消毒液が染み込んだ白い綿球が傷に触れる度、滲み出た血によってそれが赤黒く汚れていく。

「……痛い?」

 消毒すると同時に傷周りに付いていた血の汚れも綿球によって綺麗に拭き取られ、より鮮明に目につくようになった頬の傷。刺傷のようにも見えるその傷を目の当たりにした神凪は、眉尻を下げて翡翠の瞳を見上げた。

「痛くねえよ」
「でもなんかちょっと穴開いて、」
「万年筆刺さっただけだぜ」
「まっ、万年筆……!」

 さらりと物騒なことを真顔で述べる承太郎は、言葉通り本当に痛いと感じていないのだろう。その証拠に万年筆が頬に刺さる光景を想像して「ひぇっ」と小さく悲鳴を漏らした神凪の手が震え、傷口に少しだけ強く綿球が触れてしまったのだが、承太郎は眉一つ動かさかなかった。

「ぜ、絶対痛いよそれ……」

 顔色を全く変えない承太郎の代わりに顔を青ざめさせた神凪は、それはもう恐る恐ると言った様子で傷口に絆創膏を貼ろうとしていく。

 昔から感受性豊かだった彼女は自分よりも人の痛みに敏感な節があった。身体の傷だろうが心の傷だろうが、人の怪我を見ると自分のことは後回しにして寄り添おうとする。まあそこが良いところでもあり悪いところでもあるのだが。

「そこだけでいいぜ」
「ダメだよっ! ちゃんと手当てしないとバイ菌入って悪化しちゃうんだから!」

 今回だって頬にできた小さな刺傷だけのために神凪はたっぷりと時間を掛け、丁寧に手当てを施してくれている。雑に行われるよりはまだマシだが、如何せんこのままでは全部の傷の手当てが終わるまでに相当の時間を有しそうだ。

 それに何より距離が近すぎる。怪我をした場所が場所だけに、先程から神凪の綺麗な顔がすぐ傍にあるのだ。いくら見慣れていると言えど、好いた異性の顔が息のかかりそうな距離感にあれば誰だって気が気じゃない。勿論承太郎だってそうだ。だから手当ては頬の傷だけでいいと申し出たのだが、残念ながらそれは神凪によって食い気味に断られてしまった。

(……やれやれだぜ)

 こうなると意地でも最後まで我を貫き通す神凪のことだから何を言ったって無駄だろう。

 全く人の気も知らねえで、と承太郎は内心悪態をつきながらも大人しく神凪からの手当てを受けることにしたようだ。ただし左膝の切り傷を除く、ではあるが。

「私やるよ?」
「自分でやるからいい」

 さすがにこれだけは譲ることはできない。何の感情もない女医の前ならともかく、神凪の前で制服のズボンを脱ぐような真似はどうしても避けたい、というのが承太郎の心情だった。

 いくら不良のレッテルを貼られようが、空条承太郎だって恋する思春期の男子なのである。

「それより、あいつはどうしてる」
「あいつ?」
「花京院」

 でも、と食い下がろうとする神凪の気を逸らすために承太郎は咄嗟に数時間前に命を狙われ、数十分前に命を救った『花京院典明』のことを思い出す。肉の芽が無くなり正気に戻った彼はその後どうなったのかと。

「聖子ママが傷の手当てをしてくれたから少しは顔色も良くなってたよ」
「ん、そうか」
「でも念の為ってことで花京院くん今日はここに泊まることになったみたい。だから今は客間にいるんじゃないかな?」
「……じじいが騒いでたのはそのせいか」
「ふふっ。聖子ママにお布団敷くように頼まれてたからね」

 花京院の様子と、ついでにジョセフが騒ぎながら客間を探していた理由も把握できた承太郎は呆れ混じりの小さなため息をつく。

 これから大事を取って休もうとしている矢先にあれ程の大きな声を聞かされては、花京院も堪ったものではないだろう。正気を取り戻したばかりだと言うのに不運な奴だな、と承太郎は少しばかり花京院に同情の念を抱く。

「でも、本当にあの気持ち悪い肉の芽が花京院くんから取れてよかったよね」
「ああ。そうだな」
「もう手遅れって聞いた時はどうなっちゃうのかと思ったけど……さすが承太郎だネ! 触手だって気持ち悪かったのに冷静にスタンドで引っこ抜いちゃうんだもん!」
「……おい神凪ちょっと待て」

 話の元になった肉の芽により傷つけられた左手を手当てしながら『すごい、すごい』と、言われた側が照れくさくなるぐらい純粋に褒めちぎる神凪。しかし承太郎は照れるどころか徐ろに神凪の手を止めるように掴みながら、怖い顔で目を丸くさせる彼女の顔を覗き込んだ。

「……お前」
「うん? あ、もしかして痛かった!?」
「違ぇ。お前今『スタンド』つったか?」
「え? う、うん……言ったね」

 眉を顰める承太郎に傷が痛むのかと神凪は慌てるが、承太郎からすれば触手が刺さっただけの小さな傷なんてどうでもよかった。それよりも彼は神凪の発した言葉の中にあったひとつの単語が気になっていた。本来神凪が知る由もない『スタンド』という単語が。

「神凪……お前こいつが見えんのか?」

 まるでスタンドがどういった物なのかを理解したような口振りで話す神凪に、承太郎はまさかと頭に浮かんだ仮説を確かめるため自身の背後にスタンドを出現させた。本当に見えているのであれば神凪の視線はきっと――。

「……やっぱりか」

 スタンドを出した途端、すっと滑るように動く神凪の視線。

「見えてるよ!」

 きらりと輝く蒼いふたつの瞳は、承太郎が思った通り背後に立つスタンドをしっかりと捉えていたのだ。このことにより承太郎が立てた仮説は見事に立証され、その驚きの事実に承太郎はやれやれとかぶりを振った。

「まさか神凪もスタンド使いだとはな」
「びっくりした?」
「ああ。おかげさまでな」
「ふふっ。私もびっくりしたから同じだネ!」

 でも実は『スタンド』っていう力があることを知ったのはついさっきなんだけどね、と笑った神凪は承太郎から彼の背後に立つスタンドへと再び視線を向ける。

「アヴドゥルさんが規格外って言ってたけど、本当に承太郎のスタンドってすごいね? 繊細だけど力強いし……あ、あとカッコいい!」

 アヴドゥルの『魔術師の赤』とはまた違いより人間に近い姿をしている承太郎のスタンドは、身に付けている装飾品や精悍な顔つきも相俟ってまるで拳闘士のようだった。拳ひとつで闘う勇敢な戦士。真っ直ぐ前を見据える翡翠の瞳は本体である承太郎と瓜二つで、悪を許さないと確かにそう言っていた。

「うん、やっぱりカッコいい!」
『…………』

 その雄々しい姿にキラキラと目を輝かせた神凪が再び『カッコいい』とそう告げれば、花京院の運命に悲しんでいた神凪を安心させた時のようにスタンドが柔い頬をするりと撫でた。

「なぁに?」
『…………』
「……なんか照れるなぁ」

(こいつ、)

 すりすり、と神凪の頬を優しく這う指先。言葉を話さないため明確な意図は分からないが、恥ずかしそうにはにかむ神凪を見つめるスタンドの目は、本体である承太郎からすると愛おしんでいるように見えた。

(……まさかな)

 スタンドとは自分自身の生命、及び精神エネルギーを具現化したものだ。

 前日にジョセフがスタンドについてそう説明していたことを思い出した承太郎は、目の前で積極的に神凪に触れるスタンドの姿を見ては、脳裏に浮かんでしまったまさかの考えをかき消すように瞳を閉じた。


* * *

「あら神凪ちゃん」

 ふわりと白い湯気を立てる緑茶と宝石のように綺麗な和菓子を乗せたお盆を持ったホリィがキッチンを出ると、庭を見渡せる縁側にひとり腰掛けてジョセフからのお土産であるチョコレートを頬張っている神凪と出くわした。

「ひとでどうしたの?」

 てっきり息子の部屋にふたりで一緒に居るものだと思っていたホリィは神凪の傍に膝を着き、どことなく寂しそうに見える彼女の顔を覗き込んだ。

「承太郎と一緒じゃあないの?」
「さっきまで一緒だったけど、なんか急に眠くなったって言われて追い出されちゃった」
「あら本当?」
「うん……まあでも、今日は承太郎色んなことがあったから疲れてるのかなって」

 実際のところ体力面精神面共にタフな承太郎は急に眠くなるほど疲れてなどいない。ただ単に自身のスタンドと神凪が仲睦まじそうにしている姿を見て複雑な心境になり、物理的に距離を取らせようと神凪を部屋から追い出したのだ。本人は認めようとしないだろうが、つまりは嫉妬である。

「だから邪魔しちゃ悪いと思って」
「そうだったのねぇ」

 いつもと変わらぬ表情の下に隠された承太郎の可愛らしい嫉妬など知らない神凪は、素直に彼の言葉を受け取りゆっくり休んで欲しいと思い部屋を出たようだ。

「でもどうして縁側に? パパなら喜んで神凪ちゃんのこと構いそうじゃなあい?」
「部屋の前を通った時にDIOって人の話をしてたからここも邪魔しちゃダメかなって……」
「あらあら」

 姿を見たわけではないが聞こえてきた声色から察するに、ジョセフとアヴドゥルは間に立ち入ってはならないようなとても真面目な話をしていたと神凪は話した。

 正直何も知らない神凪からしたら恐ろしい力を持つ"DIO"のことが気にならないわけがなかった。しかし、部屋の外でこっそり人の話に聞き耳を立てるような度胸なんて持ち合わせていなかった彼女はすぐにその場を離れたようだ。

「……そうだわッ!」

 こうして神凪がひとり縁側にいた理由を知ったホリィは、せっかく神凪ちゃんが来てるのにウチにいる男性陣ったら……と不服そうに頬を膨らませる。が、次の瞬間パンッと両手を叩いたホリィの顔には花が咲いたような眩しい笑顔が浮かび上がった。

「ねえ神凪ちゃん! お願いがあるんだけど、これから花京院くんの所にこのお茶とお菓子を持って行ってくれないかしら!」
「へっ? 花京院くん?」
「そうよッ! おばさんな私が行くよりも歳が近くてとっても可愛い神凪ちゃんが行った方が花京院くんも喜ぶわ!」
「おばさんって、そんなことな――」
「今新しいお茶を淹れ直すからよろしくね!」
「あっ、ちょっと聖子ママ……!」

 良案が思い付いたと言わんばかりにウキウキと神凪にちょっとしたお使いを頼んだホリィは、神凪の返事も聞かずに冬の空気で少し冷めてしまったお茶を淹れ直すために軽やかな足取りで出てきたばかりのキッチンへと戻って行った。

(花京院くんと神凪ちゃんが仲良くなってたら承太郎どんな反応するのかしらね!)

 背中に神凪の困惑した声を受けながらホリィが意外と奥手な息子の恋に新たな刺激を、と密やかに企てていることは誰ひとり知る由もない。



「花京院くんいる……?」

 自宅の物とは違う目透かし天井の木目を意味もなく見ていた花京院の耳に、遠慮がちに所在を尋ねる声が聞こえてきた。

「……はい、」
「あっ良かった! あの、お茶とお菓子を持ってきたんだけど、花京院くんさえ良かったら中に入ってもいいかな?」

 空条邸に来てから何度か言葉を交わしたホリィとまた別の女性の声に一瞬身構えるも、全く敵意の感じられない優しげなその声色にふっと肩の力を抜いた花京院はどうぞ、と答えた。

「お邪魔します」
「! あなたは……」

 礼儀正しい言葉の後にすっと開いていく障子。ゆっくりと動くそれを何とはなしに眺めていた花京院は、開かれた障子の隙間から見えた神凪の姿に目を瞬かせた。彼女は確かあの時承太郎の傍にいた女性だ……と。

 珍しい色の髪と特徴的なチャイナドレス。そして蝶が花に惹かれるように目を奪われた透き通るように白い肌と端麗な容姿は、ぼんやりとしていた彼の記憶の中にも鮮明に残っていた。

「ごめんネ? ゆっくり休んでたところに突然来たりしちゃって」
「い、いえ……」

 体調はどうかな? どこか痛いところはない?

 敷いている布団の横にそっと膝を着き、こちらを気遣うように顔を覗き込んでくる神凪に花京院は大丈夫とだけ告げると咄嗟に目を伏せた。彼女の気遣いはとても有難いが、何を隠そう昔から人と友好的に関わることが少なかった花京院からするとその気遣いはくすぐったくて仕方がなかった。ましてや見惚れてしまった女性からの優しさなら尚更である。

「それでね、さっきも言ったけどお茶とお茶請けのお菓子を持ってきたんだ!」
「お茶、ですか?」

 気恥しさから覗き込んでくる蒼い瞳と目を合わせられない花京院がいる横で、気まずさも何も感じていない神凪はニコニコと笑みを浮かべながらホリィから託されたお茶と和菓子を花京院に差し出した。

「……僕に?」

 ずいっと差し出された見るからに良質なお茶と和菓子に、まさか面倒事を持ち込んだ自分がもて成されると思いもしていなかった花京院は、それを受け取ることなくただ目を丸くさせる。

「うんっ。聖子ママ……えっと、承太郎のお母さんから花京院くんにって!」

 なかなか受け取らないことから花京院が困惑していることを察した神凪は、淹れたてだと伝えながら花京院の手に湯飲み茶碗を握らせた。

「……温かい、」

 持たされた湯飲み茶碗から手のひらにじんわりと広がっていく心地よい熱に、花京院からは思わずほうっ、とため息のような吐息が零れる。

「ふふっ。冷めないうちにどうぞ?」

 その姿は神凪の目にどう映ったのか花京院には知る由もないが、微笑ましそうに柔らかく笑われてしまい花京院の頬が薄らと朱に染る。

 お茶ひとつで何を動揺しているのだろう、とでも思われてしまっただろうか。変わっているという自覚はあるが、彼女にまで変な人だと思われていたらどうしよう。そう少し卑屈になりながら花京院がちらりと神凪を見てみれば、彼女は依然としてニコニコと可愛らしい笑みを浮かべているだけだった。

「……いただきます」

 人の心の内など誰にも分かるわけがなく。だがそれでも屈託のない笑顔に心臓がとくん、と高鳴るのを感じた花京院は、それを隠すかのように温かなお茶をひと口乾いた喉に流し込んだ。

「っ、美味しい……」

 口内に含んだ途端、ふわりと広がる香り高い茶葉の風味に花京院は瞠目した。お国柄ゆえに今までの間に何度も緑茶を飲んだことはあるが、ここまで心から素直に美味しいと思ったのは初めてだった。舌から伝わる仄かな苦味でさえ旨味に感じるそれはただ茶葉が良質なだけではないと、花京院は直感的にそう感じた。

「聖子ママの淹れたお茶美味しいでしょ?」

 きっと様子を見ていた神凪にも花京院の驚きが伝わったのだろう。彼女はふふんと得意げに小さく鼻を鳴らしたかと思うと、お茶を飲む花京院にずいっと顔を近づけた。

「聖子ママのお茶は特別なんだヨ!」
「特別ですか?」
「そうなの! 特別な隠し味を使ってるから、びっくりするぐらい美味しいんだよ!」
「……隠し味、」

 なんだと思う? と楽しそうに尋ねてくる神凪を見て花京院はふむ、と考えるように湯飲み茶碗の中で揺れるお茶に視線を落とす。

 お茶は淹れ方によって味が変化すると言うが、料理のように隠し味として何か別の物を混ぜたりすれば特別と言わしめるまでの味の変化があるのだろうか。

「……僕には分かりかねます」

 頭に馴染みのある調味料や香辛料を思い浮かべても、どれも本来の茶葉の味を邪魔しそうなものばかりで花京院は結局答えが出せなかった。

「正解はね――」

 自分の無知を晒すようで何とも言えない複雑な気持ちに花京院は駆られるが、素直に分からないことを神凪へ伝えると彼女からは思いもよらぬ答えが返ってきたのだった。

「――愛情だよ!」
「愛情、」

 まさかの感情論に花京院は神凪から発せられた『愛情』という言葉を反芻する。正直答えを聞いて人の感情で味そのものに変化が出るとは、とてもじゃないが思えなかった。

 だが花京院の考えはこの後変わることになる。

「いつもこう『美味しくなれ〜!』って作った食べ物や飲み物に愛情を込めてるんだよ!」
「……フフッ」

 わざわざ再現をしてくれているのか、両手を花京院が持つ湯飲み茶碗に向けて愛情を込める神凪。しかしその姿は傍から見ると愛情を込めると言うより、念を押し出しているように見えてしまい花京院は堪らず吹き出してしまった。

「あり? どうしたの?」
「いえ……なるほどなと思いまして」
「うん?」
「愛情、確かに伝わりましたよ……今のもね」
「あっ、なら良かった!」

 それならば何よりと笑いお茶請けもあるよと勧める神凪には、どうやら花京院の最後の小さな一言は聞こえていなかったらしい。そのことに少なからず『残念』という気持ちを抱いた花京院は己の感情に驚きながらも、楽しそうに和菓子の美味しさを語る神凪を見て優しげに微笑んだのだった。


* * *

「神凪さんと承太郎は幼馴染みなんですね」
「うん! 承太郎がまだ小さい赤ちゃんの時からずっと一緒にいるんだよ!」

 神凪が花京院の元にやって来て早二十分。

 二人はやはり歳が近いこともあって、ホリィの目論み通り当初より心の距離を縮めていた。

「小さい時は『神凪ちゃん、神凪ちゃん』ってついて歩いてくれてて可愛かったんだ〜」
「……全く想像つきませんね」
「ふふっ。確かに今の大きくて凛々しい承太郎を見ちゃうとね」

 本人が知ったら相当嫌な顔をされるだろうが、幼馴染みの特権である幼い頃の承太郎の話をすることは神凪からすると楽しいものだった。

 いわゆる不良と評価されている承太郎は怖い人と誤解されることが多々あるが、本当の彼はとても優しい人柄でできていた。ただ不器用で、ちょっと思春期なだけなのである。

「あっ、良かったら今度アルバム見よう!」
「アルバムですか?」
「可愛い承太郎いっぱい載ってるんだヨ〜!」

 だからこそ少しでも多く承太郎の良さが伝わればいいなと思い、神凪はいつも心から楽しそうに彼との想い出を紡ぐのだ。

「いいですね。アルバム鑑賞」
「でしょ? あ、でも承太郎には内緒だよ!」
「ええ、内緒でお願いしますね」

 内緒、と口元の前で人差し指を立ててパチンッとウインクする神凪は悪戯っ子みたいで、花京院はそんな彼女に釣られるようにして同じようにウインクをひとつ。これで怒られる時は一緒ですね、という連帯責任宣言のおまけ付きで。

(……花京院くんって)

 顔を合わせたばかりの数十分前と違ってよく笑うようになった花京院の姿を見て、神凪はふと物思いにふける。第一印象で少しお堅い印象を抱いたものだが、互いに向き合い話をしてみれば意外と彼はユーモアがあって親しみやすい人柄をしているのではないだろうか、と。

「ねえ、花京院くん」

 嫌な顔をせず話にも乗ってくれたし、と同じようにウインクまでしてくれた花京院を観察するようにじっと見ていた神凪は、もしかすると花京院くんなら……と可能性が脳裏に浮かび思いきって声をかけた。

「はい、なんでしょう?」
「あの、花京院くんに聞きたいことがひとつあるんだけど……いいかな?」
「ええ勿論。僕に答えられることなら何でも」
「……DIOのことなんだけど、」
「――ッ!」

 その名を出した途端に体を強ばらせ、表情を固くさせる花京院に神凪は申し訳なさそうに眉を下げる。本来こんな質問を花京院にするべきでは無いと神凪は十分に分かっていた。恐ろしい思いをしたのだから思い出したくないのは当然で、ついさっき洗脳が解けたばかりなのだからこちらもそのことについて触れないようするのが当然なのかもしれない。

 だがそれでもやはり神凪は知りたいと思ってしまった。ジョセフやアヴドゥル、承太郎が話す『DIO』という吸血鬼の話を。

「ごめんね……でも、私も承太郎たちの身の回りに起きてることを知りたいと思って……」
「……いえ、大丈夫です。それに僕だって神凪さんの立場だったら何が起きてるいのか知りたいと思いますよ」

 ここで生まれる知的探究心は当然のことだと、気遣いからくる罪悪感に苛まれる神凪に微笑んだ花京院は一度大きく深呼吸をすると、ぽつりぽつりと語り出した。

「僕がDIOという男に会ったのは家族揃ってエジプトへ旅行に行った時です」

 夏休みを利用しエジプトへ家族で旅行に行った花京院は、慣れないカイロの地で家族とはぐれてしまったと話した。地図を見ようにも旅行鞄に入れたままホテルに置いてきてしまったことに気づいた彼は、仕方なく迷路のような路地を勘を頼りに歩くしかなかった。

「そのとき、僕はDIOに出会った」

 夜闇の奥にひっそりと佇む男――DIOの姿を見たとき、花京院は恐怖に慄いた。足がすくみ体中の毛が逆立ち全身が凍りつく。きっと金縛りとはこういうことを言うのだろう、逃げなくてはと分かっていても恐怖に支配された体は全く動いてはくれなかった。そして動けないと理解した途端胃の中の物が逆流してしまい、花京院は必死に嘔吐するのを耐えていたという。

「そんな僕を見てDIOはまるで子供に言い聞かせるように、優しく言ったんです」

 ――花京院くん。恐れることはないんだよ。

「"友達になろう"……と」

 その瞬間花京院は安堵してしまった。まだまだ生きれる、家族と共にまた日本に帰ることができると。

「その直後に僕は肉の芽を植えられ、DIOにジョースターの血を受け継ぐ者を始末して来いと命令されたんです」
「そう、だったんだ……」
「っ、すみません……僕にもっと強い意思があればこんな、承太郎や神凪さんたち迷惑を掛けることなんてなかったのに……ッ!」

 始末という物騒な言葉を聞いてショックを受けた様子の神凪に、締めつけられるような痛みを胸に覚えた花京院は深く頭を下げた。

 今思えば何と惨めなんだろう。己の命欲しさによくも分からない男の一挙一動に恐怖や安心という感情を左右され、終いには精神まで操られるなど惨めにもほどがある。

(僕にも承太郎のような精神力があれば……)

 承太郎のような誰にも曲げられない強い意思があれば、甘い言葉で巧みに心を揺さぶってくる怪物にすら立ち向かえたかもしれないのに。

 今更『たられば』の話をしても無意味だとは分かっているが、強く自分を持っていればこんなことには……と思わず考えてしまう。

(僕が、僕の心が弱かったからこんなっ!)

 一度悪い方向に行ってしまった思考はそう簡単には引き戻せない。そのせいで自分を深く責める花京院は、血が滲むほど爪が手のひらにくい込んでいるにもかかわらず更に拳を強く握る。

 だが次の瞬間、まるで自傷行為のようにギチギチと力を込める花京院の拳の上に、ふと白く華奢な手が添えられた。

「――花京院くんのせいじゃないよ」
「ッ!!」

 ふわりと降り注ぐ優しい声に花京院は勢いよく顔を上げる。すると彼の目には聞こえてきた声色同様、優しい微笑みを浮かべている神凪の姿が映し出された。花京院はその優しくも美しい笑みに目を見開く。

「花京院くんは何も悪くない」
「……な、にを、」
「悪いのは花京院くんの気持ちを利用して、自分の思うままに操ったDIOだよ」

 固く握られた拳から伝わる温かな熱と柔らかな感触。そして、心にストンと落ちてくるような響きを持つ言葉に動揺を見せる花京院。

 そんな花京院を落ち着かせるように、神凪はまだ力が抜けていない彼の手をキュッと握った。

「花京院くんは巻き込まれただけ」
「っ、ですが……」
「仕方ないよ、誰だって圧倒的な恐怖を前にしたら動けなくなっちゃうって。ましてや相手は人間じゃなくて吸血鬼なんだし……」

 私だったらその場で失神してそう、と妖怪や幽霊の類が大の苦手な神凪は自分が花京院の立場であることを想像してふるりと体を震わせた。

 だが、そのすぐ後には花京院のことを見て神凪は『すごい』と褒め称えながら微笑んだ。

「花京院くんはDIOの言葉を受け入れちゃったことに後悔してるでしょ?」
「……ええ。まあ、今更後悔しても文字通り後の祭りでしかありませんが……」
「ううん、そんなことない。後悔をしてるってことは、花京院くんはその失敗を次に活かそうとしてる……ってことだよ」
「――ッ!」

 どうしようもないと思っていた。読んで字のごとくあの日の行動を後から悔やんだって、過去に起きたことを変えることはできないんだと。でも――。

「DIOと出会った日のことを強く後悔してる花京院くんなら大丈夫。もう次は負けないよ」

 過去は変えられなくても未来は変えられる。

「それに今の花京院くんには承太郎にジョセフおじいちゃん、アヴドゥルさんっていう心強い味方が傍にいるしネ! あ、もちろん私も!」
「……っ、」

 そう言ってガッツポーズを片腕で作りる神凪に花京院はとうとう耐え切れず、彼女の手が触れていない方の手で顔を覆った。

 ぽたり、ぽたり、と掛け布団の上に落ちる滴。指の隙間から見えた花京院の頬は、熱くなった目元から溢れる出るその滴で濡れていた。

「……ありがとう……ッ!」

 何とか喉の奥から絞り出したような震えた声。だがそれでも花京院の気持ちが乗った言葉をしっかりと聞いた神凪は、花京院の背中をそっと撫でるとすっかりと空になった湯飲み茶碗と皿を持って彼の傍から静かに離れた。

「そうだ、花京院くん!」
「……っ、はい……」
「落ち着いたらさ、また一緒にお茶しながらたくさんお喋りしよう!」

 障子を閉める直前。思い出したかのように突然足を止めた神凪は部屋の中に振り返ると、花京院を真っ直ぐ見据えながら承太郎に内緒でアルバム見せるって約束したしね、と細い小指を立てて前に突き出した。恐らく約束事をする時に用いる指切りげんまんのつもりなのだろう。

「また後でね!」

 突然の約束事に少し赤く充血した目を大きく見開く花京院を見て満足そうに笑った神凪は、ひらりとチャイナドレスを揺らしながら今度こそ客間を後にした。



「彼女、どこかで見たような……」

 神凪が去り寂しいと感じてしまうような静寂が支配する中で、ぽつりと花京院の小さな声がやけに大きく部屋に響いた。

「僕は神凪さんと会ったことがある?」

 問うたところで答えは返ってくるはずもなく。しかし今日初めて会ったはずの神凪にどこかで会ったような、妙な既視感を感じた花京院は彼女が今まで座っていた場所をじっと見つめる。

 ――その写真は?
 ――私が唯一愛する"夜の兎"だ。

 不意に脳裏を過ぎったDIOと交わした数少ない会話の一部。

「確かあの時の写真には、」

 悪の頂点に立つような男がまるで宝物のように大事に持つ一枚の写真が気になり、花京院は物珍しさに尋ねたことがあった。その時に一瞬だけ見えた写真には確か、神凪によく似たサーモンピンク色の髪の毛が写っていたような――。

「……気のせいか」

 ふとそこまで考えて花京院はため息をひとつ。

 神凪ほど特徴があり、見惚れるぐらい綺麗な女性を一度目にしたら記憶に刷り込まれていることだろう。男なんてそんなものだ。それに彼女は兎でも何でもなく紛うことなき人間である。

 その点から妙な既視感に思い違いだと結論づけた花京院は、急にズキリと痛み出した頭を押さえて布団の上に体を横たわらせた。

 ――間違えても神凪には手を出すなよ。

 その日夢の中で聞こえた声はどこまでも凍てつくような、酷く冷たいものだった。

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