「間違いないわ……この子は死んでるわ……」

杜王町の一角。勾当台にあるオーソンの前に、杉本鈴美の悲しい声が小さく響いた。

「重清くんは『あいつ』に出会ってそして殺されたのよ……あたしには分かるの。なぜ『あいつ』に出会って、どんな方法で殺されたのかそれは分からない……でも『あいつの仕業』よ」

矢安宮重清。通称重ちーの写真をキュッと握りしめた鈴美は、真っ直ぐな瞳で前を見据えながら重ちーを殺害した犯人は『あたしを殺したあいつの仕業』と、ハッキリ断言した。
嘘偽りない真剣そのものな鈴美の姿に、仗助と億泰から一報を受けオーソン前に集まった善良なスタンド使いたちは、杜王町でとんでもない事件が起きている事態に表情を険しくさせる。

「……重ちーを探したがどこにもいねえ」

何と言葉にしたらいいのか皆が皆考えあぐねている中、重ちーに起きた異変に誰よりもいち早く気づいた仗助がぽつりと、その当時のことを語り出した。

「俺と億泰が重ちーと別れた五分ばかしの間にいなくなった……重ちーの教室の机には教科書や筆記用具はそのまま残され……両親は警察に捜索願いを出している」

恐らく、と仗助は鈴美の話を聞いてその空白の五分間に重ちーは何者かによって命を奪われたのだろうと推測する。だが同時に、仗助の推測によって更に恐ろしい事実が浮き上がってきてしまった。

「つ、つまりその……は、犯人はスタンド使いって……こと?」

 ――犯人はスタンド使い。

「…………」

その言葉を聞いた途端、承太郎と花京院とジョセフの三人はお互いに顔を見合わせる。

「みんなは重ちーのことあんまり知らねーだろうがよ、重ちーのハーヴェストに勝てる奴ってのは考えられねーぜ……」

一度重ちーのスタンド能力の高さを身を持って味わっているからこそ、そんな重ちーを五分の間に殺害し、彼の遺体を学校の中から隠せてしまう犯人は『普通』ではないと、仗助は強く主張した。

「どうやら承太郎、花京院……」
「ええ。相手がスタンド使いと分かった以上、僕達も動かなければなりませんね」
「……仗助!」

スタンド使い以外の事件には手出しすることはできない。当初はそう断っていたが、相手がスタンド使いとなると話は別。どんな理由で殺人に至ったのかは不明だが、何にせよ能力を使って殺人を犯す危険な輩を野放しにはできないため、ついに承太郎たちの重い腰が上がった。

「ボタンを拾ったらしいな?」
「ああ……これっス」

予め伝えられていた情報を元に承太郎が仗助へと尋ねれば、一匹の『ハーヴェスト』が持っていたという洋服のボタンが仗助から渡される。
何の変哲もない、どこにでもあるような普通のボタン。それを承太郎はじっと見つめたかと思えば、「これは重ちーの遺言だな」と確信を持ったように言葉を紡いだ。

「ひょっとすると犯人が着ているものからハーヴェストが引きちぎって来たのかもしれん」
「――!!」
「このボタン預からしてくれ。調べてみよう」
「そ、そんなどこにでもあるようなボタンから追跡できるもんスか?」
「可能性はある……くっついてた服のブランドやメーカーは分かるかもしれん」
「財団の解析班にも僕から声を掛けとくよ」

承太郎の心強い言葉と、花京院が在籍しているSPW財団の強力なバックアップも受けられるとあって、仗助たちに少しの希望が生まれる。
頼りになる承太郎と花京院ならきっと手掛かりを見つけてくれる。誰も声に出さないが、ここにいる皆の気持ちが一つに重なった瞬間――。

「は、話が済んだんならよ……俺は帰るぜ」

しんとしたこの場の空気を、億泰のいつもより低い声が切り裂いた。

「な、なんか妙な気分だぜ……イ、イラついてよ……帰るぜ、オヤジ」

皆の注目を集めた億泰はどこか気まずそうに視線を逸らし、苛立ちや戸惑いがごちゃ混ぜにされたような何とも言えない表情を隠しながら、連れてきた父親と共にこの場を足早に去ってしまった。

「お、億泰くん、なんか変だよ……」

普段の愛嬌ある姿からは想像できないような友人の様子に、康一はどんどん小さくなっていく背中を見ながら思ったことを素直に口にする。
すると、康一の頭上から「重ちーってよ」と、仗助の静かな声が降ってきた。

「すげえ欲深で、ムカつく奴なんだが、なんか『ほっとけねー』ってタイプのやつでよ……」

重ちーを手のかかる弟分のように可愛がり、親交を深めてきた仗助と億泰の二人。だからこそ彼の死を未だに信じることができないし、悲しむべきなのか怒るべきなのかどんな感情を抱けばいいか分からないと、仗助は去っていった億泰と同じように苦しそうな表情を浮かべながら今の正直な心情を吐露した。

「これでみんな動き出すってわけか」

友人を。そして、またしても平和に生きていた杜王町民を失ったことで、それぞれがそれぞれの思いを胸に抱きながら本格的にこの町に潜んでいる殺人鬼を見つけるため、今この瞬間から大きな一歩を踏み出した。

「そういや仗助」

各自が気に掛けられる範囲で怪しい者を探すという方向に話が纏まり、億泰に続いて集まっていた仲間たちが帰路につき始めた頃。何かを探すように何度か辺りを見渡していた承太郎が、未だその場に残っている仗助へと声を掛けた。

「名前はここに来てねえようだが、今回のことあいつにはまだ伝えてないのか?」

どうやら承太郎は、名前の姿がどこにも見当たらないことを不思議に思ったらしい。
杉本鈴美の事件を聞いた時、誰よりも「何とか協力できないのか」と財団を動かせる花京院やジョセフに直談判した名前のことだ。きっと今回の事件でも積極的に犯人捜索に乗り切ってくれるだろうになぜ居ない? と言いたげな翡翠の瞳が仗助を捉える。

「――え?」

承太郎の指摘に花京院やジョセフ、露伴までも名前が居ないことに少なからず疑問を持ち始める中。承太郎のその言葉を聞いて一番不思議そうな声を上げたのは、名前の所在を尋ねられた仗助自身だった。

「どうした?」
「いや、あの……承太郎さんって、名前さんと一緒じゃあないんスか……?」

怖々と承太郎に尋ね返した仗助の声は、微かに震えていた。その様子は髪型に留まらずいつも心身ともにビシッと決めている彼らしくないものであったが、それも無理のない話なのかもしれない。

「名前さん、今家に居ないんスけど……」

なぜなら仗助は、今の今まで名前は承太郎や花京院たちと共に居るものだと、そう思い込んでいたのだから。

「……なに?」
「昨日名前さん家に帰ってこなかったんス……それで、名前さんが他に寝泊まりするっつったら承太郎さんの所しかねえと思ったから、俺はてっきり……ッ!」

昨夜の出来事を話していくうちに段々と眉間に皺が刻まれ、険しくなっていく承太郎の顔に、仗助の中で焦りや戸惑い、そして恐怖が混じり合った感情が大きく膨れ上がっていく。
承太郎の所にも、花京院の所にも、ジョセフの所にも名前は来ていないとなると、一体彼女はどこへ行ってしまったのだろうか?

「生憎だが僕の所にも名前は来ていないぜ」

それは無意識だったのだろう。どうにか名前の居場所を確かなものにし、安心したくて仗助は無意識に縋るような視線を露伴に向けていたらしい。だが、その視線に気づいた露伴から返ってきた答えも、仗助が望むものとは程遠いものだった。

「っ、名前さんどこに行ったんだよ……!」

どこにも見える気配のない名前の影に、とうとう仗助はここが往来の場であることもお構いなしに声を荒らげる。ふーふー、とまるで動物が威嚇をするかのように肩で息をする仗助は誰がどう見ても苛立っており、とてもじゃないが物事を落ち着いて考え話せるような状態ではなかった。その証拠に、仗助の荒れる姿を見て「落ち着け」と声を掛けた承太郎にすら仗助はキッと鋭い眼光を向けた。

「これが落ち着いてられっかよ! 名前さんがどこにもいねえんスよ!? 家どころか承太郎さん達を含めたどこにもッ!!」

承太郎さんは名前さんのこと心配じゃないんスかと、口にすることはなかったが目だけで強く訴えてくる仗助に、彼を制するように見下ろしていた承太郎の目がスッと細められる。
もちろん承太郎だって名前が東方家に帰っていないと聞いて心配しない訳がなかった。それこそまた、どことも分からぬ場所へ行ってしまったのではないかと最悪なことさえ考えてしまうくらい、承太郎も内心では仗助と同じように激しく動揺していた。

「仗助……お前の今の気持ちを俺はよく分かっているつもりだ。そばに居ることが当たり前だと思っていた名前が居なくなった時、俺はとてもじゃあないが平静を保てなかった」
「……!!」
「どこに行きやがったと苛立ちもしたし、二度と会えねえかもしれねえと焦りもした。探しても待っても見つけられない名前の姿に、柄にもなく泣きそうになることだってあったぜ」
「承太郎さん……アンタ……」

今思えばあの時の俺は正気でさえなかったのかもなと、承太郎は帽子の鍔先を下げながら自嘲気味に笑った。何事にも動じない完全無欠だと思っていた男の初めて知った弱い姿に、仗助は目を見張った。そして、驚きと同時に自分が彼のことを誤解していたことを思い知らされた。
ここにいる者の中で誰よりも名前のことを一番に探して一番に安否を確かめたいのは、自分よりも何倍も名前を失うことの怖さを知っている承太郎なのだと。

「今すぐ探しに行きてえ気持ちもよく分かる。だが、もうすぐ完全に日が落ちるこの時間帯に無闇に動き回るのは得策じゃあねえ」
「じゃあ、このまま帰るってことっスか?」
「ああ。特に仗助……お前は重ちーくんと友人関係にあったからな。そこから殺人鬼が接触してこないとも限らん」

昼間と夜間では遥かに捜索の力に差が出てしまう。名前の居場所に心当たりがない今、頼れるのは町民からの目撃情報だ。特徴的な名前の容姿や服装はきっと誰の目にも留まりやすい。
だが、夜間では町中を出歩く者は昼間に比べて圧倒的に減ってしまう。更には人間の印象は明るい場所と暗い場所では異なって見えるため、情報の信憑性が薄まってしまう。そこに加えまだまだ学生であり、殺人鬼の標的となった重ちーと親しい仲である仗助の安全面を考慮すると夜間の捜索、聞き込みは控えた方がいいと言うのが承太郎の意見だった。

「心配するな。名前はすぐ見つかる」

しっかりと筋の通った意見と力強い言葉に、最後まで渋っていた仗助も承太郎の意に従うようにようやく首を縦に振った。

「そう、スね」

もしかしたらすぐに見つかるという言葉通り、心配は杞憂に終わり帰ったら「ごめん仗助〜」と申し訳なさそうに眉を下げて笑う名前の姿があるかもしれない。そうなればどこに行ってたんだと詰め寄り、仕置きと称して次こそは彼女が止めてと泣いてもくすぐり続けてやろう。
そんな幸福に満ちた未来を思い描き、仗助は今度こそ勾当台のオーソン前から自宅がある定禅寺方面へと歩き出した。

「…………」
「承太郎……わし達も戻ろう」
「勿論僕も君の気持ちは痛いほど分かるけど、言い出しっぺが守らないのはいただけないよ」
「……ああ。分かってる」

オーソン前に最後まで残った影は三つ。
その中でも一際大きな影は、まるで先程の仗助のようにこのまま何もせずに帰ることを渋っていたが、やがて先を歩く二つの影に続いてその場に縫い付けられていた足を動かした。


「――どうか無事でいて」

波長の合う者たちが全て去り、オーソンと薬屋の間にあった小道が誰の目にも留まらずひっそりと姿を消した時。その奥で一人の少女が自分のために行動に移そうとしてくれた心優しい兎を思い涙を流していたことは、彼女のそばに寄り添う一匹の大型犬しか知らない。


* * *


ポタリ、ポタリと滴り落ちる赤い雫。

「くそッ!」

固く握った自身の拳から流れ出た血が畳へと落ちていく様を見た名前は、珍しく荒れた言葉を吐き出していた。

「早くここから出ないと……!」

擦り傷だらけの左手はもうずっと前から痛みを訴え続けている。だが、そんなもの気にしていられないとでも言うようにもう一度強く拳を握り直した名前はダンッ! と目の前に立ち塞がる"見えない壁"に叩きつけた。

「くっ……、」

とてつもない威力を持った拳と壁がぶつかったことを示すように、名前の周りを包む空気がビリリと振動する。

「っ、ほんとに……ここまで来ると私の自信ってものが先に無くなりそうだよ……」

しかし、空気が揺れる程の衝撃をもってしても彼女の目の前にある"見えない壁"が壊れることはなかった。拳から痛みと共に伝わってくる壁の確かな存在に、名前は何度目か分からないため息をつく。

「フンッ! 自信も何も、そんなことをしても無駄だと言っとるのにまだ分からんのか!」

そんな時、名前の耳に彼女以外の声が届いた。

「…………」

馬鹿にしたような嗄れた男の声に苛立ったのかキュッと眉を潜めた名前は、ちらりと目線を声が聞こえてきた足元の方へ移す。そこには一枚の写真が落ちていた。

「吉影の邪魔はさせんぞ小娘ェ……!」

そう。何を隠そう先程から名前に敵意を剥き出しにしている男の声は、彼女の足元に不自然に落ちている写真から聞こえてきていたのだ。
声色同様に表情にもあからさまな敵意を表した年配の男は、写真の中から名前を恨めしそうに見上げては『吉影はわしが守る』と意気込み鼻息を荒くさせた。

(まさか鈴美ちゃん以外の幽霊がいるとはネ)

しかもめちゃくちゃ厄介、と名前は男からの恨みつらみを聞き流しながら今一度目の前に存在する"見えない壁"を見上げた。

(悔しいけど……やっぱりどう頑張っても素手じゃ壊れないかぁ……)

皮が剝け傷ができるまで何度も何度も壁に向かって拳を叩きつけていた名前だったが、彼女自身が一番その行為が無駄なものであると分かっていた。これが何の変哲もない普通の壁だったら簡単に抜け出せていただろう。だが、まるで現実世界から切り離すように四方に立ち塞がった壁は、名前の力を持ってしても壊れない普通ではないものだった。

 ――スタンド使いは引かれ合う。

何の因果か。既にこの世から他界し、実態を持たない幽霊となった写真の中だけに存在する男――吉良吉廣もまた、息子の吉良吉影と同様にスタンド使いだったのだ。

「手っ取り早いのは、本体を叩くこと……」

吉良吉廣の能力がどんなものかは攻撃されている今も確かなことは分からないが、スタンドはスタンドでしか倒せない。この事実は確かなものであるため、過去『太陽』のスタンドに襲われた時に承太郎が言っていた言葉を思い出した名前は、徐に未だごちゃごちゃと話している吉良吉廣と自分自身が写る写真を拾い上げた。

(破ったらどうなるんだろう)

仮説の域を過ぎないが、スタンド能力が発動したタイミングは吉良吉廣によって写真を撮られてからだ。そして、彼はその写真から全く動くことなく恨めしそうな視線と言葉を投げかけてきていた。動けないのかあえて動かないのか。どちらが正しいのかなんて今の名前に知る由もないのだが、何にせよ彼が写る写真にアクションを起こしてみればそこからこの状況を打開するヒントが生まれるのでないだろうか。

(よしっ、物は試しだよね!)

写真を破ろうとして吉良吉廣が焦りの反応を見せてくれれば上々。そうすればその好機を逃すことなく利用してここから出ればいい。そう吉良吉廣にバレないよう胸の内に密かに脱出の算段を立てた名前は、それを実行しようと写真の端と端を両手の指で摘んだ。が――。

「ただいま名前」
「――ッ!!」

いざと言うこのタイミングで、名前の耳に吉良吉廣よりも厄介で危険な男の声が届いてきた。

(まずいっ!)

帰ってきたことを知らせる声にハッと顔を上げた名前は、ここで初めて壁にかかっている時計に目を向ける。時刻はもうすぐ夕方の7時になろうとしていた。吉良吉廣のスタンド攻撃をどうにかしようとするあまり、肝心な吉良吉影の帰宅時間を配慮することを名前はすっかりと忘れてしまっていたのだ。

「遅くなってすまないね。本当はもっと早く帰ってくるはずだったんだが、全く不運なことに道路工事があって渋滞しててね……一人は寂しくなかったかい?」

(どうしようっ、)

吉良の言葉の節々から聞こえてくる扉の施錠音や廊下の板が軋む音に、名前は焦りから思わずその場にしゃがみ込んだ。もう数秒ともしないうちにここへ彼が来てしまう。
ただでさえ一人でも面倒な吉良吉廣に加えて、スタンド能力だけでなく本性すら計り知れない吉良がいる場面に果たして好機など生まれるのだろうか。

(私はどうしたら……)

よく知りもしない場所で一人。DIOの館に攫われて来た時よりも遥かに感じる不安に、名前は右手の薬指に嵌っている承太郎から貰った指輪に触れる。触ったからと言って何かが起こるわけではないが、落ち着くような安心するような気がして触らずにはいられなかった。

(……承太郎なら、)

もし、ここにいるのが承太郎だったら彼はどんな行動に出るだろうか。数々の窮地を持ち前の冷静な判断力と、迷いのない行動力で切り抜けてきた彼ならきっと――。

「――名前?」

ふとすぐ傍で聞こえてきた吉良の声。

「こんな所で何をしているんだい?」
「き、吉良さん……っ、」

少しトーンの違う声に恐る恐ると名前が顔を上げてみれば、感情の読めないような目と表情で見下ろす吉良がそこにはいた。初めて目にするいつも穏やかに微笑んでいる吉良とは別人のような冷たい印象の吉良に、名前は本能的に彼がどれだけ危険かを感じ取った。

「ここは私の部屋だが」
「っ、それは……」
「吉影ェ! この小娘を今すぐ始末しろッ!」

もしかしたら今ここで殺されるかもしれない。あり得なくはない展開が頭を過った名前が吉良の『なぜこの部屋にいる』という問いになかなか答えを出せないでいると、最悪なことに彼女の手の中にあった写真が意思を持ったように動き、あろうことか吉良吉廣が息子に向かって大きな声を張り上げた。

「この小娘はとんだ女狐だッ! お前を油断させようと寝たフリを決め込み、家を空けた途端お前のことを嗅ぎ回っておったぞッ!」
「寝たフリ? 名前は確かに睡眠薬入りの飲み物を飲んでいたはずだが……」
「いいか吉影! お前が連れてきたその小娘は普通じゃあないッ! わしや吉影と同じような力を持っているのもそうだが、こいつ頭が相当いかれちまってるぞッ!」

見ろあの血だらけな左手を、とスタンド能力によって生み出された"見えない壁"と戦い負傷した名前の左手を指さしては、呆れたように自分でやったんだぞと話す吉良吉廣。

(……このおじさんホント嫌い)

正常とは違う精神だと、そう言いたげな目をこちらへ向けながら力説する吉良吉廣に少なからず名前がカチンと頭にきていると、不意にしゃがみ込む名前の前に影がかかった。

「どうしたんだ名前ッ!?」
「……え、」

その影の正体は紛れもない、つい数秒前まで訝しそうに父親から名前の話を聞いていた吉良本人だった。

「何でこんな怪我をッ!?」
「なんでって……えっと、」
「よ、吉影?」

どうしたんだ、何があったんだと酷く取り乱したように左手の怪我の具合を心配してくる吉良には先程までの冷たい印象など全くなく、そのあまりの変わりように名前だけでなく吉良吉廣でさえ困惑した。

「ああっ、私の名前の美しい手がこんなに傷だらけになってしまって……!」
「なあ吉影よ、聞いておっただろう? この小娘は普通じゃあないんだ。その傷だってお前が心配することは一切な――」
「父さんは黙っててくれないかッ!」
「よ、吉影ェ〜〜ッ」

あまり反抗的な態度を取ってこなかった息子からの怒声に、吉良吉廣は今までの威勢をかき消して何とも情けない声を上げる。どうやら息子のためを思う父親の言葉は、普通じゃないと罵った名前の前では邪魔でしかないようだ。
終いには手当をするから早くスタンド能力を解くようにと指示を出す吉良に、本気かと吉良吉廣は驚きに目を剥いた。

「何を言っている吉影ッ! この小娘はお前の平穏を壊そうとするとんでもない奴だぞッ!? それなのに解放したらお前が何をされるか、」
「父さんこそ何を言ってるんだ? 名前は僕のこれからの人生に欠かせない存在なんだ。その彼女が怪我をしているなら僕が手当をしてあげるのは当然のことだろう?」

何か間違ったことでも? と心の底からそう思っている様子の息子の姿に、吉良吉廣はとうとう何も言えなくなってしまった。

「大丈夫だよ名前。すぐに私がその左手の傷を手当してあげるからね」

大人しくなった父親を後目に様子を伺うように見上げてくる名前に微笑んだ吉良は、彼女の所在なさげに動く左手にそっと手を伸ばした。
するとどうだろう。余程さっきの言葉が効いたのか、息子には素直な態度でいたいのか。どちらにしても、あれ程頑なに名前を写真の枠の空間から出そうともしなかった吉良吉廣は能力を解除したらしい。本来能力を掛けられた者には触れられるはずもないのに、吉良の伸ばした手は名前の左手を優しく握ったのだった。

「痛むだろう? さあ早くこっちへ――ッ」

しかし、吉良の手は彼が言う人生に欠かせない存在の名前によって振り払われてしまった。
まさかあの名前から振り払われると思いもしていなかった吉良は、弾かれた痛みも相俟って大きく目を見開く。だが悲しいかな、彼の身に降り掛かった災難はそれだけではなかった。
揺れる視界に、ふわりと宙に浮いた体。そしてその直後に背中を襲った鈍い痛みと衝撃。

「っ、ぐっ……!」
「吉影ェ!?」

手を振り払われただけに留まらず、そこに生まれた隙を突かれて名前に無駄のない華麗な足払いをされた吉良は、バタンッと大きな音を立てて畳へと叩きつけられたのだった。
痛みに低く呻き声を漏らし眉を顰める可愛い息子の姿を目の当たりにした吉良吉廣は、射殺さんばかりの恨みが籠った鋭い視線を押さえつけるように吉良の上に跨る名前へと向けた。

「貴様あッ……吉影自身だけじゃあなく吉影の優しさまで踏みにじったなァ!? 殺すゥッ! 貴様は今すぐわしが殺してや――」
「私に何かしようとしたらその瞬間吉良さんの首をへし折るからッ!!」
「ぐっ、ぐぬぅ〜〜小娘ェ〜〜ッ!!」

凄まじい殺意とおどろおどろしい怨念が滲み出た吉良吉廣の言葉は、聞いた者の肝をそれはもう冷やし震え上がらせたことだろう。しかし、またとないチャンスを得た名前には全くと言っていいほど通用しなかった。それどころか息子を人質に取られてしまった以上、彼は血涙を流す勢いで自分を睨みつけてくる蒼い目を睨み返すことしかできないでいた。

「名前。一体どうしたんだい?」
「あなたは何が目的なんですか」

手の平から伝わってくる声帯の振動に吉良吉廣から自分の手元に名前が目を移せば、急所を掴まれているのにもかかわらず平静そのものな吉良が見えた。男の首の骨なんて女が折れるはずないと思い込んでいるのか、一切焦る様子を見せない吉良に名前は『口だけじゃない』ことを伝えるため少し握力を強めながら、彼を問い詰めていく。

「吉良さんは嘘をついてた。昨日私が話の途中で寝てしまったから、だから仕方なく自宅に運んだってそう言ってたけど……本当は違う」

例え寝不足だったとしても人と会話をしている最中、それもよく知った仲でもない相手を前にして不用心に眠る人は早々いないだろう。特に外では無防備な姿を晒すなと、その身を持って承太郎から教わった名前であれば尚更だ。それなのに名前は二度顔を合わせただけの吉良の前で無防備にも眠ってしまった。
酷く疲れていたのだろうと吉良は言った。人間誰しも寝落ちしてしまうことがあると、とても優しく、とても誠実そうに。だがしかし、彼の言葉の裏には常識の範疇を越える恐ろしい出来事が隠されていたのだ。

「あの時吉良さんはスタンドを使って私を気絶させた。首の裏に感じる痛みからあれは手刀、だったのかな。もしかしたらスタンド能力かもしれないけど……どっちにしてもあれは吉良さんが故意にやったこと、ですよね」

吉良のスタンドの姿を直接見たわけではない。しかし、それでも吉良がスタンド使いであり、その力を悪い方に利用したことは断言できる。
名前は前世で培われた自分自身の動物的直感を信じてるし、それに何より箪笥の中に隠すように仕舞ってある『弓と矢』が証拠だ。隠すということは何か一ミリでもやましい気持ちがあるということだ。

「なんで、こんなことを?」

理想やら何やらと語っていた吉良のことだからきっとそれ相応の理由があるのかもしれない。そう確信を得た名前は、スッと鋭く細めた目で吉良を見下ろす。恐らく一癖も二癖もある彼はこちらが思っている以上に簡単には話してくれないだろう。だがそれでもしり込みしていてはダメだ。本能が警鐘を鳴らす程の人物をみすみす逃す訳にはいかないため、どんなに時間が掛かっても本性を暴き、父親と『弓と矢』共々も正義の心を持つ彼らに引き渡さなければ。

「名前が欲しいからだよ」
「えっ」

相手の出方次第では最悪……と吉良の首を掴む自分の右手に、覚悟を決めた名前が視線をチラッと移したその時――。

「な、に……!」

拍子抜けする程簡単に口を開いた吉良の手が、名前の右手へと不意に重なったのだった。
唐突な吉良の行動と呆気なさすぎる自白に名前は驚き、思わず彼の手を振り払い距離を取ろうとしてしまう。しかし、ここで離れてしまえばせっかく大人しくなった吉良吉廣がまたしてもスタンドを攻撃を仕掛けてくる可能性が十分に高いため、名前はそうしたくなる衝動をグッと堪える。

「っ、……欲しいというのは、」
「言葉の意味そのままだよ。この透き通るような白く美しい手だけでなく、すらりと伸びる脚も、小さな顔も、優しい心も……全部が美しい名前だから私の傍にずっと居てほしいんだ」

熱に浮かされたようにうっそりと笑いながら、吉良は重なった名前の手をすりすりと撫でる。その手付きはただ慈しむと言うより性的な……端的に言えば愛撫をするかのような厭らしい手付きで、名前は思わず表情に嫌悪感を出してしまう。

「だからってこんなこと……」
「初めてだったんだよ。ここまで一人の人間に強く惹かれるなんて……今までにも美しい子は確かにいたけど、名前の足元にも及ばないよ。名前は世界一綺麗で、世界一愛しい」

これが好きな相手だったらどんなに嬉しいことだろうと思えるような愛の告白。以前DIOから似たような愛の言葉を囁かれた時、名前は体が熱くなるような羞恥の中にも『嬉しい』という感情を胸に抱いた。それは少なからずDIOに好意を持っていたからで、嫌だという否定的な気持ちは湧き上がらなかったからだ。
しかし、今回の相手は人ひとりを白昼堂々と誘拐してしまう底が知れない男であるため、残念ながら名前は吉良の言葉に何一つときめくことはなかった。ときめくどころか、むしろ名前は吉良が言葉を発していく度に彼への印象がどんどん下がっていくのを感じていた。

「吉良さんの目的は大体分かりました。でも、あなたの気持ちに答えることはできないです」
「どうしてだい?」
「どうしてって、それは――」

どうしてだなんてそんなもの昨日からの自分の行動を顧みれば否定されることなど容易に考えつくはずだ。それなのに何故断られるのか心底分からないと言ったように尋ねてくる吉良に、名前は少し困惑しながらもハッキリこの状況は異常で、吉良の思考は理解できるものではないことを告げようとする。

「もしかして、仗助とか言う奴のせいかい?」
「――ッ!?」

だが、嗚呼と一人納得したように息を吐いた吉良の口から飛び出してきたよく知った少年の名前に、名前は言葉の続きを紡ぐことができなくなってしまった。

「な、なんで……仗助の名前……っ!」

平凡な会社員とヤンチャな高校生。年齢も性格も違う、きっと町中で出会ったとしても互いに気にも留めないような接点も共通点もない正反対な二人が知り合いだとは思えない。だからこそ吉良が仗助を知っていることが不思議でならない名前は、震えて張り付く喉から何とか声を絞り出す。

「彼は名前のことをよく知った深い仲のように友人たちに話していたよ。まるで一緒に住んでいるみたいな口振りだった。全く……こんなにも純粋な名前が古臭い髪型をした高校生の不良になんて興味ないのにね」

そうだろう? と名前の問いには答えずにただただ肯定を促すよう尋ねてくる吉良に、名前の頭の中ではガンガンとひと際大きく警鐘が鳴り響く。この吉良吉影という男はこちらが思う以上にヤバい。父親や『弓と矢』と共に彼を財団へ差し出すために行動を……なんて考えは甘かった。彼は一人で手に負える人物ではない。ならばここは一刻も早く逃げて承太郎や典明に知らせないと――。

「でも安心してほしい。私の持つ能力はかなり便利なものでね、跡形もなく消し去りたいと思った物は全部消せるんだ」
「――えっ」
「それが例え人であろうともね」

任せてくれと言わんばかりに誇らしげな笑みを浮かべる吉良。そんな彼の手にはいつの間にか名前のものではない、別の女性の手が握られていた。あまりにも理解不能な光景に何とか逃走を図ろうと考えていた名前の思考が止まる。

「名前がその仗助に言い寄られて困っているようなら、私とこのキラークイーンが君の力になってあげるよ」

カチッ、とスイッチのような物が押される音。目の前から黒い煙を上げて消滅する女性の手。鼻につく肉が焦げたような嫌な臭い。

「っ、あ……」

五感を通して目の当たりにした本当の狂気に、屈するものかとここまで気を張り続け、必死に堪えていた名前の体からとうとう力が抜ける。

「傷の手当をしたら夕飯を一緒に食べようか」

猫のような四つの目が三日月型に細められる様を見て、可哀想な兎は首を縦に振ることしかできなかったのだった。

back
top