一筋の光すら入り込むことを許さぬとでも言うように、窓という窓には分厚い遮光性のあるカーテンや、大きな木の板でこれでもかと目張りが施された部屋が一つあった。その部屋は夜よりも濃い闇に覆われていて、まさに"夜闇"と呼ぶに相応しい場所だった。
そこに突然灯った小さな明かり。頼りなさげな細い蝋の上でゆらゆらと揺れ動く小さな炎は、やがてぼんやりと一人の男の姿を映し出した。
闇の中でも自ら光り輝く程の美しい金糸の髪を持った男は、ギリシャ彫刻のような肉体を惜しげもなく曝しながら、甘く蕩けるような琥珀色の瞳で目の前の女性を見つめていた。

「……ああ。本当にお前は愛らしい」

柔らかく指通りの良さそうなサーモンピンク色の綺麗な長い髪。その髪と同色で長く豊かな目元に影を作る睫毛。陽の光を浴びてきらきらと輝く海のように蒼い大きな瞳。顔の中心をすっと通る小さく高い鼻。ぷるんと艶やかで、甘く美味しそうな桃色の唇。思いきり噛み付きたくなるような、これでもかと透き通った白い肌。
どれもこれもが美しく、愛らしい女性の頬を指先でするりと撫でた男は恍惚の溜息を深く吐き出すと、彼女を連れて広い天蓋付きのベッドへとその逞しい身を預けた。

「早くお前に"逢いたい"ものだな」

ようやく手が届く距離まで近付けたのだ。早いところ目障りな星共を排除し、安寧した世界でお前と共に――。

「陽の光に愛されない者同士、共に夜を愛でようではないか――名前」

"写真"に写る全く視線の合わないこの世で唯一の存在――名前へと美しく、そして優しく微笑んだ男は、シーツの海へと深く沈んでいった。


* * *


「っ、くしゅん……!」

不意に鼻腔を襲ったこそばゆさに耐え切れず、名前から小さなくしゃみが出る。

「うー……誰かに噂されてるのかなぁ、」

くすん、と鼻を鳴らしながら周りに誰も居ないのをいいことに、何となく良く聞く迷信を名前はぽつりと呟いてみた。確かくしゃみ一回はいい噂をされている、と記憶している。

「んふふっ」

誰かが自分のいい噂を囁いている。絶対的な確証などないが、そう思うと少しだけ嬉しくなってしまうのは紛れもない事実で、その事実に名前の頬は自然と緩んでいく。しかし――。

「何ニヤついてんだよ」
「ひゃっ!」

彼女の幸せそうに緩んだ頬は、突如として横から伸びてきた大きな手によって"みょーん"と音が聞こえそうな程に引っ張られてしまった。
微かに頬に走る痛みと、耳に届いた低く落ち着きのある声に名前が慌てて顔を上げてみれば、いつの間にか隣には黒い学生服を着た背の高い少年が立っていたのだ。

「承太郎!」
「そんな脚出した寒ぃ恰好してりゃ、くしゃみの一つや二つも出んだろーよ」

名前から『承太郎』と呼ばれた背の高い少年――空条承太郎は、エメラルドの宝石を彷彿とさせる綺麗な翠色の瞳で、名前の大胆にも太腿まで曝された真っ白な脚を見下ろした。

「えっ……も、もしかして聞いてた?」
「ああ。最初からな」
「っ、やだもう最悪……!」

まさか噂云々の独り言を聞かれていたとは思いもしていなかった名前は、承太郎に摘まれたままの頬を朱に染める。いくら承太郎が"幼馴染み"という近い関係にあると言えど、独り言を聞かれるのは恥ずかしかったのだろう。

「……やれやれ」

白いお餅のような柔肌がほんのりと、羞恥心で赤く色づいていく様を呆れたように……、でもどこか優しげに眺めていた承太郎は、小さく息を吐くとムニッと名前の頬を一段と強く摘んでからその手を離した。

「いたいよっ!」
「風邪ひきたくなかったらもっと露出の少ねえ恰好しやがれ」
「うっ……それはそうなんだけどさぁ、」
「それに、そんな派手な恰好で校門前に突っ立ってんじゃあねえよ。目立って仕方ねえ」

目立つと、承太郎からそう指摘された名前は、そろそろと視線を自身の体の方へと下げる。
そんな彼女の目に映ったのは、目が覚める程の深い紅色をした、脚の露出が多いチャイナドレスであった。確かに承太郎の言う通り、なかなかに高校の正門前で人を待つには派手な服だ。

「っ、でもでも! せっかく買ったから着てみたかったんだもん!」
「家で着てりゃいいだろ」
「分かってないなぁ! 新しい服買ったらそれを着て出かけてみたいの!」

女心を全く分かっていない承太郎にすっかりと赤みの引いた頬をムスッと膨らませた名前は、徐に承太郎から軽やかな足取りで離れると、その場でくるりと一回転をして見せた。
さらりと、彼女だけが持つ綺麗なサーモンピンク色の長い髪が揺れる。

「どう? 似合ってる?」

不満げな表情から一転。可愛らしい笑みを浮かべながら小首を傾げる名前に、承太郎はまるで陽の光を見た時のようにスッと目を細めた。
正直、先程『派手』と評した新調したばかりだという深紅のロング丈チャイナドレスは、名前の白い肌とスタイルの良さを際立たせており、とてもよく似合っていた。それはもう、校舎に残っていた生徒や教師の話題に上がる程に。
しかし、素直じゃない上に名前が注目の的になっていたことがどうにも気に食わなかった承太郎は、思っていることとは全く真逆の「微妙」という意見を伝えると、長い学ランを翻して名前の横を通り抜けて行ってしまった。

「もうっ! 微妙ってなにヨ!」

ふわりと鼻についた煙草の匂いに釣られ反射的に後ろを振り返った名前は、『微妙』という、感想を求めた側からしたら一番最悪な言葉に再び子供のように頬を膨らませると、先を行く大きな背中目指して「えいっ!」と勢いよく手の平を振りかざした。

「――ぐッ!」

途端に人も疎らな閑静な通学路にバチンという痛そうな音と、唸るような呻き声が響き渡る。

「っ、てめえ……」
「微妙って言った仕返し!」
「アホか。限度ってもんがあんだろ」

遠慮のない平手打ちに、名前を見下ろす承太郎の眼光が鋭いものへと変化する。
学校一の不良と称される承太郎からギラついた目で見下ろされれば、大抵の人間の場合は尻込みするか頬を染めるかのどちらかだった。が、名前だけは違った。

「んふふっ! これでお相子ね!」

彼女だけは無邪気に笑って、承太郎の鋭い目を真っ直ぐと見上げていたのだ。

「……やれやれだぜ」

全く『お相子』とやらになっていないが、子供の頃から変わらない笑顔を見せる満足そうな名前に毒気を抜かれた承太郎は、吸い込まれそうになる蒼い瞳から視線を逸らすように制帽の鍔を下げ、歩幅を広げた。

「あっ! 待ってよ承太郎!」

背の高い承太郎が歩幅を広げたことで必然的に開いていってしまう距離に、名前が慌てて追いかけようとした。その時――。

 ――名前、俺はお前を愛している。

「!!」

不意に名前の耳を冷たい冬の風に混じって、愛を囁く男の声がするりと撫ぜた。

「……いま、」

確かに聞こえた自分の名を愛しげに呼ぶ声に、名前はそっと耳に触れながら後ろを振り返る。しかし、後ろを見ても辺りを見渡してみてもこの場にいるのは自分自身を省いて、愛を囁くには程遠い承太郎ただ一人だけだった。

「気のせい、だったのかな……?」
「おい、名前。早くしろ」
「! 待って今いく!」

結局、『愛している』というストレートな愛情を口にする人物も心当たりも見つからなかった名前は、承太郎の催促する声に従って何事もなくその場を駆け出した。


2021.1.25. 加筆修正

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