暗闇の中で一本の蝋燭にぼんやりと灯る炎。
部屋を灯す明かりとしては頼りなさげな小さい炎がらりと揺れる横には、惜しげもなく曝け出された筋肉質な太い腕に紫色の蔦を絡ませた青年がひとり悠然と佇んでいた。

「やはり、俺の居場所を感づいたか」

ゆっくりと弧を描いていく青年の唇。

「来るか、このエジプトに……」

楽しげにも挑戦的にも見える笑みを浮かべたその青年の視線の先には、今し方青年が蔦の絡まる腕でトンッ、と叩いたポラロイドカメラから現像された一枚の写真があった。

「ジョセフに……ジョータロー、か……」

そこに写し出された忌み嫌う星の一族たち。
恐らくエジプト行き旅客機の機内に居るだろうジョセフ・ジョースターとその孫、空条承太郎の姿を睨みつけるように眺めていた青年はフンと鼻を鳴らすと彼らが写る写真を破り捨てた。

「それよりもだ……」

写真だった物の残骸を踏み付け、青年は今一度ポラロイドカメラへと手を伸ばす。フィルム排出口からは既に別の写真が現像されていた。

「フフッ。寝顔も愛らしいな」

その写真を手に取り眺める青年の表情は、先程とは打って変わって蕩けるように甘い。

「神凪もこのDIOのもとに来るのだな」

それもそのはず。そこに写るのは忌み嫌う星の一族でも、その仲間のスタンド使いでもなく、青年……もといDIOが愛する神凪なのだから。
ほうっ、と色気ある艶やかなため息にも似た吐息を零したDIOは、まるで壊れ物に触れるかのように優しく神凪の頬をするりと撫でる。

「今すぐ迎えに行ってやりたいところだが……まずは邪魔者を始末しなくてはな」

最愛の神凪が理由はどうであれ自分の元に向かって来ている。長い間出逢える日を心から待ち望んでいたからこそ、これほどまでに喜ばしいことはないだろう。だがしかし、愛しい者を迎え入れるにはまだ準備が万端ではない。

「だからもう少しだけ待っていてくれ」

甘く美しく神凪へと微笑んだDIOは、蝋燭の火を消し深い闇の中へと身を沈めてしまった。




「――ッ!」

間接照明だけを灯した薄暗い機内。ほとんどの乗客が夜のフライトということもあり休めるうちにと睡眠を取っている中、不意に閉じられていた神凪の目がパチリと開いた。

「……いまっ、」

左の頬に感じた冷たい感触に、眠りから覚めた神凪は自身の頬に手を当てながらキョロキョロと辺りを見渡す。

「……神凪さん?」

通路を覗いてみたり、前や後ろの座席を覗いてみたりと何かを探すように身動ぐ神凪。決して大袈裟な動きではないが密接している座席だと彼女の動きは振動となって隣に座る者に伝わってしまったようで、同じように睡眠を取っていた花京院の目が開いてしまった。

「どうかしましたか?」
「あ、花京院くん……」

きっと眠いだろうに何かあったのかと心配そうに尋ねてくる花京院に、神凪は起こしてしまった罪悪感から慌てて居住まいを正した。

「ご、ごめんね。せっかく眠ってたのに……」
「ああ、お気になさらず。目を閉じていただけでまだ眠っていませんでしたから」

昨夜のうちにゆっくりさせてもらいましたし、と微笑む花京院に神凪はパチリと瞬きを一つ。しかしすぐに彼の優しさに気がついた神凪は小さく笑い、ありがとうと気持ちを伝えた。

「いえ。それよりも神凪さんはどうしました? 眠れませんでしたか?」
「あ、ううん。さっきまでは眠ってたんだけど誰かに頬を触られた気がして……」
「……頬を?」

確かに覚えている冷たい感触。まるで血の通っていないような冷えきった手に触れられたようにも感じたと神凪が花京院へと話せば、薄紫色の瞳が神凪の左頬に向いた。傷ひとつない陶磁器のように白く綺麗な肌。見る限りでは特に異変があるわけではない。神凪の周辺を見回してみても、これと言って可笑しな所はなかった。

「機内の空調とかでは?」
「……空調?」
「空気循環のために稼働してますからね」

ほら、と人差し指を立てて上に向ける花京院。その彼の指先を辿るように神凪が頭上へ顔を上げてみれば、そこには花京院が言う通り機内の空気を喚起するための空調機が取り付けられていた。

「きっとこの風が頬に触れたのでしょう」
「……そっか、そうかも」

空調口からは冷風が吹き出している。風圧が強いわけでも真下に向かって流れているわけでもないが、気流の関係で風が肌を掠めることは有り得なくなかった。むしろ他の乗客が頬を触ってくるよりも現実味が高いため、神凪は自分の気のせいだったのかと結論をつけた。

「原因も分かったことですし、もう少し神凪さんも眠っておいた方がいい」
「うん。ありがとう花京院くん」

敵地であるエジプトに到着すれば休んでいる暇などないだろう。それならば休める今のうちに休み、英気を養っておくことが一番の得策だ。大変ごもっともな花京院の考えに賛同するよう首を縦に振った神凪は、再度お礼を彼に伝えると座席に深く背を預けた。

「見られた……今、DIOに確かに見られた感触があった」
「……ああ」
「気をつけろ……早くも新手のスタンド使いがこの機に乗っているかもしれん」

到着までもうひと眠りしよう。そうやって瞳を閉じた神凪は知らない。通路を挟んだ隣の二人席ではジョセフと承太郎がDIOに見られたと冷や汗を流し、辺りを警戒しだしたことを。
そして、その数分後――。

「……えっ?」

四つの翡翠の瞳が鋭さを増し、薄暗い空間を監視するように睨みつけたと同時刻。せっかく眠ろうとしていた神凪の耳に異音が届いてきた。

「うん?」
「……!」

例えるならそう。虫が翅を広げて羽ばたいてるような、人によっては不快に感じる羽音に似たその異音は花京院やアヴドゥルの耳にもしっかりと届いたようだ。彼らの目もまた、薄暗い機内を見渡すように動いていく。

「い、いや……まさかネ……?」

静かな機内にやけに大きく響く羽音のような音に、びっしりと鳥肌が立った両腕を擦りながら神凪は自分に言い聞かせる。飛行機内に虫がいるはずないと。しかし、半ば願望とも言える神凪の思い込みは前方に座る乗客の頭上を飛び回る、小さな生物の姿によって何の意味を成さないものと変わってしまう。

「カ、カブト……いやクワガタ虫だッ!」
「虫っ!!?」

承太郎の声に……というよりは『虫』という単語に大袈裟に反応を示した神凪。ビクッと体を大きく震わせる神凪を横目に座席から立ち上がった承太郎やジョセフが目を凝らしてみると、上翅に珍しい模様が描かれた一匹のクワガタ虫が確かに飛んでいた。

「アヴドゥル、スタンドか! 早くも新手のスタンド使いかッ!?」
「ありうる……虫の形をしたスタンド……」

通常の個体とは一風違ったクワガタ虫の風貌。そして、簡単には入り込めないであろう飛行機内を飛び回っていることから、ジョセフとアヴドゥルの二人はクワガタ虫をスタンドと疑っているようだ。

「座席の影に隠れたぞ!」
「ど、どこだ……」

ただの虫なのかスタンドなのか。その疑いと警戒の眼差しはどうやら相手に伝わったようで、皆の視線が集まる中クワガタ虫は俊敏な動きで身を潜めてしまった。同時に消える羽音。これでジョセフ側からはクワガタ虫がどこを移動しているのか見分けがつかなくなった。

「うううっ、花京院くん……!」
「ッ!?」

目に見えていても恐怖心はあるが、見失ってしまった時の方がより恐怖を抱くものだ。それが特に大の虫嫌いであれば尚更。超がつくほど苦手な怪談の類に続き、超がつくほど虫全般が苦手な神凪はこの場に居る誰よりも恐怖心を煽られていたようだ。その証拠に神凪は隣にいた花京院の腕にギュッとしがみつき、彼を半ば盾にするように身を寄せていた。

「えっ……あ、あの、神凪さん……!」

突然左腕を包んだ柔らかい感触。その柔らかいものが神凪の豊かな女性特有の膨らみだと気づいてしまった花京院は、初めてのことに頬を赤く染めながら少し下にあるサーモンピンク色の頭を凝視する。すると何とも必死な声色で謝罪の言葉が返ってきた。

「ごめんネ! 足手まといにならないって言って付いてきたのにこんなことして! でもね、むむむ虫だけはどうしても無理なのッ!」
「……そういやお前、虫の中でも翅の生えてるやつがすげえ嫌いだったな」
「そうだったんですか……」

まだまだ知らないことが多い神凪という女性。そんな気になる神凪の苦手な物を何とも殺伐とした場であるが知れた花京院は未だに羞恥心は残っているものの、あまりにも必死な神凪の姿に優しく微笑んだ。

「そういうことでしたら僕で良ければぜひ……神凪さんの虫除けくらいにはなりますよ」
「うううっ花京院くんありがとう……ッ!」
「……チッ」

当の本人はクワガタ虫から身を守るのに必死なだけだが、まるで花京院と恋人同士のように身を寄せう神凪を見て承太郎は小さな舌打ちをひとつ。嫉みの感情など今は場違いだと十分承知しているが、意外にも嫉妬深い承太郎にとって花京院が神凪に頼られているこの状況は面白くなかった。これはさっさと潜んでいるクワガタ虫を見つけ、ただの虫だろうがスタンドだろうが早いところ退治するしかない。
他の乗客のことも考えるとそれが一番正しい選択であるため、クワガタ虫が隠れた座席の辺りを探ろうと承太郎が一歩踏み出した。まさにその時――。

「JOJO! 君の頭の横にいるぞッ!」
「――ッ!」

花京院の声と共に非常に不快な、今までにないほどの大きな羽音が承太郎の耳朶に響いた。
言葉通り真横から聞こえてくるそれに反射的に音の方を振り向いた承太郎。すると彼の目に、虫には無いはずの鋭い牙が生え揃った口からウジュル、ウジュル、と唾液を滴らせるクワガタ虫の姿がはっきりと映し出された。

「いやあああ気持ちわるいッ!!!」
「で、でかい……やはりスタンドだ……その虫はスタンドだッ!」
「神凪じゃあなくても気持ち悪いと思うぜ……だがここは俺に任せろ」

大きさといい牙といい、口の中から伸び出る針状の物体といい、全てが気持ち悪いを体現しているクワガタ虫型のスタンドに、虫嫌いの神凪どころか全員が顔を顰める。ただそんな中で、承太郎は気持ち悪いと吐き捨てながらも真正面からスタンドと向き合った。

「き、気をつけろ……『人の舌を好んで引きちぎる虫のスタンド使いがいる』という話を聞いたことがある」
「あ、悪趣味……!」

アヴドゥルの忠告と神凪の怯える声を背に受けつつ、承太郎はクワガタ虫と睨み合う。時間にしてたった数秒。先に動いたのは――。

「スタープラチナッ!」

先に仕掛けたのは承太郎だった。彼は運命の元名付けられた自身のスタンド『星の白金』を出現させると、目にも留まらぬ速さでクワガタ虫に拳を振るった。弾丸を掴むほど素早く正確に動ける『星の白金』のことだ。きっとまたいとも容易く目の前のクワガタ虫を制圧できるに違いないと、誰もが思った。

「か、かわした……ッ!?」

しかし何と言うことだろう。桁違いのパワーと共にスピードも誇る『星の白金』が繰り出した攻撃を、クワガタ虫は更に上回るスピードで避けてみせたのだった。これには承太郎の高いスタンド能力を知っているアヴドゥル達だけでなく、承太郎自身でさえ驚愕に目を見開く。

「どこだ……どこにいるッ!?」

こいつは一筋縄ではいかない。今の一瞬の攻防を目の当たりにして直感的に思った花京院は、この機内に潜んでいるはずの虫型スタンドの本体を探そうと目を配らす。
スタンドが傷付けば本体も傷付く。そしてまたその逆も然りであるため、本体さえ見つけられれば他の手立ても生まれると考えた花京院は虫型スタンドの意識が承太郎に向いている今、多数の乗客の中から必死に本体を探す。だが彼の忙しなく動く目は探し人ではなく、別の光景を捉えてしまった。

「こ、攻撃してくるぞ!」

それはまるで次は俺の番だ、とでも言うように唾液を溢れさす口を大きく開くクワガタ虫の姿だった。クワガタ虫は口内に収納している鋭利な口針を露出させると、これまた目で追えるのがやっとのスピードで承太郎目掛けその口針を勢いよく伸ばす。

「しまったッ!」

迫りくる鋭い針。口元を狙って真っ直ぐ伸びてくるその針を止めようと『星の白金』は左手を咄嗟に前へ出す。だが、勢いづいた針は『星の白金』の厚い掌を難なく貫通してしまった。
そうなると次に針が到達する場所は勿論――。

「承太郎ッ!」
「JOJOォ――ッ!」

勿論『星の白金』の舌だった。寸でのところで口針を歯で噛みしめその動きを止めることはできたが、スタンド及び本体の承太郎は左手と口元に怪我を負う事態になってしまった。

「やだっ、承太郎……!」

危うく舌を引きちぎられそうになった承太郎に神凪は、目に入れたくない虫が傍に居るにもかかわらず花京院の背から思わず身を乗り出す。

「承太郎のスタンドの舌を食いちぎろうとしたこいつは……やはりヤツだ!」

心配で堪らないと言った様子で承太郎と『星の白金』を見つめる神凪がいる横で、アヴドゥルはここで強く確信した。タロットでは『塔』のカードとなり、破壊と災害。そして旅の中止の暗示を持つスタンドは――。

『灰の塔』タワーオブグレイ!」

事故に見せ掛け大量殺戮を繰り返すスタンドが恐ろしいことにこの世に存在する。昨年イギリスで起きた、300人の犠牲者が出てしまった飛行機墜落事件もそのスタンドの仕業だと。

「噂には聞いていたが……こいつがDIOの仲間になっていたのか!」

そんな凶悪極まりない『灰の塔』がこのエジプト行きの飛行機に同乗し、DIOの元へ辿り着けないようこちらに牙を剥いていたのだ。

『オラァッ!』

口針を歯で噛み、固定している今がチャンス。自由に動きを取れないうちにと判断した承太郎の意思に応え、『星の白金』は両手でのスピードラッシュを浴びせた。

『クク……たとえここから一センチメートルの距離より十丁の銃から弾丸を撃ったとして、俺のスタンドには触れることすらできん!』

しかし、それすらもまた自ら口針を切り捨て逃げ道を作り出した『灰の塔』に全部躱されてしまった。自分で例えに出しておきながら弾丸でスタンドは殺せぬがな、と意気揚々とスピード自慢を披露する目の前の『灰の塔』に、少しの焦りを感じた承太郎一行はギリリと奥歯を噛みしめる。

(本体さえ……そいつさえ分かれば)

これはスタンドを直に攻撃するのではなく、本体を見つけ直接制圧する方が現実的だ。花京院に引き続きジョセフもその本体討伐の考えに至ったらしく、彼もまたブンブンと嫌な羽音を立て宙を飛ぶ『灰の塔』から乗客が眠る他の座席へと目を向ける。

『ククク……』

だがここでまたもや『灰の塔』が行動に出た。座席の影に身を隠した時同様、物凄いスピードで承太郎一行の前から機内の後方へと移動して見せた『灰の塔』は不気味な笑い声を漏らす。

(なにをする気だ……)

そして、ひとつの座席の背後の空間に留まった『灰の塔』は、段々と飛行する高度を落としていく。その不可解な行動に疑問を持つ承太郎。何をしでかそうとしているのか分からない今、無闇やたらと動くことができないため承太郎は奴の動向を窺うことに徹する。

(……待てよ)

だがここで、ふと承太郎の脳裏に先程のアヴドゥルの忠告が浮かんだ。

 ――人の舌を好んで引きちぎる虫のスタンド使いがいる。

(! まさかこいつ……ッ!)

そんなこの上ないほど悪趣味を持った奴がここに居る『灰の塔』であると言うことは、もうその身を持って実感している。だからこそ承太郎は気づいてしまった。これから『灰の塔』が起こそうとしている次なる行動を。

「見るんじゃあねえぜ神凪ッ!」
「えっ、なにを……」

いち早く『灰の塔』の動きを察知した承太郎は咄嗟に声を張り上げ、腕を伸ばし神凪の視界を遮ろうとするが――。

「っ、ひっ……!」
「……チッ!」

その試みも虚しく、神凪の目は悪霊『灰の塔』によって無情にも舌を引きちぎられてしまった乗客の姿を映し出してしまった。

『ビンゴォ! 舌を引きちぎった!!』

何の罪もない。ましてやこの闘いにおいて全くの無関係である乗客四人分の舌を口針に連ならせた『灰の塔』は、最悪の事態に戦慄く承太郎一行を見てとても愉快そうに笑った。

『そして、俺の目的は……!』

虫に表情があればきっとニタリ、と気味悪く歪んでいたことだろう。それほど愉しげに声を弾ませた『灰の塔』は、あろうことか多量の血を滴らせる四枚の舌を筆代わりに壁に文字を書き始めたのだ。薄暗い機内でもはっきり分かる赤黒い色。その色が徐々に広がっていく様を眺めることしかできない承太郎一行を前に、やがて壁には『灰の塔』の目的を示す恐ろしい単語が大きく書き出された。

 ――Massacre!

マサクゥル。その意味は実に『皆殺し』だ。

「や、やりやがった!!」

ジョースターの血を受け継ぐ二人とその仲間たちだけでなく、乗員乗客全ての命を奪うことを目的とする『灰の塔』に何て奴だと怒りや焦りで皆が慄く。

『おっと、皆殺しには少し語弊があったな』
「……何だと?」
『正確には一人を除いて、だ』

その姿をまるでおちょくるようにブンブンと辺りを飛び回っていた『灰の塔』だったが、突然目的の言葉に訂正を入れたかと思えばゆっくりと承太郎……ではなく彼の後ろに居た神凪の傍へと飛行してきた。

『お前を殺すと俺がDIO様に殺されちまう』
「! な、なんで……っ?」
『さあな。新参者の俺にはそこまでのことは教えられてないんだよ。ただ知っているのは神凪という女には手を出すな……ってことさ』
「神凪ちゃんには手を出すなじゃと?」
「一体なぜDIOはそんな指示を……」

理由がさっぱり分からない『灰の塔』の何とも不可思議な話に、その場には少しの混乱が生まれる。仕えているDIOのために邪魔な者は皆殺しだと言う方がまだ理解できた。しかし『灰の塔』の話ではDIOのために神凪を殺してはいけないと言うことだった。これは一体どういうことなのだろうか。奴は神凪に何を思っているのだろうか。

『でも残念だなァ? お前みたいな若い娘の柔らかい舌を味わえないなんてよォ』

神凪本人を含みジョセフやアヴドゥルが考えあぐねているのを後目に、『灰の塔』はグロテスクにもぶらぶらと舌を揺らし、ウジュルと涎を垂らしながら神凪の周りをグルグルと飛び回り始めた。まるで獲物を追い込む肉食獣のような動きと鼻につく鉄の匂いに、神凪の顔からは血の気が引き真っ青に変わってしまう。

「……っ、あ……」
『ヒヒッ! 恐怖に歪む顔もなかなか……』
「てめえ神凪に近づくんじゃあねえぜ」
『オラァッ!!』

カタカタと小刻みに震える神凪の体。見るからに恐怖に染まっている神凪の姿に、また笑い声を上げた『灰の塔』は酷く下衆びた言葉を漏らす。だがどうやらその言動が承太郎と『星の白金』の逆鱗に触れたようで、彼らは神凪を護るようにそびえ立った。

『まだ俺とスピード勝負する気か?』
「言ってろ」

繰り出された『星の白金』の拳を避け、神凪から離れた『灰の塔』は呆れたように承太郎に問い掛ける。その挑発とも取れる相手の問いを一蹴した承太郎は、怒りから鋭さを増した眼光で『灰の塔』を見据えた。

「次こそは必ずぶちのめす」
「私も貴様を焼き殺してくれるッ!」

乗客の命を奪うだけに飽き足らず神凪を必要以上に怯えさせる大の悪党を倒すべく、握った拳に青筋を浮かばせた承太郎は再度『灰の塔』に向き合う。そしてアヴドゥルもまた『魔術師の赤』を出現させ、いつでも承太郎に加勢できるよう万全の体勢を取った。

「待て! 待つんだッ!」

まさに一触即発。あと数秒時間が遅ければ激しい闘いが繰り広げられていたかもしれない飛行機内に、突然承太郎とアヴドゥルを制する雄々しい花京院の声が響いた。その声に反応した二人が『灰の塔』から視線を移せば、花京院は顎をしゃくると言った行為であれを見ろ、と促してきた。

「うーん……なんか騒がしいのォ、」

促されるまま皆がその方へ目を向けると一番後ろの座席。言うならば『灰の塔』が血文字を書いた壁に一番近い席に座っていた老人が、この騒ぎのせいで眠りから覚めてしまったらしい。
むにゃむにゃと口をまごつかせ寝ぼけ眼を擦る老人は心配そうに承太郎一行が見守る中でも構わず、『灰の塔』が上空を飛び回る機内をトイレを目指し歩き出す。

「ひっ、血……血ィ〜〜!」

だが、その老人の足は目的の場所に着く前に壁の血文字によって完全に止まってしまった。
偶然にも壁に手をついた老人。普段であれば何も気にすることなんて有りはしないのだが今回は違った。壁にある血文字に触れてしまった老人は匂いからそれが血であることに気づき、軽いパニックに陥ってしまう。

「当て身」

寝起きで自分の手にべっとりと血が付けばパニックになるのも当然。悲鳴を上げフラフラと後退るのも仕方のないことなのだが、厄介な刺客と闘っている今の状況ではその老人の存在は問題しかなかった。正直に言って他に気を遣いながら『灰の塔』を倒すのは厳しすぎる。だからこそ花京院は率先して老人に近づくと、彼の首裏にストンと手刀を落とした。

「他の乗客が気づいてパニックを起こす前に、ヤツを倒さねばなりません」

崩れ落ちる老人の体を機内の隅へと移動させた花京院。彼は小さく息を吐くと、支えられるようにしてジョセフに肩を抱かれている神凪に優しい眼差しを向けた。

「それに、これ以上神凪さんにあのおぞましいスタンドを見せるわけにはいきませんから」
「か、花京院くん……」

大丈夫ですよ。そう告げるようにパチンッと片目を瞑って見せた花京院は、先程『灰の塔』と闘う意思を強く露にした承太郎とアヴドゥルと向き合う。

「アヴドゥルさん。あなたの『魔術師の赤』のような動のスタンドでは飛行機までも爆発させかねないし……JOJO。君のパワーも機体壁に穴でも開けたりしたら大惨事だ」

それはとても冷静で最もな分析だった。ただでさえ派手で火力のある攻撃を持つ二人は、これまで『灰の塔』が起こした数々の問題に頭に血が昇っている節がある。もし彼らの強力なスタンド攻撃が機体にでも当たってしまえば、それこそ皆仲良くお陀仏だ。そうならないためにもここは――。

「ここは私の静なるスタンド『法皇の緑』ハイエロファントグリーンこそヤツを倒すのに相応しい」
『クク、花京院典明か……DIO様から聞いてよおく知っているよ』

肉の芽を植え付けられ操られていたとは言え、少しの間同じ主に仕えていた花京院とその相棒『法皇の緑』を見て不敵に笑った『灰の塔』はやめろと花京院に告げる。静のスタンドと分かっているなら挑むな。お前のスピードでは俺を捕らえることはできない、と。優しさと言うには些か違う『灰の塔』からの忠告。

「そうかな」

だがしかし、花京院は小馬鹿にした『灰の塔』の忠告など物ともしなかった。

「エメラルドスプラッシュ!」

凛々しい声色で花京院がそう叫べば、彼の傍に立っていた『法皇の緑』の合わせた両手の間からエメラルドが作り出され、次々と飛び出していく。名前の通り『灰の塔』に降り注ぐ宝石のシャワー。広範囲に降るそのシャワーを躱すのは至難の技だろう。

『ファハハハハッ!!』

ただ、やはりスピードを自慢にしているだけある『灰の塔』はそれすらもひらり、ひらりと躱して見せた。

『お前なあ、数撃ちゃ当たるという発想だろーがちっとも当たらんぞ!』

そして『灰の塔』は花京院をおちょくるだけに飽き足らず、あろうことか『星の白金』にして見せたように相手の口元を目掛けて針を勢いよく伸ばしたのだ。不運にも攻撃の撃ち終わりに生まれる隙をつかれ、鋭い口針をまともに受けた『法皇の緑』の口元を覆い隠すマスクが派手に壊れる。そうなると勿論ダメージは本体にも反映される訳で、花京院の口からは多くの血が噴き出した。

「か、花京院……!」
「花京院くんッ!!」

スタンド共々床に倒れ伏す花京院の姿を目の当たりにした承太郎と神凪は、声を大にして彼の名を呼ぶ。だが、心配を色濃く乗せる二人の声に被せるように、のろすぎると勝ち誇っている『灰の塔』の下品な笑い声が上がった。

『そして花京院! 次の攻撃で今度は貴様のスタンドの舌に、このタワーニードルを突き刺して引きちぎる!』

目と鼻の先まで近づき余裕たっぷりに予告までしてくる『灰の塔』に、血に塗れた唇を噛みしめた花京院はもう一度『法皇の緑』での攻撃を試みる。が、至近距離で放ったその攻撃も笑いながら躱されてしまった。

『俺に舌を引きちぎられると狂いもだえるンだぞッ! 苦しみでなァ!』

またもや攻撃の隙をついて花京院へと真っ直ぐ伸びていく口針。避けようにも通路は狭すぎて俊敏な動きは取れない。もはや万事休す。

「何? 引きちぎられると狂いもだえる?」

しかし、何故だか花京院は舌を引きちぎられると言うのにも攻撃を避けようとするどころか、防御の姿勢すら取らない。それどころか彼は微かに口角を上げたのだ。

「私の『法皇の緑』は……」

そして花京院が小さく呟いた瞬間――。

『なっ、なにィィィッ!?』

四方八方の座席の中や下から緑色の触手が何本も飛び出し、何と宙を飛行する『灰の塔』の体を絡め取るように串刺しにしてしまった。

「引きちぎると狂いもだえるのだ……喜びでな!」

目には目を。歯には歯を、とはよく言ったもので、自分の快楽や目的のために散々人の舌を引きちぎって命を奪ってきた『灰の塔』の体は、『法皇の緑』の触手によってブチブチと嫌な音を立てる。予想していなかったまさかの展開に『灰の塔』からは甲高い悲鳴が上がる。

「既にシートの中や下に法皇の触脚が伸びていたのだ。エメラルドスプラッシュでそのエリアに追い込んでいたことに気が付かないのか」

数を撃っても当たる訳がないと馬鹿にしていた『法皇の緑』の攻撃が、実は作戦決行の場に追い込むための罠だったとは。この事実は鼻を高くし勝ち誇っていた『灰の塔』にはとんでもない屈辱だろう。しかし、とどめとばかりに触手によって体を引きちぎられてしまった『灰の塔』には、もう花京院の声は聞こえていなかった。

「ギャアアアアアッ!!」

直後機内に響いた断末魔。ただごとではないその悲鳴に皆が視線を聞こえてきた方へ移せば、そこには花京院が気絶させた老人が口を大きく開けて悶える姿があった。だらりと口から垂れる舌と唾液。そんな老人の舌にはクワガタ虫の印が刻まれていた。

「さっきのじじいが本体だったのか。おぞましいスタンドにはおぞましい本体がついてるものよ」

人の血に怯えていたのも全て演技。何の害もない非力な老人のふりをして高みの見物をしていた悪党に、花京院は心底軽蔑するように吐き捨てた。

「花京院くんっ!」

舌が真っ二つに引き裂かれ、額にも致命傷になるほどの裂傷を負った老人。今まで犠牲になってきた者の無念が降り掛かったような、悲惨な姿に変わり果てたその老人を冷めた目で見下ろしていた花京院の傍に神凪が駆け寄る。
口の中の傷は大丈夫なのか。他に怪我はしていないのかとしきりに心配してくれる神凪に、花京院は思わず嬉しそうに破顔した。

「大丈夫ですよ。こんなもの掠り傷です」
「でもまだ血が……!」
「これもそのうち止まります」
「っ、……本当に、大丈夫なの?」
「はい。それに言ったでしょう? あなたの虫除けぐらいにはなるって」

不安そうに揺れる蒼い瞳。その瞳を覗き込んだ花京院は神凪を安心させるように微笑むと、意外と僕も頼りになるでしょう? と少しおどけるように彼女へ告げた。

「ありがとう」

完全に花京院への心配する気持ちが消えた訳じゃあない。ただそれでも鼻を高くしてフフン、と笑う花京院の優しさにじんわりと嬉しさが込み上げてきた神凪の口からは、自然と感謝の言葉が溢れ出した。

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