は、二人揃って彼の話になるほどと頷いた。どんな理由であれ本人が落ち着くとそう言っているのであれば、他の者がなんでどうしてと煩く口を挟む必要はないのだ。ただ一言、似合っているとだけ伝えればいいのだと。

「花京院。てめえ見てんじゃあねえぞ」

あまり根掘り葉掘り聞かれるのが好きではない承太郎にとって、理解ある二人の反応は何とも好ましいものだった。しかし、花京院が最後にポツリと零した一言だけはどうしても見逃せないものがある。ふふっ、と小さく笑いながらまたもやチャイナ服専門店を眺めている花京院を鋭く睨みつけた承太郎は、神凪を変な目で見るなと強く釘を刺した。

「変な目でって……それを言うならJOJO。君だって幼馴染みなんだから神凪さんをチラチラ盗み見るのやめたらどうだい?」

すると花京院からまさかの反撃が。この瞬間、承太郎と花京院の間に闘いの鐘が鳴り響く。

「ハッ、チラチラ見てんのはてめえの方だろ。飛行機内でも薄々思ってはいたが……てめえはなかなかのむっつり助平らしいな」
「その言葉……そのままそっくり送り返すよ。君の方こそさっきも見ていたけど、神凪さんに対してボディタッチが多いんじゃあないか」
「……あ?」
「なんだい?」
「お、おい二人ともッ!」

どちらも全く引く気がないおかげで、承太郎と花京院の間には殺伐とした空気が漂う。
年不相応だと感じる程の冷静さを二人とも持ち合わせていたために忘れがちだが、今目の前で火花が散りそうなぐらい互いを睨み合う承太郎も花京院もまた血気盛んな高校生。好意を寄せる女の子に他の男が近寄る姿は面白くないし、そこに加え挑発するように物を言われたら彼らだって頭にくるだろう。それは仕方のないことであるし気持ちもよく分かる。しかし、こんな所で仲間割れをするのは非常に良くない。

「いいか、落ち着くんだ」

まさに一触即発。今にも互いに掴みかかりそうな承太郎と花京院を何とか鎮めようと、アヴドゥルは二人の肩にそっと手を乗せる。今熱くなっている若者を止められるのは、ジョセフに次ぎ様々な経験をしてきた自分自身しかいない。そう言い聞かせた熱い男アヴドゥルは、今回ばかりはクールに行こうと未だ睨み合う承太郎と花京院の二人に語りかけようとして口を開く。

「おーい!」

しかし、アヴドゥルが声を発するよりも先に、承太郎と花京院の間に流れる殺伐とした空気を裂くような、可愛らしい声がこの場に響いた。

「……神凪?」
「神凪さん?」

それは紛うことなき言い合いの火種にもなり、チャイナ服専門店に嬉々として入店して行った神凪の声だった。こちらに呼びかけているかのようなその声に、勿論承太郎と花京院が反応しない訳がなく。頑として互いを睨んだまま動かなかった彼らは、今までのやり取りが嘘のように仲良く神凪の名を呼びながら彼女が居る方へ同時に視線を向ける。すると――。

「えへへ! 試着させてもらっちゃった!」

今の今まで着ていた無地の白いロング丈のものではなく、紺地に白い花柄模様が施されたミニ丈チャイナドレスを身に纏った神凪の姿が見て捉えられた。

「初めて短いの着たけど、どうかな?」
「…………」
「…………」
「あれ?」

その場でくるりと回ってみせる神凪。しかし、どういう訳かなかなか承太郎や花京院から何のリアクションもない。いつもなら『普通』なり『微妙』なりと、欲しい感想じゃないにしろ何かしらの反応を承太郎は見せてくれるのに……と神凪は首を傾げる。声が聞こえなかったのかとも思うが、彼らは最初の掛け声に反応しこちらを振り向いている。視線も十分に、と言うよりは十分過ぎるほど感じられるため見えていない訳ではないだろう。では、なぜ彼らは呆然と立ち尽くしているのだろうか。

「二人ともどうしたの?」

普段通りとは言いづらい、少々様子の可笑しい承太郎と花京院が心配になった神凪は再度彼らに声を掛ける。大丈夫なの、と。

「おい神凪ッ!」
「神凪さんッ!」
「――ッ!?」

するとどうだろう。微動だにしなかった承太郎と花京院の二人が突然、それはそれは物凄い形相で近付いてくるではないか。例えるなら親の敵を前にしたような、そこまで言っても過言ではない二人の様子に神凪は思わず息を呑んだ。
長い脚を活かし、あっという間に距離を詰めてきた承太郎と花京院。そして、差している番傘とは違う二つの影が神凪に覆い被さったかと思えば、彼らは凄い剣幕で同時に言葉を紡いだ。

「てめえは少し恥じらいって物を覚えなッ!」
「その格好で街を歩くのは些かどうかとッ!」

雑踏に紛れて聞こえた承太郎と花京院の声に、神凪はパチリと瞬きをひとつ。きっと神凪は今頃、頭の中で彼らに言われた言葉をゆっくりと噛み砕いていることだろう。
実に三人の間に沈黙が流れること数秒。ふと、顔を上げた神凪は承太郎と花京院へ交互に目を向けた後、しゅんと眉を下げた。

「これ、似合ってない?」

揃いも揃って眉間に皺を寄せ、怖い顔を浮かべた彼らが語気を強めて言うくらいだ。自分では分からなかったが、試着に選んだこのチャイナドレスは相当似合っていないのかもしれない。感想を求めたのはこちらなのだが、いざ面と向かって否定的な言葉をハッキリ言われると結構ショックなものである。

「ああ違うんです。そのチャイナドレスも勿論神凪さんに良く似合っていますよ。ただ……」

誰がどう見ても落ち込んでいると分かる神凪。表情だけでなく全身でしょんぼりと萎れていく神凪に、花京院は彼女の誤解を解くように慌てて声を掛ける。問題はそこではないのだ。

「少し脚を出し過ぎているというか、サイズが合っていないというか……目のやり場に……」
「お前はもっと自分を客観的に見やがれ」

遠慮がちの花京院と呆れ混じりの承太郎に指摘された神凪は、そろそろと目線を自分の体へと落とす。一応外に出る前に試着室の全身鏡で自分の姿を確認してきたが、思い返せばあの時は珍しいチャイナドレスに舞い上がっていてしっかりとは見ていなかった気がする。

「……ごめん。お見苦しいものを」

改めて良く全身を見てみればなるほど、これは承太郎も花京院もいい顔をしないのは当然だ。
普段着ているチャイナドレスは全身のサイズをきっちり測った上で注文した、いわゆるオーダメイド。特注品だ。だからこそ綺麗にボディラインを魅せることができるのだが、今回ばかりはそうもいかず。いつもお世話になっている所とは違い初めて入った店。それも香港に神凪のサイズにぴったりの物など有る訳がなく、ウエストのサイズに合わせて選んだ結果少々恥ずかしいことに。自覚した途端酷くキツく感じる胸元を神凪は咄嗟に番傘で隠した。

「すぐ着替えてくるね!」

何て格好で人前に出てしまったのだろう。これでは恥じらいを持てと怒られても仕方がない。それに彼らは店に立ち寄ったり試着することに関しては口にしなかったが、今は観光で来ている訳ではないのだ。いつまたDIOの刺客に襲われるかも分からない危険な旅で、一目惚れしたサイズの合わない動きにくい服を着ていざと言う時に動けない……なんてことになっては、それこそ足手まといもいいところだ。出発前に宣言した以上、旅行気分で浮かれている訳にはいかない。そう自分を律した神凪は、足早に店内へと戻って行った。

「喜んでいた神凪さんには悪いが、これが一番お互いに良い結果かもしれないな」

ついつい目が行ってしまう神凪のさらけ出された真っ白な脚。その綺麗な脚が店内に消えて行くのを見送った花京院は、安堵と申し訳なさ半分と言った様子で息を吐いた。

「…………」

先程はすみませんでした、と若者に蚊帳の外へと図らずも追いやられてしまったアヴドゥルに花京院が詫びる一方。我関せずと言わんばかりに彼らに背を向ける承太郎は、店の店主だろう女性に頭を下げる神凪をただただじっ、と見つめていたのだった。

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