長い手足を活かして泳ぐ承太郎は、投げ入れられた救命用の浮き輪へその距離を着実に詰めていた。ちょうど現地点から目的地まで半分程になっただろうか。目測で承太郎がそんなことを思ったその時。
「――承太郎ッ!」
ふと神凪が承太郎の名を呼ぶ。どこか切羽詰まったような声色に承太郎が少し先にある船を見上げると、神凪とそしてジョセフまでもがこちらを指さして声を上げていた。いや、違う。神凪たちが指をさしているのは俺じゃあない。
承太郎は背後を振り返る。すると彼の目に、縦に真っ二つに裂けたサメの死骸が映り込んできた。明らかに『星の白金』ではない、まるで鋭利な刃物で斬られたかのようなサメの無惨な有様に、承太郎はただならぬ事態を察した。
「下だよ! 水中から何かが来てるッ!」
「サメではない! すごいスピードだ! 承太郎早く船まで泳げッ!」
水面下から得体の知れないモノが来ている。神凪とジョセフからの警告と、肌で感じる気配から脅威が迫って来ていることを察知した承太郎は、腕を引いていた少女を半ば強引に抱えて浮き輪を目指し泳ぎだした。
しかし、子供を抱えて泳ぐ承太郎よりも水面下に潜む影の方が何倍も泳ぐスピードは速い。あっという間に開いていた距離を縮めたその影は、もう承太郎の真下へと姿を移していた。
「あの距離なら僕に任せろ!」
先程よりも承太郎の下にハッキリと色濃く映る大きな影に、神凪とジョセフは酷い焦りを浮かべる。浮き輪まであと少しではあるが、このままだと承太郎は間に合わない。何か他に承太郎を引き上げる手立てはと思考を巡らせたその時、神凪の隣に立つ花京院から力強い声が上がった。
花京院の『法皇の緑』はここに集うスタンドの中でも一際射程距離が長い。一つの強みと言えるそのステータスは、このような場面でしっかりと光り輝く。
「ハイエロファントグリーン!」
花京院の呼び掛けに応えるように現れた『法皇の緑』は、するすると海を目掛けて伸びて行き、浮き輪を掴もうと手を伸ばした承太郎の腕を取り強く引き上げた。勢いに乗った承太郎と承太郎に抱えられた少女の体がふわりと宙に浮く。その直後、承太郎が掴もうとした浮き輪がサメと同様バラバラに切り裂かれた。
「二人とも大丈夫!?」
「き、消えたぞッ!」
間一髪。花京院と『法皇の緑』のおかげで無傷で船に戻ることができた承太郎と少女に神凪が駆け寄り、ポルナレフは影の全貌を見てやろうと柵から身を乗り出すようにして海を覗き込む。しかしどうやら少し遅かったらしい。影は既に水面下に潜り込んでしまったようで、見えたのは嘘のように穏やかになった海面だけだった。
だが、これだけはハッキリと言える。承太郎を襲った今の不気味な影は――。
「スタンドだ! 今のはスタンドだッ!」
「海底のスタンド……このアヴドゥル、噂すら聞いたことのないスタンドだ……」
泳ぐスピード、鋭い切れ味を持つ攻撃。どちらも到底自然界の生物とは思えないくらい高い能力に見えた。それにあの影は明確な殺意を持って承太郎を狙っていた。もうここまで役が揃えば不気味な影の正体が何であるか、承太郎一行が想像つくのは非常に容易い。
しかし、スタンドに詳しいアヴドゥルですら全貌は分からなかった。何せ全くと言っていいほど情報が無いのである。どんな姿形をしているのか。どんな能力を持っているのか。どのような暗示のスタンドなのか。本体のスタンド使いはどのような奴なのか。全てが未知数だった。
(この女の子……ま、まさか……)
(今のスタンドの使い手か……?)
(まさかサメの海にJOJOをわざと誘い込んだか?)
未知数だからこそ、承太郎一行は少女のことを疑わずにはいられなかった。まさか今までの一連のやり取りは演技で、自ら海に飛び込むことで承太郎を始め我々を始末しようとしたのではないか、と。サメに喰われれば手間が省ける。そうでなければ海がホームである海底のスタンドで直接手を下せばいいのだ。実に合理的な作戦と言えるため、承太郎一行の少女に対する猜疑心が増々強まっていく。
「おい神凪。こっちへ来な」
「えっ? でもこの子が……」
「いいから来い」
まだ確定したわけではないが、少女がスタンド使いである確率は極めて高い。今この時だって、何が何だか分からないと言った様子で乱れた呼吸を整えようとしているが、それも全て正体がバレないようにするための演技かもしれない。その可能性が拭えない以上、少女へ不用意に近付くのは賢明な判断だとは言えない。だから承太郎は少女の背中を摩り、介抱していた神凪を強引に少女から引き剥がした。
「な、なんだーッ!」
承太郎一行の警戒心、猜疑心はいよいよ少女にも伝わったらしい。警察に突き出すと言っていた水夫など足元にも及ばぬほどの鋭い眼光で睨み付けてくる大柄の男たちに、少女は慌ててその場から立ち上がると、オーバーオールのポケットから折り畳みナイフを取り出した。
「何が何だか分からねーが、や、やる気かァ!」
少女はナイフの刃先を承太郎一行に向け、戸惑いを見せつつも威勢よく声を張り上げる。
「このアン様をナメんな! 相手になったるッ! タイマンだぜ、タイマンで来いッ! このビチグソがァ!」
自分をアンと名乗った少女は、決して上品とは言えない言葉で承太郎一行を威嚇した。
(とぼけてやがるぜ)
掛かってこいと手招きするアンを前にして承太郎一行はすかさず目配せをし、どのように彼女の正体を暴いてやろうかと意思疎通を図る。
もう一度海へ落としてみようか。いや、それではもしも少女が本当に普通の女の子であったらサメに喰われるだけだ。しかし船員10名の身元はしっかりと確認済み。怪しいのは密航者として船に乗り込んできたこの少女だけだ――。
「おい。DIOの野郎は元気か?」
何か正体を掴む方法は無いものかと皆が思案していると、不意にアブドゥルがアンへとDIOについて尋ねた。どうやら敢えてDIOの名を出すことで、アンがどのような反応をするか見ようとしているらしい。
「……DIO? なんだそれはァ!」
「とぼけるんじゃあねえ、このガキッ!」
「この田吾作どもッ! おれと話がしてーのかそれとも刺されてーのかどっちだッ!」
DIOの名を聞いてアンはバイクの名前かと首を傾げた。彼女の反応を素直に捉えるならDIOのことは知らないようだ。しかしまだ知らん振りをしている可能性も十分ある。むしろ正体が分かるような真似をそう簡単にひけらかす者の方が稀だ。だからこそポルナレフはとぼけるなとアンに更なる圧をかけたのだが、アンは頑として『何のことか分からない』という態度を崩すことはなかった。
「この妖刀が早えーとこ340人目の血をすすりてえって慟哭しているぜ!」
承太郎一行を煽るようにナイフを構え、そのナイフの刃のそばで舌舐りをするアン。
「フフッ」
「よ、妖刀……!」
「なッ!」
しかし、アン渾身の煽り文句は空振りに終わる。
「な、なにがおかしい! このドサンピン!」
花京院と神凪に笑われてしまったアンは、込み上げてくる羞恥心を隠すようにこれまた漫画で覚えた台詞を吐く。
「ドサンピン……」
三一。今ではほとんど聞くことのない、身分の低い侍や若党を卑しんでいう江戸時代の語がまさか外国の少女から出てくるなんて。妖刀と言い三一と言いなかなか良い趣味をしているアンに、花京院はふと纏っていた雰囲気を柔らかいものに変えた。
「なんか、この女の子は違うような気がしますが」
「ちょっと考え過ぎじゃない?」
「うむ……しかし……」
花京院に続き神凪もアンはスタンド使いじゃないのではとジョセフに進言する。確かにDIOからの刺客にしてはあまりにも言動が幼いとは思う。それに殺気が全くと言っていいほどアンからは出ていない。そもそもスタンド使いなのであれば、妖刀に毛ほども見えない小さなナイフをチラつかせる必要なんてないのだ。
よく観察すればするほどアンはDIOとは関係のない、本当にただの密航者に見えてくる。しかし、素性が分からないのはこの船に乗っている者の中でアンただ一人。疑い過ぎなのか、アンの正体がハッキリするまで警戒しておくべきか。花京院と神凪の言葉を受け入れつつも、どうするべきかと年長者であるジョセフは熟考する。ただ、その時だった――。
「――この女の子かね。密航者と言うのは」
アンの背後に大きな影が覆い被さるように差し掛かったのは。
「……
船長」
アンの背後に現れたのは船長のテニールだった。
恐らく例の水夫から密航者が乗り込んでいると報告を受けたのだろう。承太郎やジョセフに負けず劣らずの体躯を持ったテニール船長は、その逞しく大きな手でナイフを持ったアンの右腕と小さな体をがっちりと押さえつけた。
「私は密航者には厳しいタチだ……」
密航者に厳しい。その言葉の通り、アンを押さえつける力は相当なものなのだろう。痛いと口にする彼女の顔は可哀想になるくらい歪んでいた。だからだろうか。神凪はテニール船長に声を掛けずにはいられなかった。
「あのっ!」
「うん? なんだねお嬢さん」
「確かに密航は悪いことです……でもアンちゃんはまだ子供だし、それに女の子なのでそこまで強く拘束するのは――」
「女の子とはいえナメられると限度なく密航者がやってくる。船長として女の子だからと密航者を許すわけにはいかないのだよ。分かってくれるかね?」
お嬢さん。有無を言わさぬ眼光でテニール船長に見下ろされた神凪は、それ以上アンを放してほしいと懇願することはできなかった。テニール船長が放つ威圧感も然る事乍ら、船の上でのルールは船長に従うしか他ならないのだから。
「港に着くまで下の船室に軟禁させてもらうよ」
神凪が大人しく引いたこと。そして、アンが握っていたナイフが甲板に落ちる様を確認したテニール船長は一際力強くアンの腕を捻り上げ、そのまま彼女の身柄を後ろに控えていた水夫二人に渡してしまった。悲鳴を上げ、屈強な男たちにとっては本当に些細でしかない抵抗をするアンを見ることしかできない神凪は、我関せずと言った様子で煙草を吸う承太郎の学ランを縋るように掴む。
「船長。お聞きしたいのですが――」
そんな神凪を知ってか知らずか、彼女の肩にポンと手を置いたジョセフが、水夫と共にアンを連行しようとしているテニール船長へ声を掛ける。
「船員10名の身元は確かなものでしょうな」
「間違いありませんよ。全員が10年以上この船に乗っているベテランばかりです」
ジョセフは今一度船員の身元をテニール船長に問うた。スタンド使いなのではと目星をつけていたアンが違うとなると、船員の中に潜んでいるとしか考えられない。だからこそもう一度しっかりと確認しようとしたのだが、テニール船長から返ってきた答えは乗船する前に聞いた答えと全く同じであった。
どうして船員の身元をそこまで神経質にこだわるのか分からない。ジョセフがこだわる理由を知らないテニール船長は、不思議そうにしつつも徐にアンから離れジョセフの元へと近づいていく。
「――ところで!」
そのままゆっくりとジョセフの前を通り過ぎ、神凪の前をも通り過ぎると、テニール船長は承太郎の前で足を止めた。そして次の瞬間――。
「甲板での喫煙はご遠慮願おう」
何とテニール船長は、承太郎の口にくわえられた煙草を取り上げたのだ。突然のことに承太郎の目が微かに見開かれる。そんな彼の眼前に、先ほどまで自分が吸っていた煙草がテニール船長によって突き付けられた。
「君はこの灰や吸い殻をどうする気だったんだね? この美しい海に捨てるつもりだったのかね? 君はお客だがこの船のルールには従ってもらうよ。未成年くん」
ジュッ、と火のついた煙草が承太郎の制帽のバッチに押し付けられた。制帽の鍔にはパラパラと灰が降り積もる。テニール船長の言うことはもっともだが、まさかここまでするとは思いもしなかった神凪が承太郎の隣で息を呑む。
「分かったね?」
神凪だけでなく、事の成り行きを静観していたジョセフや花京院たちもただならぬ雰囲気とテニール船長の行動に呆気に取られる中。渦中の人物は火の消えた煙草を承太郎の制服のポケットに入れると、何事もなかったかのようにその場を立ち去ろうと背を向けた。
「待ちな」
だが、その背中に声を掛ける者が一人。
「口で言うだけで素直に消すんだよ……大物ぶってカッコつけんじゃあねえ、このタコ!」
それはやはりと言うべきか、テニール船長に手痛い咎めを受けた承太郎だった。
「おい承太郎! 船長に対しての無礼はやめろ!」
「そ、そうだよ! 今のは良くないよ!」
気持ちは分からないでもない。しかし、だからと言って悪態を吐いて良い理由にはならないため、ジョセフと神凪が慌てて承太郎を窘める。テニール船長の気分を害し、船から降りろなんて言われでもしたら堪ったものじゃない。せっかくシンガポールまでの移動手段を手にしたというのに、ここで仲違いをして全てを台無しにするのだけは何としてでも避けたかった。だが、承太郎は『承知の上の無礼だ』と言ってテニール船長を鋭く睨みつけることを止めなかった。
そしてそれだけでなく、承太郎は更にとんでもないことを口走る。
「こいつは船長じゃあねえ。今分かった。スタンド使いはこいつだ!」
「えっ!?」
「なにィ――!?」
テニール船長こそがスタンド使い。そうハッキリと断言した承太郎に、神凪たちは皆一斉に驚愕の声を上げた。
「スタ、ンド? 何だねそれは一体……」
「それは考えられんぞ承太郎! このテニール船長はSPW財団の紹介を通じ身元は確かだ! 信頼すべき人物……スタンド使いの可能性はゼロだ!」
承太郎の発言にすかさず抗議をしたのはアヴドゥルだった。ジョセフと同様にSPW財団と親交があるアヴドゥルは、何かとサポートしてくれる財団に厚い信頼を寄せている。その財団が紹介してくれた人物なのだからテニール船長もまた信頼を寄せるに相応しいのだと、アヴドゥルは承太郎に力説する。
そして、そんなアヴドゥルの話を助長させるようにテニール船長は『何の話をしているのか分からない』と首を傾げ、心底不思議がっていた。
「ふん」
だが、それでも尚承太郎はテニール船長を鋭い眼光で睨みつけている。その姿は自分の意見は間違っていないと言っているようなものだった。どこにそこまでの自信があるのか。もしかしたら承太郎にはテニール船長がスタンド使いだと確固たる証拠があるのだろうか。
「証拠はあるのかJOJO!」
「スタンド使いに共通する見分け方を発見した」
「なにッ!?」
「見分け方なんてあるの?」
「ああ。スタンド使いはタバコの煙を少しでも吸うとだな――鼻の頭に血管が浮き出る」
「えっ!」
承太郎の言葉にまたもや神凪たちは皆一斉に驚きの声を上げ、咄嗟に鼻頭を手で押さえた。
まさかスタンド使いかどうかを見分ける方法があったなんて。それも鼻という、顔の中心である目立つ部分に現れるとは。
「血管浮き出てる?」
残念ながら手鏡は船室にある鞄の中のため自分自身で確認する術を持っていない神凪は、ジョセフに見てと顔を向ける。ジョセフもジョセフで初めて耳にした見分け方に興味があるのか、どれと至近距離で神凪の顔を覗き込む。
そんな二人の横では、ポルナレフが承太郎へ信じられないと言いたげな様子で詰め寄っていた。
「嘘だろ承太郎ッ!」
「ああ、嘘だぜ」
「嘘なの!?」
「だが――」
さらりと『嘘』だと言った承太郎に神凪は目を見張る。しかし承太郎の嘘がただ適当に、場を混乱させるためだけに吐いたものではないことをこの直後に身をもって知ることになる。
「マヌケは見つかったようだな」
「? ……あっ!」
どうやら承太郎の嘘に引っ掛かったのは神凪たちだけじゃなかったらしい。同じように驚き、同じように鼻を隠すように手を当てていたのは――船長のテニールだった。
スタンドという能力を本当に知らないのであれば同じ行動は取らないはずだ。現にいつの間にか水夫たちの拘束から逃れられたアンは、一斉に鼻を触りだした一行を見て何をやっているんだと訝しげにしている。それが何よりの証拠だった。
「承太郎。なぜ船長が怪しいと分かった?」
墓穴を掘ってしまい、自らスタンド使いであることを証明してしまったテニール船長。ここまで来たらもう言い逃れはできないと悟ったのか、船長の顔付きがどんどん不気味なものへと変化していく。
今までどこに収めていたのか。途端に痛いくらいの殺気を放つテニール船長を一瞥したジョセフは、承太郎に尋ねた。SPW財団からの紹介という色眼鏡があったのは勿論だが、誰もテニール船長が怪しいとは思いもしていなかった。しかし承太郎だけはそれを見抜いた。一体、彼はどこで怪しいと確信したのだろうか。
「いや。全然思わなかったぜ」
だが、承太郎から返ってきたのは予想だにしないまさかの回答だった。
「船員全員にこの手を試すつもりでいただけのこと――だぜ」
誰がスタンド使いであるかなんて、承太郎も全く見当がついていなっかたらしい。それならば一人ずつ、虱潰しに思いついたハッタリをかまし炙り出せばいい。そう承太郎は画策したようだ。そして、その作戦は幸運にも一発目で効果を発揮した。
「シブイねェ……」
頭の回転の早い承太郎にまんまとしてやられたらテニール船長は、それは愉快そうに笑った。
「全くお宅シブイぜ。確かにおれは船長じゃねえ。本物の船長はすでに香港の海底で寝ぼけているぜ」
「それじゃあてめえは地獄の底で寝ぼけな!」
とうとう本性を表したテニール船長を騙ったスタンド使いの男に、承太郎はビシッと指をさし力強く言い放つ。これから叩きのめしてやるとでも言うように。
「! なにか、上がってきてる……ッ」
しかしこの時。男に承太郎一行の意識が向いているのをいいことに、海面からするすると甲板へ忍び寄ってきている影が一つあった。そのことに気がつけたのは、アンと共に甲板の端に立っていた神凪ただ一人だけだった。
「危ないッ!」
人の手ではない。鋭い爪と水掻きのついた大きな手が甲板と柵の隙間から出てくる瞬間を目にした神凪は、隣に立っていたアンを承太郎たちの方へと突き飛ばした。その直後、神凪の足が強い力で掴まれる。
カタン、と差していた番傘が音を立てて落ちた。
「ぐ、っ……!」
「――ッ!」
「神凪ちゃん!?」
あっという間に体を拘束されてしまった#name1は、息苦しさにくぐもった声を漏らす。そんな彼女と、彼女を拘束する体中を鱗に覆われた半魚人のような生物の姿を捉えた承太郎一行は、しまったと焦りの色を見せる。
ほんの一瞬の隙をついて神凪を捕らえたこいつは間違いない。勝ち誇ったように不敵に笑う男の半身――スタンドだ。
「水のトラブル! 嘘と裏切り! 未知の世界への恐怖を暗示する”月”のカード!」
その名も
『暗青の月』
「てめえらと6対1じゃさすがのおれも骨が折れるから、正体を隠し一人ひとり順番に始末してやろうと思ったが……バレちまってはしょうがねえな」
男は多勢に無勢のこの状況でやらざるをえまいと腹を括った。しかし、仕方ないとは言いつつも男の顔には余裕が浮かんでいた。何故なら『暗青の月』の腕の中には、何よりも捕えたかった神凪がいるのだから。
「この娘が手に入ったのはおれに運が向いている証拠……今からこの娘と一緒にサメの海に飛び込むぞ。当然てめえらは海中へ追って来ざるをえまい!」
大きな背鰭と水掻きのついた手足を持つ『暗青の月』は、もちろん水中戦に特化したスタンド。ホームグラウンドである海の中であれば、6体1という人数の不利など全く関係ないのだ。
「承太郎! 私のことはいいから早くスタンドを――ひっ!?」
柵に飛び乗った男を見た神凪は、咄嗟に承太郎へと叫んだ。私のことは気にせず『暗青の月』が海に飛び込む前に攻撃してほしい、と。
しかし、日本を発つ時に足手まといにならないと決めた神凪の決死の叫びは、露出している太腿を厭らしく撫でてきた『暗青の月』によって最後まで承太郎に届くことはなかった。
海洋生物特有のヌメりと冷たい感触を肌に感じた神凪は、生理的な嫌悪感に襲われ思わず引きつった悲鳴を上げる。
「まさか見捨てるわけねえよなァ? お前らの大切なオヒメサマなんだろ?」
「き、貴様ァ……ッ!」
承太郎一行を挑発するように親指で神凪をクイッと指さす男と、無遠慮に神凪の体を弄る『喑青の月』に、ジョセフは怒りの感情を剥き出しにする。わしの可愛い孫に触るなクソ野郎。殺気を孕んだジョセフの目はそう言っていた。
「人質なんかとってなめんじゃあねえぞ。この空条承太郎がビビり上がると思うなよ」
挑発に乗せられたジョセフは今にも男に飛び掛かりそうな勢いだ。だが、そんなジョセフとは対照的に承太郎は極めて冷静だった。
「なめる? これは予言だよ!」
幼馴染みが敵に捕らえられても冷静さを欠かない承太郎に、男は一つある提案をした。
拳銃の弾丸を容易に掴める『星の白金』。そして、海中ではどんな魚よりも華麗に舞い泳ぐことができる『喑青の月』。どちらも素早さに自信を持っている者同士、ここは勝負をしてみようと。
「ついてきな。海水をたらふく飲んで死ぬ勇気があるならな」
もちろん戦いのフィールドは海。だから男は勝負を始めるため、捕らえた神凪を連れて船から勢いよく身を投げた。体を襲う浮遊感に神凪は大きな悲鳴を上げ、無意識に助けを求めるように手を伸ばす。しかし、甲板に立っている承太郎とは距離がある。
(……っ、!)
だめだ、届かない。神凪は自分の遠くない未来を察し、息を止め固く目を閉じた。
「海水をたらふく飲むのはてめえ一人だ」
――だが、神凪の体は海に沈むことはなかった。
「ス、ター……プラチナ……?」
何故なら伸ばされた神凪の手を、『星の白金』がしっかりと握っていたのだから。
「ら、落下するより早く……こ、攻撃してくるなんて……そんな……」
呆然と『星の白金』の翡翠の瞳を見上げていた神凪の耳に、ついさっきまでの声色と打って変わった男の弱々しい声が届く。海の方から聞こえてきたその声にハッと意識を戻した神凪が慌てて下を向いてみると、威勢よく飛び込んだ男が顔中を真っ赤な血に染めて海面にぷかぷかと浮かんでいる姿が視界に入ってきた。
どうやら既に決着はついたらしい。得意のフィールドにすら立たせてもらえなかった男は、信じられないものを見るような目で甲板から一歩も動いていない承太郎と、『喑青の月』にラッシュ攻撃を喰らわせ神凪の拘束を解いてみせた『星の白金』を見上げる。素早いとは聞いていたがまさかここまでとは。
「アヴドゥル。なにか言ってやれ」
「占い師の私を差し置いて予言するなど――」
「10年早いぜ」
予言を見事に外した男に、ポルナレフが得意気に笑った。
* * *
「スタンドの能力自慢を散々していた割には大ボケかましたヤツだったな」
与えられたダメージが相当大きかったのか、泳ぐ力も気力もない男は潮の流れによってどんどん流されていく。その何とも情けない姿を目にしたポルナレフは、大口を叩いていた男の呆気ない幕切れにやれやれと
頭を振る。
「神凪ちゃん大丈夫かッ!?」
「だ、大丈夫……!」
一方ジョセフは、柵から身を乗り出す勢いで神凪の方を覗き込む。片手だけを『星の白金』に掴まれているため体が宙をぶらぶらとさまよっているが、返事を聞く限り神凪にはどこも怪我や異常は無さそうだ。承太郎と『星の白金』のおかげだと話す神凪を見て、ジョセフは安堵の息を吐き出した。
「なにしてる承太郎! 早く神凪ちゃんを引っ張りあげてやらんかいッ!」
しかしホッと息を吐いたのも束の間。ジョセフは承太郎を急かすように叱咤した。
ただそれもそのはず。日光に弱い神凪が強い日差しが降り注ぐ空の下に、番傘も差せずに放り出されているのだ。今すぐどうにかなるわけではないが、神凪を溺愛するジョセフからすれば今の状況は非常によろしくなかった。白い肌が日に焼けてしまう前に早いところ引き上げ、神凪の綺麗な肌を守らなければ。そんな思いでジョセフは承太郎に早くしろと声を掛ける。
「……くっ、……!」
「どうした承太郎!」
「……承太郎?」
だが、どういう訳か承太郎はなかなか神凪を引き上げようとはしない。それどころか承太郎は徐々に体勢を崩していき、つい先程のジョセフのように柵から身を乗り出しそうになっている。
どこか様子のおかしい承太郎にジョセフは近付いていき、神凪は上を見上げる。アヴドゥル、ポルナレフ、花京院の三人も何だどうしたと承太郎に視線を向ける。すると、そんな彼らの目にとんでもない光景が映り込んできた。
「ち、ちくしょう。引きずり込まれる……!」
「こ、これはッ!」
「フジツボだッ!」
それは岩や船底によく固着している甲殻類のフジツボが、『星の白金』の腕から船腹にかけてびっしりと付着している――といったものだった。
凄まじい勢いで気持ちが悪いほどに増殖していくフジツボは、『星の白金』の腕に相当強く食い込んでいるのだろう。その証拠に、承太郎の両手からは血が噴き出し始めていた。
「奴はまだ戦う気だ……さっき殴った時くっつけやがった。どんどん増えやがる……俺のスタンドから力が、抜けていく……!」
承太郎の額に汗が滲む。夥しい数のフジツボが食い込んでいるおかげで『星の白金』に力が入っていかない。少しでも気を緩めたら最後、このまま海に向かって真っ逆さまだろう。
「承太郎! スタンドを引っ込めろッ!」
「馬鹿言ってんじゃあねえぞジジイ! 下には神凪がいんだぞ……ッ!」
いつの間にか海面を漂っていた男の姿が無くなっていることに気づいたジョセフは、承太郎にスタンドを収めるよう指示を出す。きっと男は散々豪語していたホームグラウンドの水中に承太郎を引きずり込もうとしている。先に潜り込みチャンスを今か今かと待ち構えているのだ。その手に乗らないためにはスタンドを収める必要がある。
しかし、そう簡単に承太郎が『星の白金』を収められない理由があった。落ちないよう踏ん張りながらも睨むように見上げてくる承太郎に、ジョセフは思わず唇を噛みしめた。そうだ。『星の白金』のフジツボに覆われた手には――。
「っ、承太郎! ジョセフおじいちゃんの言う通りスタープラチナを戻して!」
自分のせいで承太郎はもちろん、承太郎の体を支えているジョセフまでもが海に落ちかねない。だから神凪はまたしても承太郎に向けて叫んだ。私のことはいいから承太郎自身の身を守ってほしい、と。
「……は?」
誰にも邪魔をされなかった神凪の言葉は、今度こそ最後までしっかりと承太郎に届いた。だからこそ承太郎の顔が苦痛とはまた別の要因で歪む。
「神凪。お前なに言ってやがる」
「このままじゃみんな海に落ちちゃうよ!」
「……だからお前が落ちるって?」
「そう! 私なら自分で何とかするから――」
「嫌だね。この手は死んでも離してやらねえ」
「承太郎ッ!」
駄々をこねる子供のように嫌だとハッキリ言葉にし、こちらの要望に従う意思を全く見せようとしない承太郎に、神凪は思わず非難の色を乗せた声を上げる。絶体絶命のピンチに陥っている時に何をしているんだ。今ここでいつもの頑固な一面を見せている場合じゃないのだと。
「俺はお前を絶対ぇ引き上げる」
「――ッ!」
言葉で理解してもらえないのなら行動でと、神凪が今まで海に落ちまいと掴んでいた『星の白金』の手からいよいよ自分の手を離そうとした時――承太郎からとても力強い声が上がった。
「だからお前も手ェ離すんじゃあねーぞ」
いつになく真剣な声色にハッとし、顔を上げた神凪の頬に承太郎の顎から伝った汗が滴り落ちる。こんなに汗をかく承太郎を見るのは一体いつぶりだろうか。恐らく、力を吸われているため踏ん張っているのも辛い状況なのだろう。しかし、神凪を見つめる承太郎の翡翠の瞳は強い力を失ってはいなかった。それは分身である『星の白金』もまた同じ。
「分かった……!」
微かではあるが『星の白金』の手にグッと力が入ったことを感じ取れた神凪は、四つの翡翠を真っ直ぐ見つめ返しながら今度は離すまいと己の手にも力を入れた。固く繋がれる大きさの違う二つの手。だが――。
「承太郎ッ! 神凪ちゃんッ!」
やはり承太郎にも限界が来ていたのだろう。引きずり込まれぬようかきたくもない汗をかきながら必死に踏ん張っていたが、未だ増殖しているフジツボには抗えず、とうとう承太郎の体はずるりと柵を乗り越えてしまった。
「――ッ!」
まるで海に吸い込まれるように勢いよく下降していく承太郎と神凪。本日二度目の内臓が浮くような浮遊感に襲われた神凪は、今度こそ衝撃に備えるため固く目を閉じ息を止めた。
「花京院ッ!」
潮の香りが一段と鼻につく。きっともうすぐそこまでに海面が迫っているのだろうと落ち行く中、少しだけ冷静に今の状況を神凪が考えていると、ふと風を切る音に混じって承太郎の花京院を呼ぶ声が聞こえてきた。何だろう。そう思った次の瞬間、神凪の体が重力に逆らってふわりと浮いた。
(……っ、なに?)
思いもよらぬ感覚に神凪は驚き、一体自分自身に何が起きているのか確かめるために目を開けた。
「……ハイエロ、ファント……?」
そんな神凪の目に光と共に入り込んできたのは、鮮やかな緑色だった。神凪は『法皇の緑』によってしっかりと横抱きに抱えられていたのだ。どうやら承太郎が花京院の名を呼んだのはこのためにあったらしい。
再び海に落ちるのを免れ、神凪は安堵の息を吐く。しかしそのすぐ直後、下方から海面に何かがバシャンと強くぶつかる音がして神凪は非情な現実へと引き戻される。
「承太郎――ッ!」
絶対に引き上げる。そう言葉にした男は己の危険を顧みずしっかりと約束を果たし、一人深い海の中へと飲み込まれていった。
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