「チャーターしたのはあの船だ」

 ポルナレフとの闘いから一夜明け、承太郎一行は港にやって来ていた。理由はもちろん、エジプトに向かうための移動手段である船に乗るため。

 結構格好いい船だろうとジョセフが言う通り、港に停泊している船は万が一を考え承太郎一行と乗組員しか乗せないにもかかわらず、それは大層立派なものだった。たった一日でこれだけの大きな船をチャーターしてしまうとは。

「すごいネ?」
「やれやれ。派手好きなジジイらしい船だぜ」

 改めてSPW財団の偉大さと、ジョセフの派手な嗜好をその身をもって実感する神凪と承太郎。しかし、何にせよ気前のいい彼らのおかげで無事に香港の地を出発できそうだ。

 ようやく見えた第一関門突破の兆しに少し表情を緩めた承太郎一行は、早速船に乗り込もうと歩を進める。だが、そんな彼らの前に立ち塞がる人影が一つ。

「どうした。まだ何か?」

 ――ポルナレフ。

 承太郎一行の前に姿を現したのはDIOの刺客として行く手を阻み、つい昨日アヴドゥルと死闘を繰り広げたばかりのポルナレフだった。

 もう既に勝負の決着はついており、ポルナレフの脳に埋め込まれていた肉の芽も完全に取り除いているため、もはやアヴドゥルとポルナレフの間には何も確執は残っていないはずだ。それなのに再び立ち塞がるようにコンテナの影から出てきたポルナレフに、アヴドゥルは何か用かと問う。

 すると、ポルナレフは真っ直ぐにアヴドゥルの目を見据えながら口を開いた。

「まだDIOの呪縛を解いてもらい、手当てまでしてもらったお礼を言ってない」

 ポルナレフが再び承太郎一行の前に姿を現した理由。それはただただ昨日の礼を伝えるためだった。

「だったら私でなくJOJOと神凪さんに言え」
「いらないな」
「お礼を言われるようなことはしてないヨ!」

 気持ちが良いほどに礼儀正しいポルナレフではあるが、残念なことにアヴドゥルは愚か、肉の芽を取り除いた張本人である承太郎。そして、丁寧に怪我の手当をした神凪にも礼は受け取ってはもらえなかった。

 せっかく足を運んでもらったところ悪いなと軽くいなされてしまったポルナレフは、苦々しそうに顔を顰める。だがそれも一瞬のことで、俺もくどいのは嫌いだと潔く受け取り手のいない礼を押し付けるようなみっともない真似はやめた。

 しかし、どういう訳かポルナレフは未だにその場を立ち去ろうとはしない。それだけでなく「用はもう一つ」と端的に告げたポルナレフは、今度はアヴドゥルではなくジョセフへと真剣な眼差しを向けた。

「ムッシュ・ジョースター。ものすごく奇妙な質問をさせていただきたい」
「奇妙な質問?」
「詮索するようだが、あなたは食事中も手袋を外さない……まさかその"左腕"は"右腕"ではないだろうな?」

 まるで謎々のような、前述の通り本当に奇妙なポルナレフの質問にジョセフは首を傾げる。

 もちろんその答えは"NO"だ。しかし、答えるにしてもポルナレフからの質問の意図がはっきりと分からぬうちは素直に答えるのも少々憚られるため、ジョセフは一体どういうことだとポルナレフへ質問をし返した。

「妹を殺した男を探している」
「――ッ!」

 一段と険しい表情をしたポルナレフから返ってきた想像していなかった返答に、ジョセフだけではなく二人のやり取りを静観していた承太郎や神凪たちも皆一斉に息を呑んだ。

 爽やかで心地の良い潮風が吹く港の空気が一瞬にして重くなる。だが、ポルナレフはそれでも構わず実の妹を手に掛けた憎き敵の話を続けていく。

 顔は分からぬが、両腕とも右腕という奇妙な特徴を持った忌々しい男の話を。

「50年前の闘いによる名誉の負傷じゃ」

 質問の意図を理解したジョセフもまた、ポルナレフと真摯に向き合うことに決めたようだ。

 ジョセフは滅多に外すことのない手袋を外し、その下に隠された左手を露わにさせる。日の下に晒された肌色ではなく鈍い銀色に輝くジョセフの左手。

 その手をジッと見たポルナレフは、自身が探し求めている両腕とも右腕の男の特徴とは違うことを確認するや否や、ジョセフに非を詫びた。余計な詮索をしてしまったと。

「よければ何があったのか聞かせてくれんか」

 理由が理由だっただけに今のが無礼だとは微塵も思っていないジョセフは、何事も無かったように自身の左手に手袋をはめると、ポルナレフへと向き合った。

 他人が簡単に踏み入れてはいけない過去なのは重々承知している。しかし、ポルナレフとはただの他人で片付けられるほどの浅い関係ではもはや無い。だからこそジョセフは、ポルナレフの秘められた過去に一歩踏み込むことに決めたようだ。

「もう3年になる」

 真っ直ぐな翡翠の瞳に見据えられたポルナレフは静かに、だが包み隠さず過去を語り出した。勿体ぶるような真似はしない。同じ能力を持った彼らには全てを知ってほしい。その気持ちがこの時のポルナレフには少なからず芽生えていたのかもしれない。

「俺の妹は雨の日、学校からの帰り道をクラスメートとふたりで歩いていた。故郷……フランスの田舎道だ」

 その日、慣れ親しんだ道の端に一人の男が、大粒の雨が降りしきる中傘もささずに背を向けて立っていた。だからこそ不思議だった。その男の周りだけ、まるで透明の膜でもあるかのように雨がドーム状に避けて通っていたから。

 不思議な現象にポルナレフの妹シェリーと、その友人はついつい足を止めて男を見てしまった。それがいけなかった。

「突然クラスメートの胸が、カマイタチにでもやられたかのように裂けた」

 鮮血を噴き出しながら倒れ行く友人。あまりにも突然のことで何が起こったのか全く理解できないシェリーは、濡れた地面に横たわる友人と、友人の周りに広がる赤色を呆然と見つめることしかできなかった。逃げるなんて以ての外。

「そして――次に妹が辱めを受けて殺された」

 ハッと意識を戻した頃には時既に遅し。いつの間にか目の前に立っていた男にシェリーは為す術もなく乱暴され、卑劣にもその命を奪われてしまった。

 男の目的はただただそれだけだったようで、事が終わると何でもなかったようにその場を立ち去って行ったと言う。

「九死に一生……命を取り留めたその友人の証言だ。その友人は男の顔は見ていないが、両腕とも右腕だったと証言した」

 欲を満たしたことで注意力が散漫になっていたのか、元々興味がなかったのか。どちらにせよ命を取られるまではいかなかった友人は、警察や周りの大人たちに自分の目で見たもの全てをありのまま話した。

 だが、現実はなかなかに非情だった。雨がドーム状に人間を避ける訳がないと、両腕とも右腕の人間なんて存在するはずがないと、ほとんどの者はその話を信じてはくれなかったのだ。きっと目の前で起こった悲惨な出来事にショックを受けているのだろうと、まともに取り合ってすらもらえなかった。ただ、それも無理はないのかもしれない。何しろ身をもって体験した友人も、あの日の出来事は不可思議で仕方がなかったのだから。

 しかし一人だけその友人の話を真っ向から否定などせず、しっかりと理解し信じる者がいた。

「俺がそれまで誰にも隠していた能力と同じものをその男は持っていると思ったからだ」

 その者こそポルナレフだった。

「俺は誓った! 我が妹の魂の尊厳と安らぎはそいつの死でもって償わなければ取り戻せん! 俺のスタンドが然るべき報いを与えてやる!」

 妹を襲った男が自分自身と同じ能力――スタンド使いであると知ったポルナレフは、誓いを立てたその日から復讐心を胸に己の精神力を磨くため修行により一層励んだ。

 そして月日が経ち、今から一年ほど前――。

「俺はDIOに出会った」

 目の前の水晶玉に浮かぶのは妹の敵である両腕とも右腕の男。誰にも、ましてや今さっき出会ったばかりの名も知らぬ怪しい男になんて話した覚えがないと言うに、やけに妖艶に笑う男――DIOはピンポイントでポルナレフが血眼で探し続けている仇の姿を水晶に映し出してみせた。

「ビジョンだ。私のではない。君自身の心の中が私の能力を通じて念写させているのだ」

 驚愕に見開いた目で水晶に映る男を食い入るように見つめるポルナレフに、DIOはそれはそれは甘い言葉を紡いだ。

「どうだねひとつ、私と友達にならないか? 君は悩みを抱えている。苦しみを抱いている……私と付き合えばきっと心の中から取り除けると思うんだ。今の水晶の像が君の苦しみなんだね? 力を貸そうじゃないか」

 男を探し出す手助けをする。その言葉はポルナレフにとってこの上なく魅力的なものだった。

「私にも苦しみがあって、日光の下に出られない体なのだ。だから私にも力を貸してくれ」

 普段のポルナレフであれば少なからず反応できただろう。しかし、ずっと探し求めていた男にようやく辿り着けるかもしれない。妹の敵を討てるかもしれない。そんな望みを抱いてしまった当時のポルナレフには、自分自身に向かってくる肉の芽を避ける術など残されていなかった。

「そうして君らを殺し、神凪という女性を連れて来いと命令された。それが正しいことと信じた……」

 後悔の念から申し訳なさそうに目を伏せるポルナレフに、神凪は花京院にもして見せたように咄嗟に首を横に振った。自分自身を責めるのはどうかやめてほしいと。悪いのは人の心を利用するDIOなのだから。

「肉の芽のせいもあるが、なんて人の心の隙間に入り込むのが上手い奴なんだ」
「うむ。しかし話から推理すると、どうやらDIOはその両手とも右腕の男を探し出し仲間にしているな」

 良心から程遠いDIOのことだ。ポルナレフの憎むべき相手と知りながら両腕とも右腕の男を手中に収め、我が身を守る駒としてポルナレフと同様に利用していることだろう。もしかしたらポルナレフがDIOと出会う前から既に、両腕とも右腕の男はDIOの仲間だったかもしれない。そうだとしたら何とも胸糞が悪くなる話である。

「俺はあんたたちと共にエジプトへ行くことに決めたぜ! DIOを目指していけばきっと妹の敵に出会えるッ!」

 だからこそポルナレフは決意した。一度は目先の欲に心が揺らぎ進むべき道を間違えてしまったが、きっともう二度と間違えることはないだろう。目の前にはDIOとは全くと言っていいほど対照的な正義の心を持つ同志が居るのだから。

「どうします?」
「私に異存はありませんが」
「……ふん」
「どうせ断ってもついて来るじゃろうしな」
「味方は多い方が心強いヨ!」

 誰もポルナレフを拒むことはしなかった。あれだけの強い意志が宿った目を向けてくるポルナレフを拒否するなど誰ができようか。

 「よろしく頼むぜ!」

 承太郎一行に受け入れられたポルナレフ。彼はここへ来て初めて悪意のない、純粋な笑顔を浮かべた。

「やれや――」
「すみませーん!」
「うん?」

 昨日の敵は今日の友。予想だにしていなかった展開ではあるが、これで本当にポルナレフとは敵対関係ではなくなった訳である。張り詰めていた空気もようやく緩んだ気がして、承太郎は一息つこうと溜息と共にいつもの口癖を吐き出そうとした。

「ちょっとカメラのシャッター押してもらえませんか?」

 だが、唐突に現れた二人組の女性観光客により承太郎は最後まで言葉を口に出すことはできなかった。

「海を背にしたいんです!」
「お願いしまーす!」

(や、やばい……!)

 グイグイと承太郎に身を寄せていく女性二人の頬はほんのりとピンク色に染まっている。それはまるで恋する乙女のようで、傍から見れば可愛らしい表情だった。しかし承太郎の隣に立ち、間近で迫り来る女性たちを目にした神凪はただでさえ白い顔を更に青白くさせた。

(承太郎がキレちゃう!)

 承太郎の性格をよく心得ている神凪からすると、この状況は非常にまずいものだった。

 承太郎は自分の周りで他人にやかましく騒がれることを大いに嫌っている。それがきゃあきゃあと甲高い声を上げて言い寄ってくる女性であれば尚更。もう幾度となく女の子たちに囲まれ、その都度『やかましい』と物凄い剣幕で怒鳴る承太郎を目にしたことがある神凪は、お決まりの展開にならぬよう慌てて承太郎と女性二人を遮るように間に入った。

「写真なら私が撮りますよ!」
「お兄さんお願いします〜!」
「ここを押してもらうだけでいいんで〜」
「わっ!」

 女性二人が承太郎と何かしらきっかけを作りたくて声を掛けてきているだろうことは神凪も察していた。だから間に入り邪魔をすることは申し訳ないと思う。しかし、どうにも承太郎のあの剣幕に慣れない神凪は申し訳ないとは思いつつ、これ以上キレる寸前の承太郎に女性二人を近付かせないよう止めることを選んだのだが――恋する乙女は最強だった。

 承太郎にしか興味のない女性二人は、間に入ってきた神凪の言葉には全く耳を貸さなかった。それどころか邪魔をするなと言わんばかりに全身を使って神凪を蚊帳の外へと押し出した。一体どこにそのパワーを隠しているのか、女性に押されたとは思えないほどの勢いで弾かれた神凪の体がふらりと傾く。

 恐らく神凪であれば転ぶ前に体勢を整えられるであろう。彼女の身体能力が並大抵ではないことを、神凪が承太郎のことを知っているように承太郎もまたよく知っている。とは言え好きな女の子が見知らぬ女に突き飛ばされ、転びそうになる様は見ていて気持ちの良いものではない。

「やかましいッ! 他の奴に言えッ!」

 ふらつく神凪に手を伸ばし、細い腰をしっかりと支えた承太郎はいつも自分を取り巻く女子生徒たちを一喝するように女性二人を怒鳴りつけた。腕の中では神凪が小さく「おっかないネ」と呟いているが、それを気にしている余裕はない。早いところ自分の周りで騒がしくする女共を追っ払いたい。今はそのことが承太郎にとっては第一優先だった。

「まあまあまあ。写真なら私が撮ってあげよう!」

 そしてそんな承太郎の願いは、神凪がしたように間に割って入ってきたポルナレフによって思わぬ形で叶うことになる。

「君キレイな脚してるから全身入れよーね」

 承太郎に一喝され呆然とする女性二人の肩を手馴れたように抱いたポルナレフ。彼はそのまま流れるようにカメラを女性の手から奪うと、彼女たちの要望通り海を背景にして勢いよくシャッターを切り始めた。

 ちらりと見えたカメラの液晶画面には、ミニスカートから覗く女性二人の脚だけが大きく映っていた。

「トレビアン! シャッターボタンのように君のハートも押して押して押しまくりたいなあ〜!」

「なんか、分からぬ性格のようだな」
「ずいぶん気分の転換が早いな」
「というより頭と下半身がハッキリ分離しているというか」
「なるほど。そういうタイプなんだネ」
「……やれやれだぜ」

 亡き妹の魂と尊厳を守るため敵を討つと大真面目に語っていた姿からは想像しえない軟派なポルナレフに、承太郎は先程吐き出せなかった溜息をそれはもう深く吐き出した。



* * *

「香港からシンガポールまで丸3日は海上だな」

 シャッターボタンのように押して押しまくりたいとは言っていたものの、結果は残念なことにポルナレフの惨敗。目当ての承太郎に全く相手にされないどころかお怒りを貰った女性二人は、写真だけ撮ってもらうや否やポルナレフの口説き文句を無視して港を去ってしまった。

 ずんと肩を落として落ち込むポルナレフには悪いが、彼の軟派な態度のおかげで行く手を阻む者が居なくなり、ようやく承太郎一行は停泊している船に乗り込むことができた訳である。

「まっ、ゆっくり英気を養おう」

 海の上となるとやることは必然的に限られてくる。船にまつわる仕事は当たり前だが水夫が全て担うため、客人の立場である承太郎一行はシンガポールに到着するまでの間手持ち無沙汰と言えよう。しかし、何もしないという時間も案外悪くないのかもしれない。

 ジョセフは緊張気味だった体と心を解すようにかっちりとしたジャケットやハットを取っ払い、ラフなシャツに着替えると心地のいい潮風をその身に浴びた。日差しは若干強めではあるが何とも気持ちのいいものである。これは少し羽が伸ばせそうだと、ジョセフは空を仰いだ。

「しかしお前らなあ――」

 だが視界の端で承太郎と花京院の姿を捉えた途端、ジョセフは清々しい気分から一変し、嫌そうに顔を顰めた。

「その学生服は何とかならんのか〜?」

 甲板に置かれたデッキチェアに腰掛ける承太郎と花京院をビシッと指差すジョセフ。寛ぐのは大いに結構なのだが、何を隠そう承太郎と花京院の格好は日本に居た時と同様の学生服――それも冬服だ。

「その格好で旅を続けるのか? クソ暑くないの?」
「僕らは学生でして。学生は学生らしくですよ──という理由はこじつけか」
「……ふん」

 冬を迎えた日本ならまだしも、強い日差しが降り注ぐ船の上で制服姿のまま日光浴なんて見ているこっちが暑苦しい。そんな思いでジョセフは承太郎と花京院に尋ねるが、悲しいかな二人に軽くあしらわれてしまった。どうやら二人とも全く着替える気はないらしい。

「それに比べて神凪ちゃんは――」
「ジョセフおじいちゃんカモメがいるよ!」
「本っ当にかわゆいの〜」

 可愛げの全くない男子学生に半ば諦めたように溜息を吐いたジョセフは、ふと甲板の先の方で海を眺めていた神凪へと視線を向ける。すると、ちょうど神凪もカモメが飛んでいるとジョセフに教えるためにこちらを振り返っていたようで、楽しそうに笑う彼女と目と目が合った。その瞬間、ジョセフの顔が今度はデレデレと締まりのないものに変化した。

「やはり僕はJOJOの方がむっつり助平だと思うよ」

 可愛い可愛いと壊れた玩具のようにその一言しか言わなくなったジョセフに倣い、花京院も読んでいた本から顔を上げて視線を神凪へと向ける。子供のようにはしゃぐ彼女は確かにジョセフが言う通り可愛らしかった。しかし、どういう訳か花京院の表情はジョセフとは違って複雑そうな、どことなく不機嫌そうなものであった。

「いつの間に買ってたんだい?」

 それもそのはず。蕩けそうなほどの熱い視線を送るジョセフだけに飽き足らず、多くの水夫からも視線を集めている神凪は今、香港のチャイナドレス専門店で一目惚れしたあのミニ丈のチャイナドレスを着ているのだから。サイズは試着していた物よりも少し大きいようではあるが、神凪の真っ白な脚を引き立たせる紺地の衣服は間違いなくあのチャイナドレスだった。

 あれだけ恥じらいを持てと一緒になって神凪の衝動買いを防いでいたと言うのに。自分の知らぬところでちゃっかり神凪へ服をプレゼントしていた承太郎に、花京院は恨めしいと言わんばかりの眼差しを向けた。

「なんじゃ? あの可愛い服承太郎が買ったのか? 珍しいこともあるもんじゃの〜!」
「……あいつが欲しそうにしてたから買ってやっただけだ」
「え〜? とか言って神凪ちゃんに超似合ってて可愛かったから買ったんじゃあないの〜?」
「どうなんだいJOJO」

 承太郎が買ったと聞いてニヤニヤと意地悪く且つ楽しそうに絡み出したジョセフに乗っかり、花京院は憂さ晴らしをするかのように承太郎へ詰める。一人抜けがけし、いい思いをしたんだろうからこれくらいしても許されるだろう。まあ承太郎が素直に答えてくれるとは微塵も思っていないが。

「鬱陶しい。散れ」

 そして花京院の予想は見事に的中した。まるで蝿でも追っ払うかのようにジョセフと花京院に向けて手を払った承太郎は、そのまま帽子を目深に被り直した。どうやらこのまま昼寝としけこむらしい。もうこうなってしまったら何を聞いても言葉は返してもらえないだろう。

「あれ? 承太郎寝ちゃったの?」

 少々腑に落ちないが、わざわざ自ら険悪なムードに持って行くのも合理的ではないため、仕方がないと諦めた花京院は続きでも読もうと再び本へと意識を向けた。が、本を開くと同時にふと影が頭上に差してきたため、花京院はすぐさま本から顔を上げる羽目になった。

「一緒に船を見て回ろうと思ったのに」

 影の正体は番傘を差した神凪だった。カモメを十分に満喫した神凪は、どうやら今度は承太郎を誘って船内を探索しようとしたらしい。しかし先程まで起きていた承太郎が帽子を目深に被り、視界を完全にシャットアウトしている。承太郎がこうなった経緯を全く知らない神凪は、残念そうに唇を尖らせた。

「では、僕と一緒に──」

 指先で承太郎の頭の下で組まれた腕を突っつく神凪を見た花京院は、ここで妙案を思いつく。不貞腐れ寝入った承太郎の代わりに神凪と行動すればいいのではないかと。知らぬところで欲しがっていたチャイナドレスを贈るという抜けがけをされていたのだ、これくらいの役目を奪ったところでバチは当たらないだろう。そう思った花京院は、神凪を誘うために寝そべっていたデッキチェアから居住まいを正した。

「寝ている奴なんてほっといてさ、俺と一緒に綺麗な海を眺めながらお喋りしようぜ?」

 しかし悲しいことに、花京院の誘い文句はまたしても間に割って入ってきたポルナレフのせいで神凪へと届くことはなかった。

「せっかく仲間になったんだし、親睦を深めるのも大事だと俺は思うわけよ」

 するりと細い腰に手を回し、さりげなく自分の方へ神凪を引き寄せるポルナレフに花京院の眉がピクリと跳ね上がる。見知らぬ観光客の女性に触れていた時は何とも思わなかったが今回は訳が違う。二人きりになれるチャンスを潰されたうえに、目の前で気になる女性がべたべたと無遠慮に触れられているのだ。これが見ていて不快にならないはずがない。

「ポルナレフどこ見て話してるの?」
「え? どこって、そりゃあもちろんドレスから伸びるその真っ白で綺麗なおみ足──ぐぉッ!?」

 ジョセフが港で言っていた通り随分と己の欲に忠実なポルナレフに、思わず花京院の背後でゆらりと緑色の影が揺らめいたと同時――ポルナレフから何とも言えないくぐもった呻き声が発せられた。

「な、何すんだ承太郎……ッ!」

 どうやら承太郎がポルナレフの脛を蹴り飛ばしたらしい。弁慶の泣き所と言われるくらい痛みに弱い箇所に遠慮のない衝撃を与えられたポルナレフは、目に涙を浮かべ承太郎を睨み付けている。対して承太郎はと言うと、一切悪びれる様子もなく蹲るポルナレフを見ては嘲笑するかのように鼻で笑っていた。本来仲間に向ける態度と行動ではないのだが、こればかりは仕方がない。

「自業自得ですね」
「親睦を深めたいのなら誠実でいるんだな」
「神凪ちゃんそこの変態から離れるんじゃ」

 残念ながらここにいる男性陣の中でポルナレフの心配をする者はいなかった。むしろ口々に辛辣な言葉を投げ掛けられたポルナレフはあんまりだと鼻を啜る。

「ねえ、ポルナレフ大丈夫なの?」
「気にする必要なんざねえよ」
「いやでも──」

「放せ! 放しやがれッ!」

 距離が異様に近いポルナレフから解放されたのはいいが、蹲ったまま動かないでいるのは少々気になる。蹴りを入れた張本人には気にするなと言われたが、それでもやはりポルナレフの様子が気になった神凪が声を掛けようとジョセフの隣から一歩踏み出したその時、甲板に大きな声が響き渡った。

「このボンクラが〜〜ッ!」
「静かにしろッ!」
「おいどうした!」

 声が聞こえてきた方へ承太郎一行が顔を向けると、一人の水夫が暴れる少年を取り押さえている現場が目に入ってきた。

 誰がどう見ても只事ではなさそうな事態に。そして、なぜ子供が乗船しているのか疑問に思ったジョセフが何事だと、未だじたばたと暴れる少年と格闘する水夫へ声を掛ける。

「わしらの他には乗客は乗せない約束だぞ!」
「すみません、密航です」
「密航?」

 まさかの回答にジョセフは水夫の言葉を復唱する。

 水夫の話によると、何でも少年は船倉にずっと身を潜めていたらしい。大きな貨物が積まれているために、体の小さな子供が隠れるのには最適だったのだろう。それゆえ出航し、水夫が念の為と見回りに行った今の今まで誰にも気付かれなかったようだ。

「海上警察に突き出してやる!」
「えっ警察!?」

 放せ、でなければ急所を蹴り潰すと喚く少年。しかしそんな脅し文句で水夫が怯むはずもなく、むしろ水夫が口にした『警察』という言葉に焦りを見せたのは少年の方だった。

「お、お願いだ、見逃してくれよ!」

 さすがにまずいと思ったのか、少年は先程までの威勢を消して水夫に懇願する。自分はただただシンガポールにいる父親に会いに行きたいだけなのだと。何でもする、こき使ってくれてもいい。だから自分も乗船させてほしいと。

 水夫はどうしようかと悩む素振りを見せながら少年の頬や耳をつまむ。その態度はどう見ても少年の処遇を真面目に考えていないのだが、それでも少年は反抗することなくされるがまま「お願いだ」と何度も懇願した。

「やっぱりだめだね! ヤーだよッ!」

 しかし、やはりというか水夫が少年の乗船を認めるはずもなく。揶揄うように少年の鼻を指でピンッと弾いた水夫の意思は、少年を警察に突き出すことに変わりはないようだ。

 必死の懇願も虚しく残酷な現実を突きつけられた少年の目からは涙が零れる。ただ、それも一瞬のことだった。

「とりあえずキャプテンに報告するからついて――ウギャア!」

 流れる涙を払うように頭を振った少年は、自分を連行しようとする水夫の腕に思いきり噛みついた。甘噛みなんて可愛いものではない本気の噛みつきは相当の痛みをもたらすようで、水夫からは承太郎に脛を蹴られたポルナレフ以上の悲鳴が上がる。

「えぇっ!?」
「オホーッ! 飛び込んだぞ!」

 そして、少年は拘束する水夫の腕が緩んだ一瞬の隙をついて海へと飛び込んでしまった。

 元気がいいと感心するポルナレフの横で、神凪は少年が取った行動に心底驚いていた。まさか自ら海に飛び込むなんて。恐らく警察に突き出されるくらいなら――との考えで飛び込んだのだろうが、もう船は随分と沖に出てしまっている。

「ここから陸まで泳ぐ気なのか」
「どうする?」

 無謀とも言える少年の決断に、花京院とジョセフも船の上から海を覗き見た。下では少年が遥か遠くに見える香港の港に戻ろうと必死に泳いでいる。しかし、波が押し寄せる海を子供が泳いで渡るには限度があるだろう。

「助けてあげた方が……!」
「ほっときな」
「でも承太郎!」
「泳ぎに自信があるから飛び込んだんだろーよ」

 承太郎の言う通り、泳げないのであれば初めから少年は海に飛び込むことはしなかっただろう。その証拠にゆっくりではあるが、少年は確実に船から距離を離していっている。ただ、どこかで必ず少年の体力は限界がくる。そうなってしまえば休む場所などない海の上では溺れてしまうに違いない。

「ま、まずいっスよ……」

 見ず知らずの少年ではあるが、このまま見捨てるのは神凪の良心が痛む。だからこそ何とかできないのかとジョセフへ縋るような視線を向けたが、痛みから回復した水夫が冷や汗を流しながら発した言葉に顔を蒼褪めさせながら、またしても海へと視線を戻すことになった。

「この辺はサメが集まってる海域なんだッ!」

 水夫の言葉に皆が驚きながら少年がいる海面付近を凝視する。すると、どうだろう。水夫が危惧した通り、少年の周りを獲物を狙うようにグルグルと泳ぎ回る大きな魚影が一つ。

「おい小僧! 戻れーッ! 戻るんだッ!」
「危ないよっ!」
「サメだぞ! サメがいるぞぉ!」

「えっ!?」

 しっかりと魚影を確認したジョセフたちは声を張り上げ、少年に危険が迫っていることを知らせる。そしてその声は泳いでいた少年に無事に届いたわけだが、サメと聞いて驚き、動きを止めてしまった少年は更なる恐怖を味わうことになる。

「うわああああッ!!」
「――いやっ!」

 船の方を振り返った少年の目と鼻の先には大きな背鰭が見えた。それがサメであると理解した時にはもう既に遅し。大口を開けて自分を捕食しようと迫り来るサメに、少年は恐怖から悲鳴を上げることしかできなかった。

 映画なんて比にならないくらい恐ろしい光景に、神凪は現実から逃げるように咄嗟に目を瞑った。光が遮断され一面が薄暗い闇に包まれる。その瞬間、神凪の頬をふわりと一条の風が撫でた。

『オラオラオラァ!』

「! スタープラチナ……?」

 閉ざされた世界の中で聞こえてきた力強い声。少年の悲鳴とは似ても似つかないその声に神凪が慌てて目を開けると、彼女の目にサメを容赦なく拳で殴打する『星の白金』の姿が飛び込んできた。

「……承太郎!」

 ここで神凪は瞬時に理解した。あれだけ少年に対して我関せずだった承太郎が、少年を窮地から救ったのだと。今頬に感じた優しい風は、承太郎が制服が濡れることも厭わずサメの領域である海に飛び込んだ証なのだと。

「やれやれだぜ、クソガキ」

 結局少年を放ってはおけなかった優しい承太郎に、神凪はホクホクと心を温める。その一方で温かいとは言えない海に飛び込んだ承太郎は、襲い迫ってきたサメが力なく海面に浮かぶ様を不思議そうに見ている少年を船に連れ戻そうと、彼の胸ぐらを掴んだ。

「ん?」

 一匹倒したところで安全とは言い難い。いつまたサメが寄ってくるか分からないため、早急に船に戻る必要がある。だがそんな状況の中で不意に承太郎が泳ぎを止めた。何か思うことがあるのだろうか、承太郎は少年をじっと見下ろす。そして――。

「――てめえ」

 承太郎は唐突に少年の胸元に手のひらを押し当てた。途端に少年の頬が赤く染まる。その反応と、手のひらに伝わる微かではあるが柔らかい感触からして、承太郎は感じた違和感の正体が何であるかを把握することができた。

「女か。しかもまだションベンくせえ」

 答え合わせをするかのように、承太郎は少年が深く被っていた帽子を弾き飛ばす。すると、帽子の中に収まっていた黒髪が重力に従って落ち、海面へと広がった。

 そう、目の前にいるのは少年ではなく少女だったのだ。

「よ、よくも俺の胸をじっくりイジリやがったな! ちくしょーッ!」

 少年改めて少女は、羞恥から頬を真っ赤に染めながら承太郎に怒りをぶつけようと腕を振る。しかし相手は自分よりも遥かに屈強な男。当たり前だが、いとも簡単に承太郎に平手打ちを防がれてしまった。

「……やれやれだ」

 羞恥、怒り、悔しさ。色んな感情が入り交じった表情で自分を睨みつけてくる少女に、承太郎は面倒くさそうに溜息を吐いた。まあガキにどう思われようが知ったことではない。今はとにもかくも船に戻ることが最重要なのだから。

「承太郎〜! こっちだよ〜!」

 抵抗されぬよう少し強く少女の腕を掴んだ承太郎は、神凪が海に投げ入れた浮き輪を目指して再び泳ぎだした。

 そんな承太郎の背後で、サメとは違う不気味な影がゆらりゆらりと蠢いたのだが――今はまだ誰もそのことに気づくことはできなかった。

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